キカン
まるで花嫁行列のように出発した。
下るだけなら河を渡った方がいいのだが、そうは問屋が卸さなかった。
鳥陵皇帝が嫌がったのだ。
だから鳳凰城から海月郡までの道のりを馬車で進むことになった。
人が持つには過分な稀有な双眸が辺りの景色に釘付けになっているのだ。
ゲッカがあまりに楽しそうだから、ロウタツは諦めた。
ふいに粛々と進んでいた馬車が止まった。
ゲッカは不思議そうにロウタツの方に向き直った。
「海月郡に入ったようですね」
ようやくここで終わりか。
そんなことを思いながらロウタツは馬車から降りた。
「え?」
ゲッカは驚く。
ロウタツは手を差し伸ばす。
本来なら女官がやるようなことだろう。
わざわざ地元に帰ってまで王都の作法に則ることはしたくはなかった。
「華月様。降りてください」
虹彩も瞳も違いが判らないほど黒い双眸は途惑いを隠さない。
「ここからは歩いていただけなけばなりません。
ほんの少しですが」
「あ、うん」
ゲッカはロウタツに手を預け、するりと馬車から降りる。
黒い双眸はきょろきょろと周囲を見渡す。
そして声を落としてロウタツの耳に告げる。
「……ボクの勘違いしていなければ、ここって隣のクニだったよね」
カイゲツ最後の総領は言った。
攻め入れられ、何度か兵を率いたところだ。
最前線で指揮をすることになった幼い少女がビックリするのもわかる。
海月太守になったロウタツ自身も任命当初は、困惑したのだったものだ。
「そうですね」
小さな手を引きながらロウタツはゆっくりと歩きだす。
「なんか歓迎されているみたいなんだけど」
ゲッカは驚きながら言った。
道で立ち止まっている群衆は緊張しているものの、おおむね笑顔だ。
むしろ好奇心が勝っているようだった。
「だから領地は平和になったと言ったではありませんか」
「……沖達のおかげ?」
「だとしたら光栄ですね」
明確な線はないもののちょうど郡境だ。
小さな手を握りつぶさないように、ロウタツはゆったりと歩く。
幼い少女が郡境を通り越した。
それを見守っていた群衆から歓喜の声が湧き上がる。
華月の字にふさわしくたくさんの花びらが舞う。
不思議そうに大きな黒い目が追う。
「綺麗」
感嘆するようにゲッカはつぶやいた。
それを隣で見ていた鉄色の瞳も微かに細められる。
「海月城までは、まだ距離があるので、また馬車旅になります。
舟の方が早いのですけどね」
幼い婚約者の耳元に告げる。
「……海月城?
もしかして、元の位置にあるの?」
「ありますよ」
「そうなんだ。
もっと便利そうな場所でも良かったんじゃない?」
「まあ、そうですね。
不便だとは群臣には言われますね。
直接、告げに来た者もいるぐらいですから」
「だったら、どうして」
「太守になった権利を使いました」
ロウタツがさらりと言った言葉にゲッカは大きく反応する。
「さて、行きましょう。
鳥陵に併呑されて、城のたたずまいはだいぶ変わりましたが、海も月も綺麗に見えるところですよ」
ロウタツは淡々と言った。
そして、海月城に入城を待っていた群臣の中に混じった見知った顔を見つけてゲッカは喜色を浮かべた。
もしもロウタツが手を握っていなければ、駆けていったところだろう。
幼さが抜けきれない少女を見つけて、ロウタツは穏やかに喜びをかみしめた。
約三年という歳月は無駄ではなかった。
「私は仕事がありますから、城の案内は春蘭に任せましょう。
どうぞ、ご自由に」
ロウタツは小さな手を解放してやる。
まろぶように大柄な女官がやってくる。
「姫様!」
「……春蘭?」
かつてそうだったようにゲッカは女官を見上げる。
「またお会いできて良かったです」
「春蘭は変わりがない?」
「まあ、少しは変わりましたが、それほどではなく」
女官は言った。
「では、夕刻に」
ロウタツは言い残し、その小さな背を押してやる。
そして踵を返した。
そこに浮かんだ顔をゲッカは見ることができなかった。
カイゲツではありきたりな鉄色の瞳は、無慈悲にひそめられていることに。
◇◆◇◆◇
ゲッカはかつての居城に驚いた。
それはあまりにも鳥陵の建築様式に似ていたからだ。
鷲居城ほどではないものの華美であった。
もうカイゲツではない。
鳥陵の一地域の海月郡なのだから。
当然と言えば、当然なのだろう。
月姫という名の小字で呼ばれていた頃から、一番仲良くしていた女官をつけくれたのはロウタツの配慮だろう。
「春蘭は結婚したの?」
道案内してくれる女官に尋ねた。
「残念ながら、いまだ独身ですわよ」
「あ、そうなんだ。
縁がなかったの?」
ゲッカは尋ねた。
黒髪の美女は相も変わらずに麗しかった。
嫁き遅れには見えなかった。
「まあ、お話はありましたがすべて断ってしまいました」
朗らかに春蘭は笑う。
「どうして!」
「あら、別にかまわないでしょう。
それに、またこうして姫様にお仕えることができるのですから」
あまりにも幸せそうに言うものだから、ゲッカはそれ以上を言葉を紡ぐことはできなかった。
色石が嵌め込まれた道が続く院子を横目を見ながら回廊を渡っていく。
季節にふさわしく辺境の北東の大地にも花が咲き染めていた。
何から何までも鳥陵らしかった。
贅を尽くすものの嫌味ではない。
鳳が好きそうだ、とゲッカは確信を持っていた。
春蘭は、おそらく奥と呼ばれる場所に通された。
いわゆる後宮の一つだ。
「こちらが姫様の部屋ですわ。
まだいくつかお部屋がご用意されてございますが、ここが一番のお部屋です」
床には贅沢な毛織物が敷かれ、ためいきをつきたくなるぐらい麗しい調度が並んでいた。
手を引かれ衝立をくぐると、紗がかかった大きな寝台と最低限の身づくろいができるようになっている調度類が置かれていた。
ゲッカは大きな目を瞬かせる。
「こちらが寝室となります。
お疲れなら、ひと眠りいたしますか?」
春蘭は言った。
長らく戦場にいた習性か、ゲッカの眠りは浅い。
夜によく眠れないのだ。
それを補うように、昼間に眠る。
鳥陵で人質として過ごしていたときであっても、変わらぬ習慣だった。
「太守もお仕事だと言われていますから。
それとも湯あみをいたしましょうか?
ご飯がまだなら軽くつまめるものをお持ちしますよ」
春蘭が提案する。
実際、慣れない長旅に疲れは溜まっていたけれども、それよりも胃の方が正直だった。
ゲッカのお腹が鳴ってしまった。
恥ずかしい。
穴があったら入りこんで一生、出たくなかった。
いたたまれない気持ちになる。
ゲッカは赤面して思わずうつむいた。
「では、こちらでお待ちください」
と元いた部屋に戻される。
春蘭が慣れた調子で椅子を引き、ゲッカを座らせる。
ゲッカが卓につくと、すぐさま温かい粥と乾燥した果実がいくつかとお茶がふるまわれる。
食器は見慣れたものだった。
そして、その味も。
鳥陵らしい味付けだった。
さすがに皇帝が使っていた物と同じというわけではなかったが。
よく似ていた。
ゲッカは匙を持ちながら、ためいきをついた。
あれだけ守っていたカイゲツはどこにもなくなってしまったのかもしれない。
「嫌いなお味でもありましたか?」
不安げに春蘭が尋ねるものだから、ゲッカは力なく首を横に振った。
月の加護を受けるようにと伸ばされ続けていた黒髪が揺れた。
そこだけがカイゲツの証のように感じた。
「大丈夫。
美味しいよ!」
ゲッカは慌てて粥を口に運ぶ。
「でもほどほどになさってくださいね。
きっと太守と夕餉を共になされるでしょうから」
「え?」
ゲッカはきょとんとする。
「婚約なされたから当然でしょう。
それに夕刻に会うと。
いつもでしたら、そんなに早くはお食事をなされませんから」
「そうなの!?」
「大体、中夜に近い時刻に流し込むように食事をなさっていますよ。
しかも竹簡を広げたままか、ひどいときは立ったまま。
……ここだけの秘密ですよ」
春蘭は声を落として告げる。
ざっと三年前の記憶を振り返る。
戦場であれば食事はまちまちな時間になったが、海月城では比較的正しい時間に三食は口にしていた。
少なくともゲッカの目の前では。
「そんなに太守の仕事は大変なの?」
ゲッカは尋ねる。
「まあ女の私には政はわかりませんから一概には言えませんが。
何かに追立られるように、かなり根を詰めているようでした。
姫様が詳しく知りたいなら、直接太守に聞くか、慈恵殿にお聞きください」
まあ太守が正直に話すとは思いませんが、と付け足すように春蘭は言った。
「慈恵も知っているの?」
「あいかわらず仲がよろしいようで。
仕事の時こそ沖達殿とお呼びになるようですが、すぐさま鉄槌と呼んで怒らせていましたよ」
「そうなんだ。
慈恵は変わらないみたいだね」
出迎えた中で、よく日に焼けた官吏がいたことを思い出す。
「あの慈恵が政なんて勤まるの?
孤児院はどうしたの?」
「そちらの仕事は譲られたみたいですよ。
太守が引き抜いて、群臣の中ではかなり高い位置におられます」
「え?」
「まあ腹心と言っても良い仲ですね」
春蘭が空いた茶碗に茶を注ぐ。
微かに甘味が感じるお茶だった。
温度もちょうどよく渋みを感じることはなかった。
「あの沖達が怒るんだ。
ちょっと安心した」
ゲッカは言った。
ロウタツは感情表現がとぼしい宰相だった。
海の加護を受けられなかったからか、荒れることはなかった。
静かな井戸のような万事控えめな姿だった。
一度だけ、声を荒げたのはカイゲツが鳥陵に下るという決断をゲッカがした時だけだった。
懐かしいと呼ぶには、まだ痛々しい記憶だった。
繰り返し思い出したように見た夢だったからかもしれない。
「そういえば沖達は髪を伸ばしたんだね」
墨のような黒髪はほどけば肩を覆う程度になっただろうか。
生粋のチョウリョウの民のように。
茶碗を持て余し気味になりながら言った。
ゲッカがカイゲツの総領になる前から、ロウタツは定期的に髪を短く切っていた。
それは月の加護だけしか受けられなかったためだ。
海の加護を求めるように短く切っていた。
「まあ海月太守になられましたからね。
当然でしょう」
「でも……民族の慣習を守るように法律が出されたはずだけど」
鳳が、とはゲッカは言わなかった。
「そうですわね」
春蘭は寂しそうに微笑むにとどまった。
「それではお眠りになりますか?
それとも湯あみをしましょうか?」
春蘭は優しく尋ねた。
「眠くないから湯あみかな?」
特に汗をかいたわけでも、埃を浴びたわけでもなかったが、鳥陵の民らしく選ばれた衣服に飽き飽きしていたところだった。
「では、お着替えをお持ちして、ご案内いたしますわ」
春蘭に連れられて湯殿に行く。
大きな岩に囲まれた池のような場所に湯が張られていた。
屋根がなくいわゆる露天風呂だった。
微かに潮の香りがした。
海が近いのだろう。
するとこれは温泉なのだろうか。
そういえばロウタツは月が綺麗だと言っていた。
さすがこんなに明るい昼間には月は見えなかったけれども。
浅い春特有の淡い青い空が広がっていた。
湯殿から出ると、春蘭が待っていた。
用意されていた衣服はカイゲツの民が好む膝丈という短い丈の上衣と細い半袴だった。
不思議なことに丈はあっていた。
素材こそ質素な麻ではなく、手触りの良い小花が散る白い絹だったが、なんとなく心が弾む。
そして、華やかな糸履ではなく、なめした堅い革の靴。
ゲッカの細い腰に春蘭が朱華色の錦の帯を巻く。
丁寧な針仕事がしのばれる雪華文様が浮かび上がっていた。
そこにゲッカは鳳から下賜された藍色の鉄扇を挿した。
「姫様もずいぶん髪が伸びられましたわね」
春蘭が立ったままゲッカの黒髪を粗目の櫛で梳る。
「切らなかったから」
ゲッカは答えた。
切ったら最後、カイゲツとの繋がりが絶たれるような気がした。
エイハン贔屓だった鳥陵皇帝の手前だけあって、長い髪はそこまで奇異に映らなかった。
それを利用して、切らなかったのだ。
午睡の時間、鳳が懐かしむようにゲッカの黒髪を撫でていた。
だから様々な憶測が飛んだ。
鳳は何も語らなかったし、ゲッカも言わなかった。
暗黙の了解だった。
「では、まとめてしまいましょう」
細めの櫛に変えて、甘い芳香がする香油を馴染ませていく。
ある程度の長さを残しつつ、月を弾くような色をした飾り紐で両端を結い上げられた。
カイゲツの民が好む未婚女性の髪形の一つだった。
「王都に比べると、まだこちらは春浅いですから」
と春蘭は衣を肩に滑らせる。
すっぽりと包まれるような、厚手の衣だった。
春を表すような薄紅色だった。
色は浅いものの紅の値が高いことぐらい無知なゲッカでも理解していた。
手触りからいって、こちらも絹だろう。
皇帝や公主が身に着けるようなものではないだろうが、それなりに値が張るはずだ。
「こんな贅沢していいの?」
「あら?
当り前ですわよ」
春蘭はころころと笑う。
「姫様は気になさらなくてもよろしいのですよ。
海月は豊かになったのですから。
それに、ご用意なされたのは太守ですから」
「沖達が?」
ゲッカは目をぱちくりとさせた。
「それって職権乱用じゃ」
「姫様は難しい言葉をご存じですのね。
太守としてのお金ではなく、私有財産らしいですから、受け取っておくのは淑女としては当たり前のことですよ」
春蘭は笑いをこらえるような声で言った。
「そういうものなの?」
「そういうものです」
親切な女官は念を押す。
「で、沖達の居住区を知りたいんだけど」
ゲッカは気になっていたことを尋ねた。
珍しく、春蘭が言いよどむ。
その目には、困ったような光が浮かぶ。
「実は、太守の寝室は立ち入り禁止になっているのです。
……この城では知らない者はいません。
ですからご案内できません」
「どうして!」
ゲッカは声を荒げて詰問した。
どのくらいの時間がたっただろうか。
一瞬だったかもしれないし、それよりも長い時間かもしれない。
「そうですわね。
姫様が直接、太守にお訊きください。
お願いすれば教えていただけると思いますわよ。
何といっても婚約者なのですから。
それに『名守り』だったのでしょう?」
「うん」
ゲッカはうなだれた。
カイゲツの民の古い習慣だった。
絶対の約束事の一つ。
無事に帰って来れるように、願いをかけて、たった一人に真字を託すのだ。
普通なら、男性が想い人や神殿巫女に預けるのだ。
そうして帰ってきて、名が返されるのだ。
チョウリョウの民が名を交わすのとは、少し違う。
もちろん『名守り』と繰り返し名を託くし、親密なれば、いわゆるチョウリョウの民で言うところの『運命』に出会い、お互いの名を交わすのだ。
そして婚約するなり、正妻にするなりにしてきた。
ゲッカが当時宰相であったロウタツに真字を教えたのは一度きり。
前総領だった父を亡くし、総領になると決断した時だった。
だからゲッカはロウタツがどんな真字を持つかは知らない。
音だけは知っているものの。
この婚約だって、ゲッカのわがままだ。
あの日、カイゲツに帰りたいと泣いたからだ。
優しいカイゲツ最後の宰相は叶えてくれた。
これ以上、望んではいけない。
ゲッカは唇をかみしめた。
◇◆◇◆◇
それからほどなくして夕刻に、ロウタツはゲッカのところにやってきた。
昼間見た鳥陵の官服ではなく、どこか打ち解けた装束だった。
色こそ違えども、鳳が普段、好んで着ていたような装いだった。
カイゲツの民らしくはなかったが、かといって鳥陵の民でもなかった。
あるいは月姫と呼ばれていた子ども時代に見ていた姿だったかもしれない。
夜になると寝着に数枚の衣を、ひっかけて院子に向かって月の光を頼りに竹簡を読んでいた。
あの頃は難しくて何を読んでいたかはわからなかった。
ただ険しい顔だけは覚えている。
そんなことを考えていると、ロウタツは自然と膝をついた。
小さな総領であったゲッカと視線を合わせるように、いつだってロウタツは膝をつく。
「どうかなされましたか?」
カイゲツではよくある鉄色の瞳に見据えられると、心の内が暴かれるような気がして、ゲッカは目を逸らした。
「華月様?」
先を促すように低く落ち着いた声が尋ねる。
ゲッカはいたたまれなくなって、膝の上に置かれたこぶしをぎゅっと握る。
かつてのように、白い大きな手がゲッカの手を握る。
いまだに鍛錬を欠かしていないのだろう。
手のひらは太守という身分にふさわしくないほど肉刺ができていた。
自分とは違う、ほんの少し冷たい体温が安心する。
ゲッカは息を緩く吐き出す。
「あのね。
昼間、聞いたんだけど。
その、あの」
ゲッカはそろそろと目線を合わす。
鉄色の瞳は真剣だった。
「どうして立ち入り禁止なの?」
やっとのことでゲッカは言った。
「そのことですか」
声は平素通りだった。
拍子抜けるほどあさっりとした声だった。
「わかりやすく言うと、私のわがままです」
ロウタツは言った。
「わがまま?」
ゲッカは目を瞬かせる。
「華月様が見たいというなら案内しますが?
どうなされますか?
夕餉にはかなり遅れてしまいますが」
ロウタツは言った。
「ご飯なら大丈夫。
ちょっと食べてるから」
ゲッカは言った。
「では、ご案内いたします。
その代わり他言無用ですよ」
「うん」
ゲッカはうなずいた。
いくつもの部屋を通り過ぎ、いくつかの華やかな院子を通り抜けていく。
さざめきあう女官も、百官も見当たらなくなっていく。
本当に人目がなくなっていく。
そして、唐突に広がった寂寞とした院子。
目隠しの木立があるものの、だだっ広いだけの石畳。
飾りになるような色石すら置かれていない。
その前の木戸をロウタツは押し開ける。
小さな堂だった。
衝立が置かれており、そこには衣が引っかかれていた。
「あまり片付いていないので、言わないでくださいね」
ロウタツは最終確認をした。
そこは狭い書斎だった。
壁にはびっしりと本棚が造りつけられていて、竹簡が整然と並んでいた。
微かに墨の匂いがした。
書卓にはいくつかの竹簡が置かれて、端の方に小さな桐の箱が大切そうに載っていた。
埃はかぶってはいなかったところを見ると、かなり頻繁に使っていることが見て取れた。
そして、さらに奥に質素な寝台があった。
紗すらない。
寝るためだけのような寝台の上には、いくつもの竹簡が広がっていた。
どれも墨蹟が違った。
ロウタツの手ではないことはすぐわかった。
そして幼い頃ならわからなかった。
「礼然」
ゲッカは息を呑んだ。
そこには色んな人間が書いた礼然の一部が書かれていた。
共通するのは『仁を欠くことなく』。
「ちょっとした感傷に浸るために残しておいた部屋です」
ロウタツは切なげに言った。
すると、ここはゲッカが探していたものだった。
ずっとずっと探していたものだった。
広すぎるくせに何もない院子。
そこに出ればすぐさま月の光が差すことを幼いゲッカも知っていた。
ゲッカは狭い書斎に戻る。
桐の箱の中身は開けなくても気がついている。
カイゲツの総領が、最高の君臣に贈る物だ。
それこそ生涯唯一の臣下に。
銀の台座に月を意味する月石と海を意味する藍玉が飾られていて、繋ぐことを意味する銀の鎖の先には淡水と海水の真珠がついている。
『月海』と呼ばれるものだ。
緊張しながらゲッカは桐の箱を開けた。
これはかつてゲッカがロウタツに贈った物だった。
貧しいカイゲツにとっては贅の極みだった。
ゲッカの黒い目からハラハラと涙が零れ落ちた。
離れている間にも、ずっと大切にされてきたのだ。
そう実感した。
かつてカイゲツと呼ばれたクニは無くなってしまった。
それでも、この院子と手にしている『月海』は残っていた。
「立ち入り禁止にしたのは、誰にも秘密にしておきたかったからです。
ここだけはたとえ、鳥陵皇帝だろうと変えられたくなかった」
ロウタツは断言した。
ここはカイゲツそのものだった。
まだ月姫と呼ばれ、『奇跡の子』と呼ばれ続けた子ども時代。
すでに宰相だったロウタツが私室として使ってきた場所だった。
そこにはまだ前総領の父がいて、いつだって宰相であったロウタツが遊び相手を務めてくれた。
たくさんのわがままを言った。
たくさんの思い出があった。
春夏秋冬。
駆け抜けていった子ども時代。
そのきらめきがここには残っていた。
ゲッカは泣いた。
敷物すらない冷たい床に腰を落として泣き続ける。
幸せの断片が今、重なってくる。
本当はあの時だって、ここに帰ってきたかったのだ。
父を亡くし、総領になると決めた日も。
鳥陵に投降しようと決断した日も。
そして王都で過ごした二年間も。
ずっとずっとここにいたかったのだ。
幸せすぎて辛かったから。
それでも嬉しかったから。
大きく声を上げながらゲッカは泣いた。
ロウタツはゲッカの隣に座り込んで、背中を優しく叩く。
穏やかな雰囲気をまとわせて、黙ってとんとんと背中を叩き続ける。
何も言わずに、ただ静かに傍にいてくれた。
月姫と呼ばれた頃のように。
ゲッカはもう明確な言葉を発することができなかった。
この焼けつくような想いはすべて涙へと変換されてしまった。
それはとても胸が苦しくなるような想いだった。
ロウタツはどんな想いで、ここを使い続けたのだろうか。
たった独りで。
結局、ゲッカが全部、押し付けてしまった。
あの時だって自分の命一つで、たくさんの人が救えればいいと思っていた。
決断したのは自分だ。
最後まで反対してくれたのはロウタツだった。
海月太守になった今も、ここは残しておいてくれた。
やっとゲッカはカイゲツに帰ってきたのだった。