コウカンジョウケン
海月城の奥。
海月太守の私的な空間とされている一室。
宮殿でいうところなら後宮。
それも、最も上等の部屋。
十四歳のゲッカに特別に与えられた部屋だった。
鳥陵皇帝の寵愛が深かったために海姫という号で呼ばれた幼さが抜けきらない少女のための部屋だった。
いくら鳥陵皇帝の威光が遠い辺境の土地であっても、勅命で整えられた婚約は様々な憶測と話題が提供され途切れることはない。
それに元よりカイゲツの民だった群臣から見れば、カイゲツ最後の総領であり、『奇跡の子』であった。
カイゲツがクニだったころ、幼い総領自ら鳥陵の都に向かい、その命でもってカイゲツを救おうとしたのだ。
そのおかげで、カイゲツの暮らしは格段豊かになった。
手際のよい鳥陵皇帝は、カイゲツ周辺のクニを膝を折って忠誠を誓うか、武力でもって片付けるか、迫ってあっという間に平らげてしまった。
鳥陵皇帝はカイゲツ周辺のクニをまとめて郡を置いた。
群雄割拠の時代。
弱さは罪である。
歴史を振り返れば、よくある話だった。
何を思ってか鳥陵皇帝は、郡に『海月』と名付けた。
即位して、真っ先に膝を折ったクニを感動したのかもしれない。
近隣では難攻不落で知られた海月城だった。
徹底的に交戦すれば、落とすにはかなり手間がかかったはずだろう。
実際、カイゲツ最後の総領は幼いながらも、天から授けられたとしか思えない月の冠を戴くものだった。
見る者を惹きつけずにはおられない。
それほど無垢で、清らかだった。
戦乱の世の中であっても、しなやかな心を保ち続け、命の重みを知りながらも、真っ新な慈愛を民たちに施し続けていた。
まさに『仁』を体現する為政者であり続けた。
だからこそ、ロウタツは神託を受けながらも足掻いたのだ。
話がそこまであったのなら、美談だろう。
あるいは鳥陵皇帝と海姫との恋愛綺譚になっていたかもしれない。
あろうことか鳥陵皇帝はカイゲツの最後の宰相であったロウタツを海月太守に任命したのだ。
時に、建平元年七月。
ロウタツにとって煉獄に繋がれた囚人の日々だった。
どこに行ってもついて回る憶測と話題。
味方など少数だった。
それでも人が持つには稀有な双眸に乾いた目が己に託した言葉。
『みんなを守って』
ささやかな望みだった。
それがロウタツをこの地に縛り続けた。
強い自制心がなければ発狂していただろう。
喪って気がつくものがある。
そのお手本通りの言葉だった。
それよりも何よりも、『奇跡の子』を失ったカイゲツの民の痛々しさ。
肌で感じたロウタツは、それこそ寝食を忘れて奔放とした。
かつての敵対したクニへの援助。
疲弊した国力の回復。
他国への交易。
できることならどんなことでもやった。
古の賢君が残していった礼然の一説。
『仁を欠くことなく』
『奇跡の子』が成し遂げた『仁愛』を全力で課題として立ち向かっていった。
時間など惜しくなかった。
実際のところ、前カイゲツ総領が抱えていた赤子を見た瞬間、当時宰相の息子であったロウタツが己の生命のなんて塵芥だと感じたのだ。
今思えば、鳥陵でいうところの『運命』なんてものに齢十二にして受け止めてしまったのだ。
そんなロウタツの姿に心打たれたのか、海月郡はゆるやかにまとまっていった。
領民から笑顔が増え、楽し気に笑う子どもたちが健やかに育ち始めた。
これからもこの領地を束ねながら、平穏を願ってもいいのかもしれない。
大陸全土で冷徹無慈悲で鳴り響く若く賢い鳥陵皇帝は、政治的な癒着を嫌うだろうから、またどこかの地方官に飛ばされるだろうが、自分の目で見つめている間だけでも、その幸せそうな姿を覚えておこうと思っていた。
それが覆されたのが建平二年の晩秋。
対玉棺との和平。
その代わりに鳥陵皇帝の妹公主との婚姻。
一度しか拝謁していないとはいえ、どれほどの計略があるのだろうか。
執着としか思えない愛情を注いでいた妹公主をただでくれてやるほど馬鹿ではないはずだ。
疑心暗鬼になりながらも、鳥陵皇帝から呼び出しを受け、登城した。
予測通りの海月郡からの出兵の要請。
断る選択肢はなかった。
後に史書で色墓の戦いと呼ばれるそれであった。
ロウタツに任されたのは、玉棺の王都である珠簾攻め。
北城の城主であった行将軍と共に、北の地を踏んだ。
千里を一夜で駆けると言われる機動力に任せて、裏方に徹したのだ。
幸いなことにありきたりな外見も相まって、多種民族が揃う玉棺に溶け込むのはそれほど骨が折れる作業ではなかった。
本陣を離れ、丸腰で歩く、参謀。
方向音痴と陰で囁かれる自分のことなどかまう人間など数少ないだろう。
信頼できる配下だけ引き連れて、謹慎処分を受けている長男の玉玲玎の身柄を手早く確保。
それも本人たちには悟られない程度に速やかに。
てっきり行将軍が玉棺皇帝の首を刎ねるかと思ったが、いらなかったようだ。
率いていた同盟軍の半数を南下させて、そのまま自分自身は駐屯。
自分の読みが外れたのは意外だったが、気にならなかった。
あの菫の瞳を持つギョウエイの嫡男でありながら、鳥陵皇帝の友人だったのだ。
陰謀計略をめぐらすのは海月を守るだけでいい。
人には人の力量と領分があるのだ。
世界の覇権など、どうでもいい。
昔から変わらない考え方だった。
先祖伝来の地を眺めながら暮らしていければいい。
鳥陵に併呑されたとはいえ、ロウタツはあまりにもカイゲツの民であった。
幸いにも南方の色墓でも計略の奇才である南城の城主が良くできた操り人形のように、華麗な戦術を繰り広げれていた。
領地に戻ってからしか、伝え聞いていないが、まさか十代の若者がするとはとうてい信じられない戦術でもって手際よく戦を終結させてしまった。
この時『運命の歯車』というものがあるとしたら聞いてしまったのだろう。
まさか、ロウタツの生涯を変えるほどの大きな騒ぎになると知るのはだいぶ先のことだった。
◇◆◇◆◇
時刻は戻して建平三年、春。
思ったよりも遅い夕餉になってしまったが、食べ終わってお茶を飲んでいるときのことだった。
ロウタツは、眩暈を起こしそうになった。
控えていた女官の春蘭が笑うのを必死にこらえていた。
言った本人は本気だったらしい。
虹彩も瞳も差がないような黒の双眸は無邪気だった。
もうちょっと年頃の恥じらいとか危機感を覚えられないのだろうか。
確かにカイゲツは生粋のチョウリョウの民から見れば、かなり恋愛に関しては緩い。
でも二年も鳥陵にいたのだ。
あの頑固にも似た鳥陵皇帝の傍にいて……いや、だからこそなのかもしれない。
月の光を編んだような冠を持つ少女は、歳よりも幼かった。
疑うということを知らないのだろう。
すでに痛い目を覚えているはずなのに。
「ダメ?」
ゲッカは言った。
「こちらの部屋からも月は綺麗に見えるはずですよ」
ロウタツは内心げんなりと思いながら取り繕いながら言った。
事実である。
寝室の玻璃越しに見える満月は美しいはずだった。
海月城はそういうところだった。
趣味の良い鳥陵皇帝が直々に設計図を寄こして増築させた珍しい城だ。
数多にある郡の中でも特異な寛大さだった。
「長旅でお疲れでしょうから、少なくとも今晩はこちらで過ごされたらいかがですか?」
ロウタツは念押しをする。
「でも」
ゲッカは茶碗をそっと握りしめる。
あれだけ大泣きをしたのだ。
心細かったのだろう。
少女にとって、カイゲツらしさを感じられる場所はほとんどなかっただろう。
たった二年離れていただけで、手にしていた宝物は砂のように零れ落ちてしまった。
喪失感は理解できる。
だからと言って、自分に危害を加えるかもしれない異性に対して頼るのはどうかと思うのだ。
全幅の信頼すぎる。
強い自制心がなければ、あっさりと陥落させることを知らないのか。
歳が明ければ、成人だ。
しかも二人は婚約者なのだ。
弾みの一つで、醜聞が広がるようなことになるのだ。
「華月様。よろしいですか?
年頃の男女は夜に会ったりはしないのですよ。
少なくとも鳥陵では。
確かにカイゲツは特殊ですが、すでに鳥陵の一部なのです」
ロウタツは馬鹿々々しさを感じながら、嚙み砕く。
「昔は良くても、今はダメなの?」
ゲッカは言い募る。
「人の口には戸が立てられません。
あまり言いたくはありませんが華月様には、海姫という号があるのです」
「うん。
でもボクはボクだよ」
「たとえカイゲツでも女性が男性の寝室に行くのは勧められたものではありません。
というか、そういう例があるのを感じたことがありますか?」
ロウタツは言った。
「昔は行った」
ゲッカは潔く言い切った。
それは思い切りが良すぎるぐらいに。
「それは、いくつの話ですか?」
「えーっと?」
ゲッカは考え込むように小首をかしげる。
月の女神の娘を印象づける長い黒髪がさらさらと肩に流れて、零れ落ちる。
会わない間に、また伸びたなとロウタツは思った。
栄養不足だったころに比べて、その髪は艶々としていた。
まるで月のない夜の海のように。
「総領になる前?」
「華月様ももう十四歳になられました。
いつまでも子どもではありません」
「でも成人までは何か月もあるよ」
ゲッカは心底、不思議そうに言った。
「この一件が皇帝陛下のお耳に入られたら、この海月はどうなるんでしょうね?
少しでも考えてみてください」
突き放すようにロウタツは言った。
「……もしかして鳳、怒る?」
それから想像したのだろう。
茶碗を持つ指先は小刻みに震え、顔色は失われる。
あまりありえた話ではないが、海月への報復を恐れているのだろう。
皇帝陛下の機嫌一つで失われてしまう、カイゲツの民の安寧を全力で守ろうと二年間も傍に居続けたのだ。
並大抵の胆力ではできない。
情報を制すものは世界を制す。
それは鳥陵皇帝の信念の一つであろう。
あくまで冷静沈着だ。
どこに優れた間者が潜んでいてもおかしくはない。
「でしょうね」
ロウタツは重々しくうなずいた。
おろおろとゲッカは視線をさまよわせる。
動揺しているときの仕草だ。
そして、次に出る言葉は決まっている。
記憶が違わなければ、溜めこむということを知らない少女だ。
「でも、ボクは院子でいいんだ!
あそこから月を見たらすぐに帰るから」
「他言無用だと言いましたよね」
「うっ。
……ごめんなさい」
ゲッカは細い肩をピクリっと揺らした。
それから助けを求めるように春蘭を見上げる。
「御前を失礼しましょうか?」
春蘭はにこやかに言った。
この面倒くさいことから、逃げる気だろう。
「このように人の口には戸が立てられないのですよ。
ここにいたのがたまたま春蘭でよろしかったですね」
ロウタツの鉄色の瞳が春蘭を見据える。
「姫様、ご安心ください。
この春蘭は太守並びに姫様が不利益になることを他言しません。
海にも、月にも、誓いましょう」
春蘭は安心させるように微笑みを浮かべながら、流暢に言った。
女官の鑑と言ったところだろうか。
口は堅いのは確かだ。
もっとも、明日辺りには何かしら慈恵から言われるのだろうなとロウタツは思った。
「春蘭。本当に?」
ゲッカは嬉しそうに黒い目をキラキラさせる。
「はい、姫様」
鷹揚に春蘭はうなずく。
「太守。姫様と、お散歩ぐらいしたらどうでしょうか?」
「何のための立ち入り禁止区域だ。
この城中の者の常識になっているはずだろう?」
ロウタツは断言した。
海月城を増築されてからの、一定の律だ。
そこは曲げられない。
「ボク、月が見たい。
確かに王宮でもたくさん見たけど。
……ずっと独りだった」
ゲッカはうなだれた。
「だったら、こちらで見られればよろしいではありませんか?」
春蘭が助け舟ならぬ、毒を盛ろうとしている。
ロウタツは嫌な予感しかしない。
昔からこの女官から体よく子守りを押しつけられたのだ。
「どういう意味?」
理解できていない頭でゲッカは問う。
「確かに、このカイゲツでは夜分に女性が殿方の寝室に押しかけることはありません」
春蘭は言う。
「うん」
ゲッカはコクンとうなずく。
「でも逆は、たくさん見られたんじゃないんですか?」
春蘭は笑顔のまま尋ねる。
「そうだね。
神殿通いとか」
生粋のカイゲツの民らしい答えだった。
「だったら、太守も諦めたらどうでしょう?」
春蘭は慈悲の根源でもいうような声で言う。
ロウタツはこの先のことを考えるのを諦めた。
「月を見るだけですよ」
それだけでは済まないことはわかっている。
もう刻限は中夜に近い。
そろそろ眠りの浅い少女には限界が近いだろう。
今日は昼に仮眠をとっていないという。
わかりやすい構図である。
「本当、沖達!」
ゲッカは卓に茶碗を置いて勢いよく立ち上がる。
座っていた椅子がガタンと音を立てて倒れる。
春蘭が素早く椅子を元に戻す。
ロウタツも茶碗を置き、立ち上がる。
「今宵は満月ですからね。
もうすぐ天頂にかかるでしょう」
ロウタツはゲッカの小さな背を押す。
寝室に向かうと幼い少女は玻璃の窓にぴったりとくっつく。
食い入るように満月を見つめ続ける。
ロウタツは一歩離れた場所で、その小さな背中を見つめる。
真字のままだ、と思った。
月の光を浴びた無垢な魂の少女は、月の加護しか受けられなかった身には神聖すぎた。
ゲッカが振り返る。
「王宮で見た月も綺麗だったけど、こっちの月の方が綺麗だ」
本当に嬉しそうに笑う。
「それは良かったですね」
ロウタツは言った。
鳥陵の王都よりも北東に位置する海月の月は無慈悲だった。
秋を過ぎ、冬に近くなればなるほど。
雪が落ち始めたら終わりだ。
せいぜい月が美しいと言っていられるのは、夏ぐらいだろう。
こちらの気も知らずに、ゲッカはとりとめない話を始める。
話題に挙がるのは王宮での話だ。
同世代の少女たちもいたはずだったが孤独感を感じていたらしい。
だから異様な詳しさで皇帝や公主や宰相の話が挙がる。
機密漏れもいいところだ。
もともと少女は物怖じをする性質を持っていない。
懐に潜り込むのが得意なのだろう。
懐かれたら、憎めない。
あまりにも無垢なのだ。
ロウタツはちらりと月を見る。
少女がとりとめない話をし始めた辺りから、無理をしているのがわかっていた。
どちらかというとハキハキとしゃべる声が間延びしてくるのだ。
そろそろ限界か。
ロウタツが一歩を埋めるのに合わせて、細い体がかしいだ。
腕の中に、ストンっと落ちる。
健康的に焼けた顔は安心しきっている。
人が持つには過分な稀有な双眸は、長い睫毛が隠している。
健やかな寝息。
さらりと長い黒髪がロウタツの袖に零れて流れる。
月光を受けて輝く濡れるような髪の香油は春を告げる香り。
大切な宝物を運ぶように、ロウタツは寝台に小さな体を横たえる。
堅い革靴を脱がす。
日に焼けていない白い肌があらわになる。
そこには傷もシミも一つもなかった。
目の毒だな。
ロウタツはためいきをかみを殺す。
黒髪の飾り紐を解いてやる。
寝台に癖一つない黒髪が広がる。
ふれると絹糸のような手ざわりがした。
栄養不足でガサガサだった髪とは違う。
何不自由ない生活を与えられていたのだろう。
鳥陵皇帝から号を賜るほどだ。
周りの侍女たちが手入れしたのだろう。
記憶の中よりも伸びていることを再確認する。
おそらく切らなかったのだろう。
鳥陵皇帝がエイハン贔屓だとしても長い。
王都では目立っただろう。
それでも、二年間という中で檻に閉じ込められるように暮らしていた。
小さな頭を羽枕においてやる。
起こさないように気をつけながら、小さな体から衣を剥いでいく。
帯を緩ませて、挟まれていた鉄扇を引き抜く。
月光の中でも冴え冴えと輝く藍染めの鉄扇。
パタパタと広げてみれば、銀の骨を持つ。
まるで芸術品のような代物だ。
おそらく鳥陵皇帝からの下賜品だろう。
美しさの中に残酷さを有していた。
ただの扇ではない。
少女の身の丈に合わせてあつらえてある。
手にした重量は記憶と誤差があった。
扇術の稽古をやめなかったのだろう。
そしてまた鳥陵皇帝も止めなかったのだろう。
よく見れば鍛錬をいとわない手だった。
戦場から離れていたはずなのに、堅い肉刺ができている。
まあこちらも他人のことを言えた義理ではなかったが。
「なるほど。
尚武のクニか」
気に入られるはずだ。
ロウタツは呟くと、片手で鉄扇を難なく閉じる。
寝室にパチンと高い金属音が鳴る。
もぞりと動く気配がした。
その背をしばらくさすってやると、寝息は規則正しいものに戻る。
鉄扇を枕元に置く。
そして単衣と帯だけになった少女に布団をかけてやる。
脱がせた衣を拾おうと寝台から離れるようとしたら、ピンと制止するような気配。
ゲッカの手が袖をつかんでいるのだ。
握りしめているに近いぐらい強い。
「沖達、行っちゃうの?」
不安で揺れる声。
鉄色の目をやれば、稀有の双眸が潤んでいた。
答えないのを不審に思ったのか
「行かないで」
ゲッカは袖を握りこんで懇願する。
寝ぼけているのか、怖い夢の続きを見ているのか。
焦点は揺らいでいる。
「夢、じゃないよね」
平素の少女からは考えられない抑えられた声と弱々しい口調。
「現実ですよ」
ロウタツは観念して寝台に腰を下ろす。
そして、ゲッカの長い黒髪を手櫛で梳いてやる。
「起きたら醒めちゃうかな」
「朝が来ても、また顔を合わせますよ」
ロウタツは指先で、頬の輪郭をたどるように撫でる。
黒い双眸からポロポロと涙があふれてくる。
熱い涙はロウタツの指先を濡らす。
「もぅヤダ。
二度と離れたくない!」
その声はすっかりと覚醒していた。
普段通りの高い澄んだ声。
ゲッカは上体を起こして、ロウタツの体に抱き着く。
仕草こそ幼いが、肉付き始めた体がぴたりと伝わってくる。
こちらもそれほど衣重ねていないから、その感触は毒だった。
強い自制心で
「大丈夫ですよ。華月様。
もう二度と御前から離れません」
ロウタツはできるだけ優しく声をかけてやる。
それでもゲッカの涙は止まらない。
熱い涙が衣を、皮膚を濡らしていく。
号泣すると思ったが、弱々しく泣くばかりだ。
嗚咽すら漏れない代わりに耐えるように、歯を食いしばっている。
ロウタツは未成熟な体に腕を回し、涙が溜まる眦に唇を落とす。
黒く長い睫毛がわななく。
「ここは海月城です。
あなたは還ってきたんですよ」
まだ涙で濡れる頬にくちづける。
大きな目は不安で揺れている。
「月の女神の娘で、海の女神の養い子。
カイゲツの宝」
あやすように額にくちづける。
「もう二度とここから出ていかなくていいんです。
あなたが守りたかったものは、きちんと残っています」
ロウタツは言った。
「……ボクが守りたかったもの?」
唇がポツリと呟く。
「カイゲツの民は残っています。
その精神も」
「じゃあ、沖達も?」
不安そうに覗き込まれる。
迷い子のように言う。
黒い目は、光なんてものをすべて吸い込んでしまいそうだった。
吐息がふれあうように、その距離は近い。
「もちろんです」
ロウタツは紅すら塗られていない唇に己のものを重ねる。
ほんの一瞬。
掠める程度。
大きな目はそれでもなお不安で揺れていた。
「華月様。
これ以上、起きていると体の毒です。
朝起きるために、もうお眠りください」
ロウタツは穏やかに言う。
実際のところ、幼すぎる少女自身が強烈な毒だった。
一回、知ってしまうと元には戻れない。
あの愚かしい主従関係には、戻れないだろう。
どこまでも未来を見続ける真っ直ぐな小さな主に忠誠を捧げる臣下。
どう取り繕っても、心の内には、ほの暗い欲がもたげてくる。
気がつかされた強烈な飢餓感と二度と知りたくない喪失感。
幼い少女が信じる『恋』なんて甘いものじゃない。
労わりあうような『愛』ですらない。
無垢な魂を自分自身の色に染め上げたい支配欲と征服欲。
何も知らない魂は素直に染まってくれるだろう。
一つも疑いも持たずに。
「さあ、袖を離してください」
ロウタツは本心を押し殺して告げる。
実際のところ、少女がつかんでいる衣一枚ならこの場で脱ぎ捨てて去っても良かった。
それができないほどに心は絡めとられている。
ゲッカは顔を伏せる。
長い黒髪がそれに付き従う。
「……交換条件。
朝まで、ずっと一緒にいてくれるなら。
ボクができることなら、何でもするから!」
うつむいたままゲッカは言う。
袖は握られたままだ。
これを離したら引き裂かれるのとでも思っているのだろうか。
「華月様。歳が明けたら成人するのですよ。
そんなことをこんな夜中に異性に対して口にしてはいけません」
ロウタツは諭すように言う。
「どうして?」
ゲッカは顔を上げる。
「何でもするなんて、軽々しく言ってはいけません」
「ダメなの?」
「ダメです」
押し問答になりそうだと思いながらもロウタツはキッパリと断言する。
「もうお忘れになられたのですか?
それとも、その先の。
例えば、組み敷かれる恐怖に耐えられますか?
ご存じのように男女の体格差を考えると、華月様がどれだけ抵抗をしても、私は乱暴なことができます。
ましてや護身術も鉄扇の扱い方も教えたのは私です。
確かに離れている時間はありましたが、それを上回る技術を身に着けたとは思えません。
それに……たとえ、あなたが成人前だとしても、もう十四です。
立派に子どもが産める体になっているのですよ」
これで危機感を持ってくれればいいと祈りながらロウタツは淡々と告げる。
感じやすい大きな目は、真っ直ぐに見上げてくる。
「沖達だったらかまわない」
幼い少女は言い切った。
潔いぐらいスッパリと。
それが何も知らない無垢さだとしても。
堕ちた男には、甘美すぎる誘いだった。
「迷惑?」
ゲッカは尋ねる。
「交換条件、でしたね」
「うん」
「では、明日の朝までいるという条件で一つだけいただきましょう」
ロウタツは幼い少女の強情さに流されて言った。
どうせこうなるだろうという予測の範疇だった。
「一つでいいの?」
無垢な魂は穢れを知らないから真っ新だった。
「後でゆっくりと貰いますから。今夜は一つでいいです」
「後?」
ゲッカは鸚鵡返しで尋ねる。
意味をまったく理解していないようだった。
「交換条件なのでしょう?」
「うん」
「では、私の望みを一つだけ」
袖をつかんで離さない手に手を重ねる。
空いている方の手を細い肩に手を置くと、そのまま未成熟な体を寝台に横たえる。
長い睫毛がわななく。
黒い双眸は不思議と凪いでいた。
恐怖心も、焦りも読み取れなかった。
異性に身動きが取れないように、押さえつけられているというのに。
戦場に身を置き続けていたはずなのに、あまりにも無防備だった。
「では、目を閉じてください」
ロウタツは声を落として言った。
ようやく感じやすい目に感情が宿る。
それは羞恥や期待や喜びのようなものだった。
物覚えが良い生徒は健在のようだった。
ゲッカが記憶を持ち始める時から、公私共々にいたのだ。
ずっと教え導いてきた。
前総領を亡くなってからは特に。
忠実な臣下の立場で、その小さな主君を立派にするために。
たとえ、自分が先に死んでも、地に足をつけて立っていられるように。
カイゲツの民の安寧を願い続ける賢君であるように。
それも徹底的に。
幸いにしてゲッカの魂の輝きは『仁』だった。
正しく『海月最後の希望』だった。
だから、ゲッカはロウタツを疑わない。
絶大の信頼だった。
ゲッカは静かに目を伏せた。
ロウタツはずるずると沼にはまりこむのを感じながら、その唇を味わった。
悦びを刻みこむように深く。
充分すぎるほど唇を重ねた後、ゆっくりと離れた。
つかんでいた両手を解放してやる。
パチリッと大きな目が見開かれた。
余韻に浸るように、物足りなさを覚えたように。
わずかな落胆が見て取れた。
「さあ、眠りましょう」
今度は、大切に小さな体を抱き寄せる。
生殺しだな。
そんなことがちらりと脳裏に過る。
「うん」
ゲッカはぎこちないがらもうなずく。
布団をかけてやり、自分と異なる体温を感じながら、ロウタツは目を伏せた。
すぐさま耳に健やかな寝息が届いた。
ロウタツはそれに安堵した。
眠気交じりのためいきをつく。
片手で結い上げていた己の飾り紐を解く。
カイゲツの民にありがちな墨色の髪が首筋を覆うのを感じた。
伸ばし始めて、もう三年近くなるのか。
あれだけ切ることに固執していた髪に鋏を入れることはなくなった。
併呑された鳥陵の民らしく従順とあろうとしたのか。
それとも差し出してしまった主君への代償行為だったのか。
今では、もうわからない。
ただ一つわかるのは、差し伸ばされた手をに二度と離さないという単純明快なことだった。