第七部 海月視点

 建平三年、五月。海月城のその奥。
 海月太守の私的な空間の一つ。
 その中でも、最も広く上等な部屋。
 部屋に立ち入るのは、太守自身と許されたわずかな女官だけ。
 その部屋の主は、げんなりとした顔をしていた。
 齢十四、カイ・ゲッカ。
 大陸を制覇した鳥陵皇帝が『海姫』という号を贈った珍しい少女だった。
 そして、現在は海月太守の婚約者だった。
 先だっての玉棺との戦--後の史書で語られる色墓の戦いーーで戦功を挙げた海月太守の褒賞として、鳥陵皇帝の後宮夫人のように下賜された。
 そんな噂がつきまとう少女である。
 ただ海月城で働く者は、そんな噂は笑って過ごすだけだった。
 あの海月太守が目に入れても痛くないほど耽溺している。
 そのことを知っているからだ。
 ゲッカは鮮やかすぎる色彩の絹の反物を広がる床を見つめていた。
 どれもこれも、軽やかな薄絹。
 この辺境の地では見られないはずの物だった。
 いくら夏に近づくとはいえ、こんなに薄かったら風邪をひいてしまう。
 薄絹は、染めも、織りも、刺繡も、特級品だった。
 それこそ皇帝や公主が身にまとうような。
 ゲッカ自身も絹をまとっていたが、それとは別格だ。
「お気に進みませんか?」
 春蘭が問う。
「姫様も、だいぶ背丈が伸びましたから、新しく仕立ててなければ。
 急ぎの用ですよ」
 大柄な女官はいくつかの薄絹を未だ幼さなさが抜けきれない少女の肩に合わせる。
「これ、全部、鳳から?」
 鳥陵皇帝の字を呼び捨てできるほどの寵愛だった。
 当人、まったく気がついていなかったが。
「そうですよ。
 それとも朱鳳に行きたくないのですか?
 せっかく太守もご一緒に行かれるのですから」
「……離れたくないけど。
 なんとなく嫌な予感がする」
 人が持つには過分と言われる稀有な双眸は、漠然と不安を訴える。
「それに建国祭は七月ですわ。
 秋になるまでお一人でこちらに居られますか?」
 春蘭は新しい薄絹をあてる。
 柔らかな薄絹は、淡い色合いが多かった。
 字である華月に合わせて、紅中心ではあったが。
「久々にファンに会えるのは嬉しいし、その新しい婚約者に会えるのは楽しみだけど」
 ゲッカは手紙に書かれていたことを思い出す。
 シミ一つない白い肌が怜悧でありながら無邪気なふるまいをして、人を魅了する麗しい十六夜公主。
 正しく一夜分だけ欠けた月。
 鳥陵皇帝であるホウスウが当時十七の時に、宴の席で吟じた言葉から誰とはなしに呼び始めた綽名。
 芸術に通じる洒落者のホウスウが好んで呼び、皇帝に即位したときに妹姫に号として贈られた。
 この大陸、唯一の公主。
 出会いこそ最悪だったが、ゲッカとは文通をする仲になっていた。
 小字のひとくさりを特に赦されて呼ぶことができる。
 という絶大な信頼関係を築き上げていた。
 十六夜公主曰く、当時『海姫』と呼ばれ王宮であった鷲居城でのゲッカの発音があまりにも耳障りだった、ということだった。
 すでに鳥陵皇帝だった鳳の字の発音だけは正しかったから、小字だったファンファン(鳳々)という音を教えられ、それを縮めてファンと呼んでいいことになった。
 以来、五つ年上のはずの公主の目新しい玩具のように可愛がられた。
 飛一族の末子として育てられた公主にとって、妹のような存在が欲しかったのだろう。
 親族とは縁が薄かったゲッカにはわかりづらい感情だったが。
「沖達とは離れたくないけど。
 心がざわつくんだよね。
 まるで、戦場に行くみたいに」
 ゲッカはそっと零した。
 あいかわらずその視線は床に落ちていた。
「あら、この大陸は平和になられたのですよ」
 春蘭は気落ちする主に向かって微笑みかける。
「……うん」
 ゲッカは頼りげなくうなずいた。


 同刻。海月城の立ち入り禁止区画に顔を出した男がいた。
 よく日に焼け、だらしなく鳥陵の官服を身に着けている。
 狭い書斎の書卓の上には、珍しい物が並んでいた。
「よお、鉄槌。しけた面してんな」
 堂々と部屋に入り、書卓に手を置いた。
 それを咎める風でもなく、海月太守であるカイ・ロウタツは作業を続ける。
「戦争でも行くのか?」
 慈恵は言った。
「心境としては近いな」
 珍しくロウタツが歯切れ悪く言った。
「……勝算は?」
「かなり分の悪い賭けだ」
 カイゲツの民に多い鉄色の瞳が弱気を呟いた。
「それでお姫さん、連れていくのか?」
「不安定要素はできるだけ減らしたい。
 私の生命ぐらいなら、かまわないが」
「あの堅実なカイゲツ宰相がね。
 そこまで分が悪いのか。
 俺は……城に残った方がいいのか?」
 慈恵は真摯に尋ねた。
「もし、私の身に何かあったらカイゲツを頼む」
 鉄色の瞳は覚悟を決めていた。
「そんな遺言みたいなことをマジで言わないでくれよ。
 二人が帰るまでは、何とかやっておくから。
 まあ、ほどほどにな。
 じゃあな」
 どこまでも陽気な男は、ひらひらと手を振ると立ち去った。
 残されたロウタツはためいきをかみ殺した。
 書卓の上に広げる。
 流麗な墨蹟で書かれた竹簡が一つ。
 鳥陵皇帝からの親書だった。
 同じ歳のはずの漢の真意が見えない。
 正確には理解したくない。
 そして、脳裏に掠めるのは弱冠にすらなっていない稀代の天才。
 鳥陵の一地域になったとはいえ、色墓の豪族の絲の当主であり続けた少年。
 あの息をするように人を殺すと呼ばれた絲一族の唯一の緑を赦された子ども。
 軍略の才とその厳しすぎる軍規を徹底させたことにより、白厳の君と呼ばれたかつての南城の城主。
 南城は対玉棺の要。
 それなのに、一度も焼け野原にされたことのない実り豊かな大穀倉地帯の主。
 色墓の戦いにおいて玉棺皇帝だった磊塊の首級を見事に挙げた功績として、列将軍。つまりは夏官の最高位を賜ったという。
 実力主義と囁かれ冷徹な鳥陵皇帝の勅命により直々に大司馬の位を与えられ、幸運なことに十六夜公主の婿として選ばれた。
 今のところ接点はないが、仲の良い『お友だち』と依怙贔屓した将軍位に山湖省の豪族の翔家の嫡男であるシャン・シュウエイがいるのだ。
 あの何でも扱うという闇の商人の息子が。
 顔見知り程度だが、どちらが情報網が上だろうか。
 ……賭けがでかすぎる。
 それでも引き受けない、という選択肢はない。
 カイゲツは鳥陵の一地域なのだから。
 鉄色の瞳がもう一度、竹簡を見やる。
 どこまでも冷静に。
 そして、気がつかれない程度に警戒を。
 ロウタツは己に言い聞かせる。
 カイゲツ最後の宰相だったころから変わらない願いのために。
 守りたいものはある。
 そのために、動くのは苦痛ではない。
 すべては『仁を欠くことなく』。
 それならば、己の命などは風が吹く前の塵芥だ。
 そんな覚悟はとうに決まっている。
 まんまと罠にはめられた気分だが。
 あまりにも狡猾な手管だった。
 同じ歳のはずの鳥陵皇帝の真意を知りたくなかった。
 皇帝というものは、そんなにも孤高なものなのだろうか。
 同じ人間なのだろうか。
 そして、のろのろとロウタツは出立の準備を密かに始めるのだった。


 建平三年、六月。
 鳥陵の王都である朱鳳に入ると、海月郡からついてきた兵士たちを領地に返した。
 建前上、鳥陵皇帝から護衛の兵をつけてくれてるから交代するようにと。
 できるだけ海月の人的被害を減らしたかった。
 言い訳かもしれない。
 だが、ロウタツは平素のように言った。
 馬車の中で、ゲッカは落ち着きなく座っていた。
 緊張感がひしひしと伝わってきた。
「白鷹城に入る前に、私は一度、陛下にお目通りしなければなりません。
 お礼を兼ねて」
 ロウタツは静かに言った。
「……鳳に会うの?」
 人が持つには過分な稀有な瞳が不安そうに揺れていた。
「まあ、どちらかというと非公式なお茶会ですよ。
 直接、小言の一つか、二つは言われそうですが。
 何といっても褒賞として、わがままを言いましたからね」
 ロウタツは幼い婚約者の肩に手を置く。
「わがまま?」
 不思議そうにゲッカは言葉を紡ぐ。
「皇帝陛下の寵愛を横からかっさらったわけですからね」
 ロウタツは不安を紛らわせるように言った。
「え?
 あ、あの、それって、ボク?」
 ゲッカは大きく目を見開いたかと思うと、しゅんとうなだれた。
「后がね、と噂でしたよ」
 辺境の海月郡でも、と付け足した。
「別に、ボクと鳳はそんな関係じゃなかったよ!」
 少女はパッと顔を上げ、ロウタツの袖をつかんだ。
「存じ上げています」
 ロウタツは、鳥陵皇帝が好むエイハン風の薄絹の衣をまとっていた少女の黒髪を撫でる。
 平素であれば軽く結い上げているであろう長い髪も、ただ下ろされている。
「会見の間は、ご自由にどうぞ。
 おそらく侍女をつけてくださるでしょうから、遷都したばかりの王都を楽しんできてください。
 ただし、いつでも鉄扇は持ち歩いてくださいね。
 大切な下賜品なのでしょう?」
 ロウタツは言った。
 少女の帯には一指しの藍色の扇があった。
「うん。
 鳳に貰ったものなんだよ」
 ゲッカの声は、ようやくはしゃぐ。
 少女は間違いなく、優秀な生徒だった。
 たとえ一人になっても、自分の身を守る程度ならできるはずだ。
 自分がいない間も、王都なれば『海姫』という号が脅威から守ってくれるはずだ。
 あの鳥陵皇帝の寵愛を一心に受けた、という事実が。
 今もなお、字を呼び捨てにできるという親しさが。
 厄介なものから遠ざけられるはずだった。
 たとえ、自分がいなくても。
 それが暗澹たる気持ちになるが、強い自制心がそれを許さなかった。
 とりとめのないおしゃべりを聞きながら、気配を探る。
 ……監視されている。
 皇帝ではなく、大司馬に。
 夏官の長が要人のために、護衛兵を編成するのは仕事の一環だ。
 しかも白鷹城は離宮ではあるが、同時に大司馬府なのだ。
 皇帝直々に、海月太守の逗留先に選ばれたのだから手厚くしなければならないだろう。
 まだ緑の瞳の大司馬の真意が読み取れない。
 顔を見れば判断できるのだろうか。
 できるだけ穏便にすましたいところだが、どうなることやら。
 鉄色の瞳はゆっくりと算段する。
 残してきたものに。
 隣で笑う少女のために。


 ロウタツは下官に案内されながら、鳳凰城を不自然にならない程度に目を配る。
 歩く道を、頭の中に叩き込む。
 あいかわらず趣味の良い皇帝だった。
 かつての王宮よりも広いのは百官を並べて、円滑に朝議を行うためだろう。
 祝いを兼ねて参内した諸侯たちは、その髪の色も、肌の色も、瞳の色も、話す言葉の癖も違っていた。
 それは若き皇帝の度量を示すようだった。
 静かに歩きながら、囁きにも似た噂話がロウタツの耳に入る。
 あいもかわらず自分の風評は悪いようだった。
 売国奴。
 この場にいない少女の耳に入らなくて良かった、と心底思う。
 きっと自分のことのように怒るか、涙をたたえて傷つくか。
 無垢で、清らかな魂は『仁』そのままなのだ。
 月の冠を戴く為政者。
 カイゲツの民が愛し続ける『奇跡の子』なのだから。


 何度か曲がって、ようやくたどり着いた一室。
 鳳凰城では最深部だだろう。
 私的な空間だということが理解できる。
 それなのに人の気配が感じられない。
 その一室の衝立には青い鈍い色の帯のような絹布が微かに揺れていた。
 孔雀藍(コンチュエラン)だ。
 鳥の名を持つ青い色は、幼い少女が嵐のような色だと喩えた皇帝の瞳の色だ。
 下官が恭しく頭を垂れて退がる。
 ロウタツは跪礼する。
「入れ」
 極上の琴が恥じて弦を切る。
 それほどまでに麗しい響きを持った声だった。
 皇帝の声だと知っていたので
「海月太守カイ・ロウタツ。
 ただいま参上いたしました」
 と頭を垂れたまま言った。
「堅苦しいのは苦手だ。
 それに用件があって呼んだのは私だ」
 皇帝の言葉に促されて、ロウタツは立ち上がり、衝立をくぐる。
 南渡りの香木と墨の香りが調和していた。
 身分には不釣り合いな枚数しか重ねていないくだけた格好の若い男が、精緻な螺鈿細工が施された黒漆細工の書卓に肘をつき、竹簡を広げていた。
 華やかな王都にあって、対比的な渋い色合いの衣が品良く似合う。
 自分に似合うものを知っているのだろう。
 染めも、織りも、さりげなく施された刺繍も、特級品の絹。
 この空間で、生粋のチョウリョウの民しては淡い色を有するのはただ独り。
 冬に見上げる月のように冴え冴えとした怜悧な顔が上がる。
 灰色のような茶色のような瞳がロウタツを見据えて、ゆっくりと口元をゆがめて……笑った。
「立ったままでいい。
 遠路遥々、ご苦労だった」
 それは労わるような優しい声だった。
 内面を知らない者なら感動に打ち震えるような場面だろう。
 だが、ロウタツは視線を床に視線を落とすだけでとどまった。
「華月はどうした?」
 皇帝からの下問だ。
 正直に、答えなければならない。
「今頃なら、遷都したばかりの王都で遊んでいられるか、と」
「遠ざけるのは不安か? 猜疑か?」
 皇帝は再度、尋ねる。
「あのような善良で無垢な魂を持つ者には、ふさわしくない案件だと判断しました」
 声の震えを気取られないようにロウタツは言った。
「ずいぶんと思慮深い。
 賢明な判断だと言っておこう。
 実のところ、ゆっくりと話してみたいと思っていたからな」
 この時期だというのに、窓は締め切られていた。
 竹簡を巻くカランカランとした音が響く。
「カイゲツ最後の宰相、沖達殿」
 皇帝は楽し気に声をかける。
 ロウタツはぞっとした。
「あの華月が二年間、ずっと私に話してきた自慢の男だ。
 代わりにはなれないと、見事に私は袖にされたよ」
 まるで懐かしむような響きがあった。
「政の基本は『仁を欠くことなく』で、あったな。
 礼然の一説だ。
 有名な話だが、それを実行できる者は少ない。
 あの時、カイゲツを滅ぼさなくて良かった、と思ったよ。
 そろそろ三年になるが、海月郡の話は耳に届く。
 王都での話題とは大違いだ。
 領民たちからは、慕われているようだな。
 任命しておいて正解だったようだ」
 流れる水のように流暢に皇帝は話す。
 ……どこまで知っている。
 海月は、皇帝の威光も届かない遥か遠い辺境の地だ。
 手の内で踊らされている気分だった。
「そちらが話す気がないようならば仕方がない。
 早速用件に入ろうか」
 立ち上がり、裾をさばく音がした。
 ロウタツは気圧されそうな気がして、それを黙って聞いていた。
 そして尚武の国には不釣り合いなほど白い手が竹簡を差し出した。
 幾多もの戦火を上げ、大陸を制覇したとは思えない。
 それほどに雅やかな所作であった。
「これを白鷹城にいる大司馬に直接、手渡してくれ。
 誰にも見つかることなく」
 皇帝は念を押す。
「かしこまりました」
 やっとのことでロウタツは恭しく竹簡を受け取り、礼をした。
「中は見なくてもいいのか?」
「おそらく臣が拝謁したものと同じものだと思います」
「……なるほど。面白い」
 皇帝は断言した。
 この時のカイ・ロウタツは知らないことであったが、実のところ飛一族からの最高の賛辞だった。
 それも心からの、手放しの。


 同日、白鷹城にて。
 ロウタツは、大司馬を目にして驚いた。
 予想を裏切るほど幼い。
 齢十八になるはずだ。
 身長は鳥陵の中では高い方だろう。
 皇帝とは違うが人を殺すとは思えない優し気な顔立ちとまだ伸び盛りな細い体躯。
 腰まで伸びた癖のない樫の木色の髪を緑の飾り紐で襟元でまとめていた。
 茶色とも緑ともつかない曖昧な色合いな瞳を持っていた。
 皇帝の瞳が何かを識る水鏡なら、こちらは良くできた人形のようだった。
 まるで空虚。
 文官のような服をまとい、剣帯で宝剣のような剣をつるしていた。
 情報が正しければ色墓の伝統的な剣。
 しかも緑。
 絲一族では最高位。
 息をするように人を殺すといわれる歩く暗器。
 それなのに青年は育ちの良さそうな穏やかな物腰で話す。
 しかし、警戒心は隠していない。
 苛立ちをにじませていた。
 わかりやすく言うと『不快』だろう。
 そして、傍に控えていた翔将軍の視線。
 こちらは、もっとわかりやすかった。
 冬葉色の瞳は、まるで蛇蝎のようなものを見るように睨んでいた。
 奸智に長けると若き英雄と評判だったが、それは軍略の中だけだろう。
 政治的な駆け引きは苦手だ。
 おそらく高い矜持に隠されているが、激情家だろう。
 気に食わなければ上官であろうとたてつく。
 死の商人の翔家の嫡男とは思えないほどの不器用さだった。


 同日、白鷹城の中夜。
 ロウタツは施政宮で最も豪華な部屋に、滑らかなにすべりこんだ。
 あまりにもあっさり入れたことに、軽い驚きを覚えた。
 まるで待ちかねていたと言わんばかりに人払いがされていた。
 ロウタツは皇帝からの用件を果たすだけだ。
 大司馬の前に無言で竹簡を差し出す。
 青年は何も疑わずに竹簡を丁寧に広げていく。
 流麗な墨蹟を見ても、何の感慨も湧かないようだった。
 中身は、ロウタツに届いたものと同じだった。
 青年は衝撃を受けることがないようだった。
 まるで慣れていると言った風情だった。
 歩んできた経歴を考えれば当然になってしまっているのかもしれない。
 薄ら寒いほどの空虚。
 人間味がなかった。
 何故、皇帝が大司馬に据え置いたか、理解してしまった。
「承りました」
 と青年は穏やかな物腰でうなずいた。
 灯燭を受けたせいか、曖昧とされる瞳は緑みが強くなったようだ。
「そう言っていただけると、信じていました」
 ロウタツは震えあがる心を制して、無難な言葉を紡いだ。
 青年には良心が欠落している。


 そこからは監視の日々だった。
 警護という名の兵がさりげなく伏せられている。
 そこまで警戒されることをしたのだろうか。
 むしろ巻き込まれたのだ。
 領民という人質に取られ、遊戯盤の駒のように利用された。
 それを知る者は天下の中では、鳥陵皇帝だけだろう。
 監視は用事が片付くまで、続くのだろう。
 監禁されているようだった。
 無邪気に話すゲッカの笑顔だけが救いだった。
 上手い具合に十六夜公主のお気に入りのようだった。
 仲良さそうに談笑する姿を見て、この瞬間が続けばいいのにと思ってしまう。
 十六夜公主は、鳥陵皇帝が大司馬に植え付けた絶対の律。
 いびつな関係だった。
 予測の範疇だが裏切らせないために、利用しやすくするために徹底的に幼少から仕込まれている。
 良心が欠落している青年は十六夜公主ためには全力で動くだろう。
 まるで、カイゲツの民が月光を求めるように。
 たった一つの真実として。
 これが鳥陵の民が信仰するように強固に結ぶ生涯ただ一つの『恋』なのだろうか。
 頭痛を覚えるような案件だった。
 とりあえずは、十六夜公主が気が変わらない限りゲッカは安全だろう。
 それだけ確信できれば、もう望まない。
 仕事らしい仕事はない。
 少々、太守不在の海月郡が気になったが慈恵に任せたのだ。
 二か月ぐらいは大丈夫だろう、と踏んでいる。
 群臣たちはおおよそ職務に律儀で、勤勉だ。
 特にカイゲツ時代からの高官たちは『奇跡の子』を疑うことなどしない。
 笑顔で領地に帰ってくるのを指折り数えて、待っているだろう。
 ロウタツはあまりにも暇なので、ぶらりと白鷹城を歩いてしまう。
 土地勘のない場所を自分の足で歩くのは、習い性だった。
 カイゲツは優秀な密偵を抱えるほど豊かではなかった。
 地の利を知るためには、自ら足を運ぶしかない。
 退路を探す。
 カイゲツの宰相だったころからの癖だった。
 どんなものにも、突破できる道がある。
 逃走経路の確保は、最優先だった。
 引き際を誤ってはいけない。
 重要事項は間違ってはいけない。
 幼い少女を総領として仰ぐことを決めた日から。
 方向音痴で知られているので、誰にも驚くことなく歩けた。
 少なくとも、一部以外では信じられていた。
 近隣で難攻不落で知られている海月城の宰相が、本陣を離れて、丸腰で、不用心に一人でふらふらと歩いていれば、誰だって排除したくなるものだ。
 戦場に立ち続けていた時間だけ、命のやり取りには慣れている。
 誘われた敵には容赦なく。
 その身でもって、時間を稼ぐ。
 冷静さを失ってはいけない。
 そんな些細なことで動揺をしてはいけない。
 ここは海月郡でもなく、鳳凰城でもない。
 麗しい姿を保ったままの、大司馬府だ。
 明確な不快を隠さない敵意。
 こういった嫌な予感が外れたことがない。
 できるだけ路傍の石のように。
 いてもいなくても気にならない。
 そんな自然体で無難に過ごしていく。
 ただ時折、突き刺さる視線を感じるものの。


 そうやって過ごしている間に、垣間見てしまった。
 大司馬とお気に入りの『お友だち』三将軍との真剣な勝負を。
 あれは演舞というものではない。
 戦場で見知っていた命のやり取りだ。
 依怙贔屓で、二十代という若さで将軍位を得たわけではない。
 それを許すような鳥陵皇帝は甘さを持ち合わせていない。
 冷徹なほどに実力主義なのだ。
 まだ十代の大司馬は余裕で鋭い剣戟をかわしていく。
 むしろ楽しそうに。
 軍略だけではなく、身体能力も高いのだ。
 予測を超える変則的な動きは、おそらく色墓の伝統のものだろう。
 ふいに曖昧な瞳と視線が絡んだ。
 一瞬だけだったが、明確な警戒。
 あるいは嫌悪。
 鞘を払った大司馬はさながら歩く暗器。
 たった三呼吸する間に、大切なはずの『お友だち』を無力化してしまった。
 無駄のない最小限の動きで制してしまったのだ。
 きっと息をするようにあの宝剣で、己の命を刈り取ってくれるだろう。
 用件が済むのが先か。
 忍耐を保てなくなるのが先か。
 それが遠くない予感がした。


 6月も終わる頃だった。
 白鷹城のあてがわれた部屋の一つ。
 穏やかな昼下がり。
 いつものように昼寝をしていたゲッカの傍らで、ぼんやりとロウタツは読書をしていた。
 うとうとしていたゲッカが起き上がった。
 いつもより早かったのは、昨夜よく眠れたからだろう。
「おはようございます、華月様」
「んー、おはよう」
 黒く長い髪が陽光の中で、さらりと零れ落ちる。
 まだまどろみの中にいるのだろう。
 どこか間延びした声は、いつもよりもしっとりとした響きがした。
「沖達は読書していたの?」
 ゆったりと小首をかしげる。
 エイハン風の薄絹の淡い色合いの衣に、黒髪が良く映える。
「まあ、暇ですからね。
 太守としての仕事もないですし」
 ロウタツも上体を起こす。
 読みかけの竹簡を巻いていく。
 カランカランと乾いた竹の音が響く。
 つかの間の平穏だった。
 いつまでも続くかわからない嵐の前の平穏だった。
「毎日がそうだったら楽しそうだね!」
 ようやく覚醒したのだろう。
 その声はいつものように高く澄んでいた。
「これでも私は、私の仕事が気に入っているのですよ」
 ロウタツは巻き終わった竹簡を傍らに置く。
「そうなの? 大変そうだけど」
 ゲッカは不思議そうな表情を浮かべる。
「こうも暇だとすることもなくて飽きているところです」
 思い返せば、仕事が趣味のような人生だった。
 いつでも忙しかった。
 生きている意味なんて考えなくてもいいぐらいに。
 古の書を紐解き、民の安寧だけを優先してきた。
 父を亡くし、成人して宰相になってからはそれは顕著になった。
 暇だから書を読むなんて時間を消費するよりも、民を守るための鍛錬に力を注いだ。
 違ったのは……月姫と過ごす時間だけだった。
 あの時は引っ張りまわされて、自分らしさというものをさらけだしていたような気がする。
 怒って、困って、それでも放りだすことができなかった。
 まるで恵まれなかった子ども時代を埋めるように。
 輝かしい時間だった。
「海月に帰りたい?」
 ゲッカは無邪気に尋ねる。
「一人だと寂しいので、華月様と一緒だったらいいですね」
「沖達でも寂しくなるの?」
 明るい日差しの中でも、稀有な双眸だと思った。
 たった一つの冠を戴くものだった。
「味気ないですからね」
「へー、そうなんだ。
 ちょっと意外」
 ゲッカは何がおかしいのかクスクスと笑う。
 この笑顔のために生きてきたのかもしれない。
 だったら殉ずるまでだ。
「そう言えば……昨夜は、交換条件をいただいていないのですが」
 ロウタツは垂らしたままの黒く長い髪を一房だけ手に取る。
「うっ。……ごめんなさい」
 ゲッカは黒い目を泳がせる。
 遊び疲れたのか、寝落ちたのだ。
 しかも、かなり深い眠りだった。
 安心しきっているのだろう。
 今の自分とは正反対だ。
「では、今から一ついただいてもいいでしょうか?」
 ロウタツは悪戯心を起こした。
 最期の楽しみか、心残りか、未練か、あるいは想い出づくりか。
 あともう少しすれば七月を迎える。
 建国祭が華やかに始まるだろう。
「え、今!?」
 ゲッカはわたわたと驚く。
「二人きりの秘密ですよ」
「う、うん」
「誰にも言ってはいけません」
「当り前じゃないか!」
 ゲッカの澄んだ高い声が部屋内に響く。
 毎夜、くりかえしているものだから、恥じらいがあるのだろう。
 羞恥心というものをおぼろげなリにも、理解し始めたのだ。
 人が渡る気配を感じながら、その細い腰に腕を回す。
 女性が履くような糸履では鳴らない音。
 抑えたような複数の話声。
「よろしいですか?」
 ロウタツは、手にしている黒髪を遊ぶように撫でる。
「うん」
 観念したように、ゲッカはこっくりとうなずく。
 靴音が最高潮に近づく。
 一つは慇懃に離れた。
 面倒事を避けたいのだろう。
 おそらく大司馬のものだ。
 当人は気がついていないだろうが、特徴のある歩き方だった。
 鉄色の瞳を和ませて、手にしていた長い黒髪に唇を一つ落とした。
「え?」
 ゲッカは動揺する。
 普段と違う事柄だったからだろう。
 それに重なるように、麗しい怒鳴り声が響いた。
「鳳?」
 入室した人物に、稀有な双眸が見開かれる。
「何をしているんだ!」
 意外な結果にロウタツは満足した。
 冷徹無慈悲な皇帝ではなく、生粋なチョウリョウの民の典型らしい発言だった。
 控えていたのは太師・露禽だ。
 そちらはニコニコと笑っていた。
 若い頃は派手な女遊びをしていた、という話題のある人物だ。
「ごく普通のことです」
 ロウタツは手にしていた黒髪を解放してやる。
「沖達、知っていたでしょ?」
 高く澄んだ声がなじる。
「華月様が一番、ご存じなのでは?」
 笑いをかみ殺しながら言った。
「それに始めたのは、華月様からですよね」
「う。……そりゃあ、そうだけど」
 ゲッカが困ったように白状した。
「陛下は華月様にご用事があるようなので、私は御前を失礼させていただきます」
 細い腰に回していた腕を離し、腰を浮かそうとすると
「沖達。逃げる気!?」
 小さな手が袖をつかむ。
 あいかわらず勘が鋭い。
 頭の回転や思い切りの良さはカイゲツの総領だった時代なら美点だろう。
「暇なので散策でもしたいと思います」
 ロウタツは、やんわりと小さな手をつかむ。
 ゆっくりと指をほどいていく。
「ちゃんと、約束は覚えていますよね」
 きっちりと釘を刺して、幼さが抜けない少女の退路を断つ。
 慇懃に礼をしてロウタツは部屋から抜け出した。
 海月に比べると、暑い夏だった。
 白い光を浴びながら、ゆっくりと歩を進める。
 思い残すことはない。
 ただ一つの想いを残していけるのなら。
 チョウリョウの民が説くたった一つの『運命』だったのだろう。


 まどろむような時間の中で、緊迫感が落ちた。
 ロウタツの予測よりも早かった。
 鳥陵皇帝が緻密に編んでいった計略が動く。
 あの日に海月郡に届いた親書のごとく。
 離宮である大司馬府がにわかに活気づく。
 たとえ客人として遠ざけられた部屋にいても伝わるほどに。
 ……監視の目が強くなるのを肌で感じる。
 大司馬は立場上、皇帝からの命令を断れない。
 勅命により自ら兵を率いて、行将軍のいる北の大地へと救援として北伐に向かう。
 残していく想い人を心配して……というわけではないだろう。
 だったら、ここまで兵を割りさく必要はない。
 明らかにロウタツを殺しにかかっている。
 どこにいてもついて回る視線。
 それはまるで静かな空気なようなものだった。
 風にそよぐ葉のように、溶け込んでいた。
 だから、ロウタツは与えられていた部屋で静かに書を読む。
 出歩かずに、気配を隠さずに、あえてにじませる。
 白鷹城の構造はすでに把握済みだ。
 さすがに皇太后や公主のいる後宮は知らないが、鳳凰城と造りに差はないだろう。
 あの鳥陵皇帝が後宮に妃を侍らせるとは思えない。
 典型的なチョウリョウの民の反応を見てからは、確信している。
 家族のための部屋になるだろう。
 ロウタツは己に再度、言い聞かせる。
 無難に、冷静に。
 心境など気取られないように。
 まるで建国祭までの暇つぶしをしているように。
 幸いなところ、ゲッカは頻繁に十六夜公主の私室に遊びに行っている。
 戻ってきて楽し気に話すところを見ると、だいぶ可愛がられているようだった。
 物怖じを知らない幼い少女は、ぺらぺらと何でも話す。
 表面上だけ見ると、婚約者の背を見送る公主の無聊になっているようだ。
 鳥陵皇帝の執着にも似た愛情を受ける妹公主。
 この大司馬府でもある白鷹城の麗しい後宮の主。
 それらが幼い少女を守ってくれるだろう。
 大司馬が歩む北伐の土地は、軍用の名馬を選りすぐっても、片道で一週間はかかるはずの距離だった。
 同行の旗下として選んだのは馬操術に才があることで、有名な南城時代からの『お友だち』である翔将軍だったのは、当然の帰結だろう。
 不自然さは、どこにもない。
 それが三日で単騎で帰還した。
 戦場からの第一報。
 ロウタツはそれを知り、風通しのために開け放たれた窓の向こうを見る。
 海月よりも北の大地は、まだ美しい春だろうか。
 満開の花が咲き、おそらく最も麗しい景色だろう。
 それが鳥陵皇帝の慈悲。
 筋書き通りだとしても、どうにもやりきれない。
 翔将軍も利用された一人だったらしい。
 おそらく大司馬からは、口の堅さと生真面目さが買われたのだろう。
 冬葉色の瞳の将軍は不器用すぎる。
 大司馬という身分である間は、歳上の『お友だち』を無邪気に飼い殺しにするつもりだろう。
 わかりやすい駒は必要だ。
 かつて自分がそうされたように。
 いや、今でも、そうであるように。
 緑の瞳の大司馬はどんな顔をして帰還するのだろうか。
 少なくとも婚約者である十六夜公主の前だけは、十八歳という多感な時期の年頃か、それよりも幼いか、裁かれる前の罪人であるかのような顔をしていてほしい。
 そう願ってしまう。
 ……そうであって欲しい。
 でなければ、くびきにはならない。
 どうにも知りすぎたな。
 ロウタツは空虚な魂に同情しているのだ。
 自分を殺すかもしれない相手に。


 建平三年、七月。
 建国祭までのあとわずか。
 鳥陵の都に訃報が駆け抜けた。
 行将軍は還らぬ人になった。
 もちろん国葬だった。
 身分こそ違うが鳥陵皇帝の友人だったのだから。
 落胆した皇帝は朝議も滞りがちになる。


 どこまでも欺瞞なのだろう。
 どこまでが虚偽なのだろう。
 気を使ってだろう。
 王都中で騒がれているはずの話題は、微かにしか伝わってこない。
 母と妹を守るために造られた花園には余分な情報を与えられない。
 それが鳥陵皇帝のやり方だった。
 ロウタツは白鷹城の一室で、鳳凰城の方角を見やる。
 鳥陵皇帝の真意など知りたくなかった。
 あまりにも醒めていた。
 確かにギョウエイという国は内にも外にも問題がありすぎた。
 しかも年単位で、だ。
 鳥陵に玉棺が併呑されてからは、特にひどくなった。
 だからといって自分が同じ立場だったら、そこまで割り切れるのだろうか。
 恒久平和。
 望んでいたものだろう。
 だからこそ、建国祭までに片付けておきたかったのだろう。
 冷徹すぎる。
 ロウタツは竹簡の端を無意識に握りしめていた。


 建国祭も間近に迫ってきた。
 ロウタツはぼんやりと院子を歩いていた。
 現在、ゲッカは遊びに行っているのだから、放置するにとどまる。
 成人前の貴重な時間だ。
 大人に囲まれて、未来を期待されて、重責を負わされた。
 そう仕向けたのは己だ。
 総領になることを選んだ少女を甘やかさなかった。
 徹底的に、大人として、主君として、扱い続けた。
 親を亡くしたばかりの幼い子どもに、泣くなと冷たく言い放ったのだ。
 故郷を離れた孤独な二年間。
 総領として振る舞うことに慣れすぎた幼い少女は、どうやら独りになっても泣かなかったらしい。
 あの時の約束を頑なに守り続けたのだ。
 ……罪滅ぼしなのかもしれない。
 話を聞く限り、打ち解けた相手は少数だったらしい。
 あれだけ無垢で、懐かれたら憎めない少女だというのに。
 数少ない相手は、皇帝や宰相といった国の責務を担うような相手だったなら、なおさら哀れだった。
 五つ離れているとはいえ公主は、不敬罪で訴えられてもおかしくはない事柄だが、そこまで精神年齢が開いてはいないように見えない。
 それに姉のように振る舞うのだから、血族の少なかったゲッカには得だろう。
 甘える相手はいたほうがいい。
 早く大人になることを強要された子どもには、遊び相手が必要だ。
 七月となれば、海月にはないうだるような暑さだった。
 人気のない院子を無意識に選ぶぐらいには、カイゲツへのこだわりが残っているのだろう。
 あの月だけは綺麗に見える何もない院子を思い起こさせる。
 だいぶ監視の目は緩んでいる。
 行将軍が死んでから。
 警戒は失われていないものの。
 用件は果たされたのだ。
 あとはどのように鳥陵皇帝に利用されるのだろう。
 非公式の会見では、それなりの利用価値をあることを示唆されている。
 用済みだと捨て去られない程度に、働けばいいだけだ。
 海月太守という立場は気に入っている。
 カイゲツの民が願い続けた『奇跡の子』がカイゲツに戻ってきたのだ。
 弾むように高く澄んだ笑い声が海月城にこだまする。
 カイゲツの民たちが居並ぶ高官たちは、押しなべて喜んでいる。
 我が子を慈しむように。
 敵対していたはずの近隣のクニから抜擢した群臣たちも、無邪気な振る舞いを止めやしない。
 むしろ愛されている。
 せいぜい任期の間だけでも、自由にさせてやりたい。
 そんな取り留めないことを考えながら、太陽を見上げる。
 あと半刻ほどか。
 そろそろ迎えに行った方が良い頃合いかもしれない。
 現在、白鷹城では派手な鬼ごっこが毎日のように、くりかえされている。
 逃げるのは主である大司馬。
 理由は明確。
 婚約者の顔が見たいのだ。
 ロウタツはそれを微笑ましく思った。
 年頃というよりは子どものような幼い精神だったが、そこには欺瞞がなかった。
 真っ新な純粋さ。
 欲などない。
 本当に顔を見て、視線を交らわせて、言葉を交わすだけで満たされる。
 ままごとにも似た『恋』。
 初恋なのだろう。
 張り巡らされた中で落ちたものだとしても、風化せずに残った想い。
 色墓らしい外見の青年は、生粋のチョウリョウの民のような『運命』の恋をしている。
 その奇跡の終焉まで見てやりたいと思ったのは、どういう心境の変化なのだろう。
 夢物語のような甘い砂糖菓子のようなもの。
 癒されたのか。
 絆されたのか。
 どうにも憎めない。
 自分にはないものだったからだろう。
 駆け抜けていく青春時代。
 ロウタツ自身は戦場に身を置き、自分を律し、カイゲツの民のために捧げた時間だった。
 代償行為なのだろう。
 そう結論付けた。
 だから、少しばかり親切にしてもかまわないと思った。
 恩を売るわけではない。
 押し付ける気はない。
 自分にはできなかったことを味わってほしいと思ったのだ。
 あまりにも過酷な道を選択肢すらなく、操られてきた子どもに。
 おそらく死ぬまで踊らされるであろう青年に。
「皆さん、探していらっしゃいましたよ」
 そう静かに声をかけた。
 木から落ちるように、降りてきた青年に対して。


 ロウタツは雅やかな管弦の調べを聞きながら月を見上げていた。
 管弦にうるさい鳥陵皇帝が任命した大司楽が特に選んだだけあって、先の王朝であるエイネンよりも良いのだろう。
 琴の音色は鳥陵に併呑されてから耳にするようになったが、なんとなく鳥陵皇帝の声の方が良いのではないのか、と思ってしまう。
 あれだけの麗しい声だ。
 それだけで心酔する者もいるだろう。
 海月城に来たばかりの頃、王宮の満月も美しかったけど、と言った幼い婚約者の声がよみがえる。
 寒さに凍える心配のない月なら、それだけでも価値がある。
 それでもなお、海月の満月の方が綺麗だと嬉しそうに笑ったのだ。
 特徴のある歩き方が近づいてきた。
 一人で、だ。
 身分を考えたら……ありえない。
 いくらその身分に似合わない若さだとしても。
 そろそろ、頃合いか。
 杯にある杯を一瞬、見やる。
 ……駆け引きの時間だな。
 ちょうどよく足音が止まる。
 そして、穏やかに声をかけてくる。
 ロウタツはゆっくりと青年を見上げる。
 鳥陵皇帝との用件は済んでいるが、それを鵜吞みにできないほど世間ズレしている。
 信じていないのだ。
 何もかも。
 おそらく自分自身も。
 常に強い理性でもって、感情を押さえつけている。
 歳のわりに、自制心が強すぎる。
 もう少し利己的になってもいいと思うのだが。
 その箍を外してやれるような大人が周囲にいなかったのだろう。
 幼少のころから叩き込まれた絶対の律。
 大司馬の立場なら立派だろう。
 だが、この先、あの夢の中にいるような公主の夫になるのだ。
 手をつないでいるだけでは済まないことを知識としては知っているだろう。
 ただ理解が追い付いているとは思えない。
 秋の暮れには、破綻するだろう。
 結婚するからには、主導権を握っていてもらわなければならない。
 あの公主が泣いたら、あっさりと諦めてしまうだろう。
 頼るのは兄である皇帝でもなく、友人でもなく、夫であることを刻み付けなければならない。
 とかく頑固な恋をする鳥陵では。
 そのためには、小さなきっかけを誰かが与えて感情を揺らさなければならない。
 理性よりも動くものがあることを経験させなければならない。
 あっさりと駆け引きに乗ってくれるだろうか。
 ロウタツは会話を続けながら、試すように青年を見やる。
 始終、穏やかで、どこか幼さが残る話し方だ。
 酔っているからではない。
 借り物の無邪気さだ。
 おそらく周囲に合わせて選んできたのだろう。
 悪くはない判断だ。
 保身術としては、良い方だろう。
 そんなことを観察しながら、ロウタツは算段する。
 多少、命がけになるだろうが、こんなところで鳥陵に倒れられては海月は困るのだ。
 鳥陵皇帝が倒れたら、次に玉座を埋めるのは公主の夫なのだから。
 果たして、どちらがマシなのだろうか。
 嵐色の瞳の皇帝と緑の瞳の皇帝は。
 まあ、どちらにしろ悪政を引くとは思えない。
 良心が欠落していても、身についてしまった強い知性がそれを許さない。
 ロウタツは勝負に賭けることにした。
 おせっかいだと自分でも思っている。
 会話が途切れるのを見計らって、立ち上がる。
 宴の灯燭の中で見ると、その色は緑。
 不服そうにロウタツを見上げている。
 ゆっくりと目に見える形で、感情を揺らさせる。
 ならば単純に『怒り』が良いだろう。
 自分の思い通りにならないことを知って、それでも諦めず、きちんとした形で折り合いをつけ、制御する。
 反抗期、と呼ばれるそれだ。
 ロウタツは酒を捨てて、空になった杯を差し出した。
 青年は無表情だった。
 それが本来の姿なのだろう。
 あれほど無邪気に笑っていたのに。
 あるいは探るように、政治的な駆け引きをしていたのに。
 理性がとんだことがありありと見て取れる。
 やはり、第一印象通り幼い。
 ロウタツは青年の目の前から立ち去る。
 背後で、物の割れる音が耳が拾った。
 おそらく杯を怒りに任せて、割ったのだろう。
 勝負には、勝った。
 すると、近々山場がくるのだろう。
 問題があるとしたら、どうゲッカをなだめるか。
 夜はとかく眠りの浅い少女なのだ。
 しかも戦場に身に置いたせいか、敵意には鋭敏だ。
 頭の回転は悪くないのだから、『交換条件』を利用するか。
 気がつかずに深く眠っていてくれればいいのだが。
 ロウタツはしっかりとした足取りで、与えられた部屋に戻る。


 中夜に、あっさりと青年は寝室に忍び込んできた。
 ここまでは計算通りだ。
 というか、単純すぎる。
 陰謀中枢に携わる大司馬のやることだろうか。
 目の前にいるのは、おそらく自分自身の情動で突き動かされと気がつかない年端いかない子どもだ。
 ただならぬ気配で、やはりゲッカは起きてしまった。
 幸いなことに、悲鳴を挙げることはなかった。
 これで大きな騒ぎになることはないだろう。
 いくらここが、大司馬府でも殺人事件が起きれば問題になる。
 話している間に、青年の殺気はだいぶ削がれている。
 残るのは、嫌悪感だ。
 当人は気がついていないのだろう。
 はっきりと『不快』だと告げた。
 ロウタツが初見で感じた視線を感じた色だ。
 懐にしまっている鉄扇の出番はあるのだろうか。
 おそらく、多少はあるだろう。


 人気のない院子は惜しいことに半月だった。
 突きつけられた短剣はしまわれている。
 きちんと話し合う気はあるようだった。
 判断が早い。
 軍略を携わる者としては立派すぎる決断力だ。
 ただ理性が強すぎるな、とロウタツは思った。
 あとはゆっくりと青年が納得するまでの話をしていけばいい。
 そう思っていたのだが、理解は……やはりついていなかった。
 あるのは利害の一致。
 裏切りを恐れているわけではないだろう。
 ならば殺せばいいだけなのだから。
 病死した、とでもすればいい。
 青年がこだわるのは、十六夜公主だった。
 それだけかけがえのないものなのだろう。
 それに危害を加えるのは許せない。
 つまり『敵』とみなす、ということだろう。
 あまりにも残酷なことをしてくれたな、と鳥陵皇帝を思い出す。
 妹公主を任せるのにふさわしく、執着させて、教育を与えて、位階までお膳立てしてやった。
 利用するだけの駒にしては、別格の扱いだ。
 自分が死んだ先を見越してだろう。
 大切な妹公主を絶対に傷つけることなく、守らせるために、育て上げた、ということだろうか。
 いくら話し合っても平行線だ。
 こちらがどれだけ内情を話しても、信じてはいない。
 少し強引だが事態を収束することにした。
 これ以上、長話をしていたら他者に気がつかれてしまう。
 ロウタツは懐から鉄扇をできるだけゆっくりとした動作で開く。
 それに気がつかないほど愚かではないだろう。
 本当に攻撃を与えるためなら、こんな悠長なことはしない。
 暗器は不意打ちをするのが効果的なのだから。
 青年はためいきをついた。
 すでに幼い心は限界なのだろう。
 まるでお手本通りに青年はおっとりと微笑んだ。
 きっかけの一つには、なったようだ。
 情動の種は撒かれた。
 それも教育を施した皇帝ではなく、親族でもなく、赤の他人に。
 収穫がなかったわけではないだろう。
 ロウタツは片手で鉄扇を閉じる。
 院子にパチンっと金属音が鳴った。
 そして、懐にしまう。
 この異常事態を上手に収めてくれるような人物がいればいいのだが、とロウタツは思案する。
 意外に行動の早そうな翔将軍を思い出す。
 旗下の中でも、情報網がしっかりしているだろし、緘口令を敷くのは得意そうだ。
 そして、不器用なほどの激情家だ。
 怯みもせずに、歳下の上官を怒鳴って正論を振りかざしてくれるだろう。
 大司馬、という立場を再確認させ、青年を落ち着かせるだろう。
 あとは大人の副官に任せるか。
 良心に富んだ人格者、らしいから。
 綺麗に読み解いて、諭してくれるだろう。
 優しい父のように親身になって。
 そんなことを考えながら与えられた寝室に戻ると、部屋の中央に所在無げに寝着姿のゲッカが立ち尽くしていた。
 ロウタツを見ると、抱き着いてきた。
「沖達!」
 高く澄んだ声が心配だった、と告げる。
 細い体を抱きとめる。
「見ての通り無事ですよ。
 怪我一つありません」
 ロウタツは黒く長い髪を指先で梳く。
「でも、鉄扇、持ち歩いてた!
 ずっと。
 ……海月から。
 絶対、今までそんなことしなかったよ!」
 ゲッカは顔を上げて、言い募る。
 やはり頭の回転は速いし、聡い。
「そうですね。
 確かに、開きましたが、それだけです。
 確認してみますか?」
 幼い体をゆっくりと引きはがしながら、ロウタツは言った。
 あいかわらず異性への警戒心が薄い。
 ロウタツは懐から鉄扇を差し出す。
「血もついていません」
 小さな手に置いてやる。
 日に焼けた手がパタパタと鉄扇を開く。
「本当だ」
 大きな黒い目が確認する。
 それから、そろそろと鉄扇を閉じる。
 小さな金属音が鳴る。
「実は今夜の交換条件は、ちょっと特殊です。
 できますか?」
 ロウタツは膝をつく。
 夏用の敷織物は機能性だけではなく、趣味も良い。
「え?
 ……ボクが、できることなら」
 人が持つには過分な稀有の瞳が見下ろす。
「ではお願いします。
 今夜あったことは悪夢だと思い、大司馬から何か尋ねられたら、素直にお話しください」
 ロウタツははっきりと言った。
「え、でも。
 だって。
 白厳は……沖達を。
 ……殺そうとしていたよ」
 感じやすい大きな瞳が潤む。
「話をしただけです」
 ロウタツは断言した。
「見ての通り怪我はしていません。
 鉄扇も汚れていないでしょう?」
「う、うん。
 でも」
「私は気にしていません。
 かなり強引だったかもしれませんが、おおよそ計算通りでした」
 ロウタツは言った。
「うーん。
 沖達が言うなら、そうなんだね。
 わかった。
 明日、白厳から言われたら話せばいいんだね」
 かつてのように、あっさりと少女は納得した。
 総領時代、そうであったように。
「その時は、どんな事柄であれ、お心のままに、素直にお答えくださいね」
 ロウタツは念を押す。
「うん。
 ……どうして、こんな、その。
 おせっかいをしたの?
 ボクのためじゃないよね。
 確かに、海月は鳥陵だけど」
 ゲッカはしどろもどろに言った。
 やはり、気がつかれたか。
「同じですよ。
 海月のためです。
 まあ、多少、情がわいたのは否定しませんが」
 ロウタツはため息をついた。
「白厳に?」
「将来のための布石ですよ。
 彼には、これから先、乗り越えてもらわなければならないことがあるんです。
 こんなところで鳥陵に倒れられては困りますからね」
 ロウタツは言った。
「鳳のせい?」
「……まあ、そう遠からずと言ったことでしょうか」
「やっぱり、鳳が悪いんだ!」
 確信をもってゲッカは憤慨する。
「おそらく悪気はないんでしょうから本人には言わないでくださいね」
「でも」
「皇帝ですから、しなければいけないことがあるんです。
 人にはそれぞれ領分があるのです。
 できること。
 できないこと。
 全部が全能にすることはできません。
 ですが、皇帝は違います。
 完璧でなければいけません。
 少なくとも、国民はみな思っています」
「皇帝だって同じ人間だよ。
 お腹が空けば、ひもじいし。
 寒ければ、凍えるし。
 暑ければ汗をかくし。
 悲しいことがあれば辛いし」
 ゲッカはさも当然のことのように言う。
「華月様。
 こちらにいらした間、そんなことを陛下とお話ししていらっしゃったんですか?」
 ロウタツは確認する。
「あ、ダメだった?」
 黒い目は困惑を浮かべる。
 ゲッカが差し出したのは、迷いがなく、混じりけのない親愛だった。
 ロウタツは、皇帝が号を与え、傍に置き続けたことを理解する。
「いえ、華月様らしいと思いました」
「でもね。
 ボクの一番は沖達だよ!
 それを言う度に、鳳の機嫌が悪くなちゃって。
 でも、最後には笑って許してくれたけど……」
 思い返しているのだろう。
 ゲッカは小首をかしげる。
 黒く長い髪がさらさらと流れる。
 鳥陵皇帝のあまり知りたくない一面だった。
 ずいぶんと両極端だ。
 本当に情緒が育っているのか、納得できなくなった。
 大司馬である青年の空虚さや欠落の大きさは、まだ予測できる範囲内だ。
 これから先、いくらでも、人間らしさを身に着ける機会はあるはずだろう。
 仕向けられたとはいえ、上手いことに皇帝から教育を施されている。
 一応、秋まで片付いてもらわなければならない不安要素があるが。
 幼い、と言ってもいいほどの精神の脆弱さだ。
 歳上の人間に命令されることに慣れきっている。
 骨の折れる作業になるだろうが、周囲の同情なり、諦めなりを得られれば、どうとでもできる。
 何といっても、まだ多感な年頃だ。
 叩き込めばいいだけだ。
 地位的にいえば、かなり格下である太守風情にたった数日で精神を疲弊され、翻弄されたのだ。
 おそらく矜持は低い。
 いや職務やら、それに通じるものには、それ相応の覚悟はあるだろう。
 同じ歳よりも責任感は強い方だろう。
 ただ本質的に矜持なんてものは持っていないだろう。
 だが、皇帝はすでに二十六歳なはずの男性なのだ。
 成人前の童女といってもいいはずの少女が差し出した同情心で満足されては困るのだ。
 生まれついてのものだろうか。
 それとも育ち方に問題があったのか。
 情報が端的過ぎて、推測よりも憶測が大きいが。
 ……劣等感を抱えすぎている。
 重度すぎる。
 その内面を補えるほどの后を迎えてもらわなければ、血統が途絶える。
 また乱世が戻ってくるのか。
「沖達?」
 ゲッカが敷物の上にぺたんと座り、大きな瞳で覗き込んでくる。
 返事がなかったことに不審に思ったのだろう。
「申し訳ありません。
 少々、考え事をしていました」
 ロウタツは国の未来への恐怖を感じながら、隠した。
「ふーん。
 そうなんだ」
「あんまり近づくと、交換条件じゃなくて、くちづけしますよ」
 ロウタツは一応の忠告する。
「いいけど?」
 ゲッカはあっさりと言ってのけた。
 だいぶ慣れたのだろうな。
 慣らしたというのが近いのだろうが。
 ロウタツは細い腰を引き寄せる。
 細い腕が首に伸びてくる。
 ゆっくりと黒く長い睫毛が伏せられる。
 紅も塗られていない唇に唇を静かに重ねた。
 一応、鳥陵の離宮の一つであり、王都の中心にも近い。
 ここに根ずく豪族たちは、強固で一途な『恋』をする。
 醜聞が広がるのも問題なので、ロウタツは普段よりも軽めに唇を離す。
 間近で大きな瞳が見開かれる。
 明らかに、物足りないと語っていた。
「お楽しみは海月に戻ってからです」
 ロウタツは小さな背を軽く叩く。
「早く、帰りたいなぁ。
 ファンに会えて、楽しかったけど」
 そのまま、ずるずると幼い少女はもたれかかってくる。
 眠くなってきたのだろう。
「……そうですね」
 ロウタツは小さな体を抱きかかえながら、ためいきをついた。
 二か月前には感じられなかった恐怖だった。
 殺されるのを覚悟の朱鳳入りだった。
 蓋を開けてみれば、この国の血統を残すという繊細な話題になってしまった。
 あまりにも『運命』なんておぼろげなもので、決めてほしくない。
 抱えている小さな体は、すでに夢の中だ。
 安堵しきって、健やかな寝息を立てている。
 起こさないように気をつけながら、紗をくぐり、寝台に横たえる。
 ロウタツは面倒事を考えるのを放棄して、寄り添うように己の体を置く。
 軽い夏用の布団をかけて、目を伏せる。
 どうせ今頃は、大騒ぎが起きているだろう。
 昼頃には、また騒ぎが起きそうだが、傍らで眠る少女が解決するだろう。


 カイ・ロウタツは、この大きなお世話のおかげで、意外な未来が待っていることを知らなかった。
 後の史書に列伝を立てられるほどの身分になり、複雑な縁を結ぶことになる。
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