ミッショ

 まるで結婚式のように、宴は三夜に渡って行われるという。
 ただ一人の人質を領地に返すだけというのに、皇帝の寵愛が深かったようだ。
 後宮夫人を下賜するように。



 昼過ぎに海月太守ロウタツは与えられた部屋で竹簡を広げていた。
 落ち着いた色合いの書卓に広げられていたのは、密書という類のものだった。
 もっともそれを理解する者がどれだけいるのか。
 ごく普通の挨拶文から始まって、天候の話、これから行う行事の段取りやそろそろ収穫を選らんで種の選定、最近の漁の具合、それら諸々がびっしりと墨蹟豊かに書かれていた。
 普通に見たら太守としての仕事の一環にしか見えない。
 ただそれだけではないと見え隠れする。
 ロウタツはためいきをかみ殺していた。
 情報解析は苦手ではない。
 むしろ得意な方だろう。
 カイゲツの宰相であった頃からやってきたことだ。
 もう身についてしまった。
 短く返事を書こうかと思った時だった。
 ロウタツの手が止まった。
 カイゲツによくある鉄色の瞳が瞬く。
 こういう予感は外れたことがなかった。
 衣擦れと軽い足音が近づいてきた。
 何故?
 という疑問も浮かんだが竹簡を片してしまうことにしてしまうことにした。
 見られて困るものではなかったが、勘が聡い者がいられたら厄介ごとが増える。
 それだけの理由だった。
 部屋の前で足音が立ち止まる。
 いくつかのささやき声が立ち去った後、衝立の向こう迷う気配がした。
 ロウタツは椅子から立ち上がった。
 月の光のような、たった一つの気配。
 昔もそうしたように、ロウタツはためらわず足を運んだ。
 部屋の前にはカイゲツ最後の総領が立っていた。
 十四という年頃に合わせて、柔らかく絹の織物を数枚重ねて、華やかな錦の帯を締めていた。
 黒く長い髪は編み込まれて庭院(宮殿の中庭)で摘んだ花だろうか、簪代わり白い花が咲いていた。
 見立てたのは皇帝だろう。
 あいかわらず趣味が良い。
 人が持つには過分な黒い目が困ったようにロウタツは見上げていた。
「どうかなされましたか?」
 ロウタツは尋ねながら、昔通りに膝をついた。
 塵一つ舞っていない宮殿の床は、特段居心地の良いとも悪いとも言えなかった。
 ゲッカは困惑した表情を浮かべるばかりだった。
「華月様?」
 ロウタツは促すように目線を合わせる。
 虹彩も瞳も差がないような稀有な黒い双眸は、すっと逸らされた。
「お話があるなら、中でうかがいます」
 ロウタツは立ち上がった。
 そして、過去にやったように小さな背にふれる。
 ゲッカの細い肩がビックと震えた。
 まるで怯えるような仕草に、ロウタツはためいきをかみ殺した。
 椅子を部屋の中央に置くと、そこへゲッカを座らせる。
 ぎこちなく幼い少女は腰掛ける。
 その間も視線は泳いだままだ。
 決してぶつかり合わない。
 皇帝の勅命で、婚約が整ったが、海姫という号は一人歩きできる身分ではない。
 気配をこらしてみても、人払いはきっちりされている。
 隣室も廊下も人の気配がしないのだ。
 どんな異常事態だ。
 そちらが気にかかった。
「無理にはお聞きしません」
 ロウタツは膝をついた。
 ようやくゲッカがロウタツを見た。
 そこには迷いや途惑いが色濃く浮かんでいた。
「どうやら人払いはすんでいるようですから、聞き耳を立ててる者はいないでしょう。
 ご自由にお話をして大丈夫ですよ」
 ロウタツは淡々と言った。
 ゲッカは緩く息を吐きだした。
 それから真っ直ぐにロウタツを見る。
 昼の日差しの中で見ても美しい双眸だと思った。
 光の全てを吸収をしてしまいそうな。
 膝に乗った小さな拳が裳をぎゅっとつかむ。
「……沖達は、どうしてあんなことをしたの?」
 紅すら乗せられていない唇がどうにか、か細く紡いだ。
 それから目線を落として
「昨夜」
 と言った。
 ロウタツは静かに湧き上がる感情を覚えた。
 それはあまりにも、ほの暗い感情だった。
 少なくとも不安に揺れる幼い少女に向けていい類のものではなかった。
 ロウタツは強い自制心で制した。
「手荒な真似をしたことは謝罪いたします。
 同意もなしでしたからね」
 ロウタツははっきりと言った。
「……そうじゃなくて。
 なんで、ボクにあんなことをしたの?」
 風に揺れる花のような風情でゲッカは問う。
「したかったからです」
 ロウタツは断言した。
 そろそろと視線が交わる。
「ボクと?」
 ゲッカは心底、不思議そうに尋ねた。
「はい、華月様とです」
「だって、そんなの変だよ。
 ……ボクはまだ子どもで、その、あの」
 ゲッカは珍しく歯切れ悪く言った。
「好きでもない女にくちづけをする気はありません」
 ロウタツははっきりと告げる。
 黒い目に浮かんだのは驚愕と、わずかな歓喜。
「……酔ってたからじゃなくて?」
「証明をしてみせましょうか?」
 ロウタツは健康的に焼けた頬にふれる。
 わかりやすいほど怯えが走ったが、観念したように吐息をついた。
 もともと少女は我慢が利く体質ではない。
 それは二年たった今も変わりがないようだ。
「う……。
 いや、その、だって」
 ゲッカの目が泳ぐ。
 それは困惑ではなく、未知への恐怖だろうか。
 あるいは期待だろうか。
「合意が得られないならいたしません。
 ご安心ください」
 ロウタツはすっと立ち上がる。
 一歩踏み出す前に、長袍の袖が握られる。
 あまりに予想通りの結果だった。
「したい」
 あっさりと幼い少女は言った。
 それから自ら口走ったことに後悔したのだろう。
 顔色を失って空いている方の手で口を隠す。
 ロウタツは長袍をつかんでいる手の甲に唇を落とす。
「お嫌ですか?」
 鉄色の瞳は稀有な黒い目を見つめる。
 答えあぐねている幼い少女の頬に、額に、鼻先にくちづける。
 最後に口を隠す手に。
 ゲッカは観念したように
「……嫌じゃない」
 とそっと息を吐きだした。
 黒い目はうっとりと快感を享受していた。
 ロウタツはゆっくりと手をほどくと、その唇に自分の唇を重ねた。
 ほんの掠める程度のくちづけだった。
 大きな瞳は羞恥を隠さない。
「では瞳を閉じてください」
 ロウタツは静かに言った。
 ゲッカはゆるゆると瞳を閉じた。
 男を誘うということに慣れていないのだろう。
 痛々しいほど緊張感が漂っていた。
 ロウタツは安心させるように頬を手を置き、紅すら乗せられていない唇を堪能する。
 花の香りがするとぼんやりと思いながら、甘いくちづけを味わう。
 ふいに、人の気配を感じる。
 ロウタツは唇を離した。
 黒く長い睫毛がわなないて目を見開く。
 驚いたようにロウタツを見上げる。
「……あ」
 ゲッカは続きをねだるように呟く。
 その意味すらも気がつかずに。
「人が来ます」
 ロウタツが言葉を告げてから、ほんの数拍後に衣擦れの音が近づいてきた。
「ご自分の部屋にお戻りください」
「……うん」
 名残惜しそうな瞳をしてゲッカは椅子から立ち上がる。
「どうぞ」
 ロウタツはその小さな背を押しやる。
 ゆるゆるとゲッカは衝立の向こうへと戻っていく。
 それを見送りながら、早く皇帝の威光も遠い海月城に帰れないものかと思う。
 書卓に椅子を戻し、筆を取る。
 一言、諾と書く。
 それで意味は通じるはずだった。
 少なくとも竹簡を寄こした相手には。
 さて、これをどう届けたものか。
 宴はまだ続くのだ。
 適当なところで、中座するか。
 さして気に留める者はいないだろう。
 この時ばかりは自分の評判の悪さに感謝する。
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