夢現
ソウヨウは白鷹城の書斎で書類決済中だった。
大司馬の署名と判子が必要なだけの書類ばかりが残っているから、地味で単調な作業になる。
読み返して、瑕疵がないか確認する必要もない書類。
それらに署名をしていく。
頭の中が空っぽでもできる仕事だったら、ふいに過った。
何故、行千里は死んだのか。
海月太守が運んできた密書。
そこにあったのは流麗な墨跡な命令文。
書き手は大陸唯一の国なった鳥陵の皇帝であるホウスウ。
行将軍は大司馬の下にあった八将軍の一人。
部下の不始末の処理は上官の務めであろう。
また行千里ほどの剣の腕前であれば息の根を止めるのは容易ではない。
色墓で最高位の緑を赦されたシ・ソウヨウだからできたことだった。
歩く暗器として完成させられた自分だからこそ。
ソウヨウは命令に忠実に従い、速やかに遂行した。
ただ、腑に落ちない点はいくらかあった。
何故、海月太守が密書を運ぶ役目に選ばれたのか。
ソウヨウにとって敵でも味方でもない人選だ。
行千里を排除しなければいけない人物だというのは、あの密書を受け取る前からソウヨウでも知っていた。
同じ八将軍のヤン・カクエキからの報告。
進軍の情報が漏れている。
わざとなされていることが、ソウヨウの耳にも自然と入ってきたのだ。
誰が行っているのか。
招集会議に副官を代理にして欠席した行将軍。
一つ一つが碁盤の上に緻密に配置された白石のごとく。
ありえない。とはソウヨウは思わなかった。
ソウヨウが鳥陵の試金石であることも重々承知だった。
誰もが資質を疑い、誰もが大司馬の地位から引きずり落そうとしている。
公主の婿という未来を奪おうとしている。
朝廷で不安定な立ち位置にいる。
鳥陵皇帝のお気に入りに臣下。
皇帝陛下は妹公主を溺愛しており、甘やかし放題。
それ故の配置。
世情に疎いソウヨウが知っているのはそれぐらいだった。
カクエキの一報から行将軍の疑いは確信になった。
密書を受取り、事実になった。
最初に疑ったのは誰なのだろうか?
少なくとも行千里はすぐさま実行には移さなかった。
迷っている……わけだったのだろう。
準備期間など必要がないのだから。
それを決定打にした。
その原因とは?
行将軍に北伐の命令を与え続けたのも試し行為だった。
国境近くの……すぐさま行将軍の故郷であるギョウエイに渡ることができる地域。
一夜で千里を駆ける。
そう呼ばれた馬操術からついた字が『千里』だったのだ。
腹心の配下を連れて軍事行動をしていたのだから、そのまま故郷のクニへ帰り、鳥陵に反意を示すこともできた。
報告のために都である朱鳳や白鷹城近くに滞在する期間もあったのだから、機会はいくらでもあった。
それなのに行千里はあの時まで裏切りをしなかったのだ。
不可解な謎ではあったが死人に口なし。
ソウヨウに命令をしたホウスウ自身も真意を話す気はないだろう。
ホウスウの密命を受けた時にソウヨウは別段、何も思わなかった。
鳥陵皇帝の暗殺。
自分の命を守ることは生き物にとって正統行為であったし、ましてやホウスウは皇帝だ。
飛の姓を持つ男児がいないのだから、後継者争いが起き、国は泥船のように沈むだろう。
かつては友と呼んだ人物であってもホウスウは殺さなければならない。
それは掛け違えた釦のように。
どこで間違えたのだろうか。
ソウヨウの心情は冷めていたので同情からではなく、残った謎の方に重点は置かれている。
疑われるような行為をした時点で悪い、と言われる世界なのだ。
ふわりと花薔薇のような香りがした。
ソウヨウは一気に現実に引き戻された。
「シャオ、おはよう。
考え事?」
雲雀の声よりも澄んだ愛らしい声がごく間近でした。
「おはようございます、姫」
条件反射的に挨拶をする。
白鷹城が鷲居城と呼ばれていた頃からの癖だった。
人質として九歳の頃から城に登ってから、毎日のくりかえし。
その日、出会った時の挨拶は『おはよう』ではなくてはならない。
チョウリョウの姫の絶対の律だった。
当時の赤茶色の髪は肩にも届かないぐらいだったけれども。
「気がつかずに申し訳ありませんでした」
ソウヨウは曖昧といわれる瞳で恋人を見つめた。
これから深まる季節に合わせて、涼やかな衣の色合いから、匂うような色合いに変わっていた。
白は純白の白から、柔らかな黄みが混ざり、翡翠のような鮮やかな緑の下に、華やかな紅が差し色のように入り込んでいる。
ソウヨウが確認のために視線を部屋の入口に向ける。
護衛兼見張り役として立っていた副官のモウキンが困ったような顔をして微笑んでいた。
「無理を言って通してもらったのだもの」
ホウチョウは言った。
「仕事と言っても雑務ですね。
署名をして判子を押すだけです。
誰にでもできることですよ」
ソウヨウは視線をホウチョウに戻して微笑んだ。
機密になるような書類は一切ない。
あるいは国を動かすような大きな議題の書類もない。
「署名でバレるんじゃない?
シャオぐらいの手だとお兄さまぐらいしか代筆できないわ」
ホウチョウはあっさりと言った。
鳳仙花の色のような爪紅が施された指先が乾いたばかりの署名をなぞる。
「皇帝陛下にですか?」
ソウヨウは微苦笑した。
鳥陵皇帝と同じ筆跡で書類を作成できる青年は困ってしまった。
暇つぶしだったのか、後に有効活用しようと思ったのか。
ホウスウから手ほどきを受けたせいか、無意識に文章を書くと、ソウヨウはホウスウとまったく同じ筆跡になってしまう。
だからこそ書類作成の時ですら、ソウヨウは気を使ってわざと字体を崩しているのだ。
薄い紙に書かれたホウスウとソウヨウの漢詩を透かして見れば、筆跡鑑定をされた時点で気がつかれそうなこの国の最大の秘密事項だろう。
「恐れ多い?」
ホウチョウは小首を傾げる。
金の歩揺の代わりに院子で摘まれた小さな花が髪には飾られていた。
色とりどりの花たちは香りが薄いせいか、優し気に目に映る。
「いえ、それでは会議を開いて調整した意味がなくなりますね。
鳳さまは皇帝ですら、勅命だとおっしゃればいいだけです」
ソウヨウは言った。
何でもかんでも勅命で通されたら、ごく普通の国では大騒ぎになるだろう。
先のエイネン王朝も終焉間際はかなりの数の勅命が出された。
皇帝を僭称(せんしょう)した玉棺王の国内への勅命数も多かった、と記録に残っている。
何事も面倒だと私生活でも放擲しがちなホウスウが自ら勅命を出すことは少ない。
わざわざ長々と時間を無駄にかけて結論が曖昧になる会議の時ぐらいだろう。
あるいは朝廷の派閥争いを鎮静化する時ぐらいだ。
「仕事を頑張った人の時間が水泡に化してしまうのね」
ホウチョウは言った。
「そうなりますね」
ソウヨウも頷いた。
形式的とはいえ会議は必要だ。
誰がどんな意見を述べたのか。
微調整する間にどれほどのやり取りがあったのか。
満場一致で決まったことのなのか。
すべて記録として残しておかなければならない。
「考え事は解決した?」
ポンと鞠を投げるようにホウチョウは質問をした。
「過ぎてしまったことは変えられません。
仮定しても無意味です」
ソウヨウは答えた。
謎が残っているから気になっているだけだった。
「夢だったら良かったのに、って思うこと?」
ホウチョウは無邪気に問いを重ねる。
ソウヨウの想い出の小箱の蓋が開かれる。
「懐かしいですね。
以前も姫とそのような話をしました。
この城の一角で」
背丈は自分の方が低かった。
場所も内宮の一部だった。
この城自体も増改築でだいぶ様変わりをしている。
それでも想い出は色褪せないし、ぴたりと重なる。
「夢じゃなくて良かったことも覚えてる?」
淡い色の紅が塗られた唇が尋ねる。
「当然です」
ソウヨウは断言した。
「姫と出会えたことが夢ではなくて良かった。
あの時も思いました。
今も変わっていません」
曖昧と言われる瞳は赤瑪瑙をくりぬいたような瞳を見つめる。
「私も一緒よ。
シャオと出会えたことが夢じゃくて良かったって思うわ」
幸せそうにホウチョウは笑った。
あの時とだいぶ変わってしまったけれども、夢を、未来を、描くのは同じ想いだ。
堂々と言えなかった過去の自分とは違う。
ソウヨウも今なら自信をもって言えるだろう。
どのような過去を積み上げてきても、今が夢ではなくて良かった、と。