花の香り

「あんたは花みたいだな」
 恋人が耳元でささやく。
 戦の最中。
 それも建平元年から続いている玉棺との大規模の戦争の最中であれば、逢瀬は限られた時間になる。
 乳母の手引きで二人きりで過ごせるだけ。
 それでもわずかな時間だ。
 キョウナンは恋人の顔を見つめた。
 灯燭の中でもその瞳は青みが勝って美しかった。
「花というのはお姫様みたいな方を言うのよ」
 恋人の髪は異郷の色。
 その髪をキョウナンは梳る。
 鳥陵の都の遥か北。
 雪と氷に閉ざされたクニがあるという。
 恋人――トウテツはそこの生まれだった。
「あんたもお姫さんだろ?
 いいとこの」
 トウテツは言った。
「ほどほどの、ね。
 お姫様は公主様のことよ」
 キョウナンは言った。
 奥侍女として宮中にどうにか上がれるほどの家柄だったが、側仕えの中では圧倒的に身分が低い。
 鳥陵唯一の公主が慣れない人物を嫌い、そのために発熱して床につきがちになるためキョウナンは奥侍女であり続けていた。
「十六夜?
 あれは人を惑わす月って聞いたなぁー。
 あるいはヒラヒラ舞う胡蝶だって」
 トウテツは思い出すように言った。
 公主の号は有名だった。
 鳥陵が建国されて、クニの姫から公主になった時に、兄の皇帝から贈られたのは十六夜公主という号だった。
 即位前から兄が妹を十六夜と呼び続けた結果だったから、宮廷内の誰もが納得した。
 内宮まで入れる立場であれば、皇帝と公主の亡父や亡兄が小字代わりに胡蝶と呼んでいたのも有名すぎる話だった。
 トウテツぐらいの立場であれば直接の面識がなくても、有名な話の一つや二つは知っているだろう。
「どっちも間違いじゃないわ。
 でも、花薔薇とも呼ばれているの」
 キョウナンは言った。
 エイハンの血とチョウリョウの血を持った乙女は、とらえどころのない魅力を持っていた。
 凍てる夜に見上げる月のように麗しい冴え冴えとした美貌。
 そこに浮かぶのは表情は明るく華やかで、愛らしい我が儘を口にする姫君だ。
「詳しいな」
 トウテツは青みの強い瞳を瞬かせた。
「当たり前の知識よ」
 奥侍女であればみな知っていることだった。
 皇太后になった公主の母御は、私の可愛い花薔薇と呼んでいる。
「棘を持つ花か。
 近寄りたくないな。
 おっかなさそうだ」
 トウテツは大げさに言う。
「素敵な方よ。
 誰もが夢中になるぐらい」
 キョウナンは言った。
「そいつは大げさだな。
 誰も、じゃない。
 少なくとも、俺にはあんただけだ」
 トウテツはキョウナンを抱きしめる手を強めて、耳元でささやく。
 異郷の色の髪がサラサラとキョウナンの肩を撫でていく。
 細くて硬さのある真っ直ぐとした髪質だった。
 自分の少し癖のある黒髪とは違う。
「上手ね」
 キョウナンは恋人の背を抱きしめ返す。
 どれほど密着しても、心まで同一にはならない。
 そんな寂しさを感じる。
「故郷に咲いている花はあんたによく似ているよ。
 こっちとは違う」
 トウテツは重々しく告げる。
「見てみたいわ」
 そんなことは無理だとわかっていながらキョウナンは言った。
 トウテツがこちらに来てから、もう何年も故郷と呼ばれるクニへ帰っていないことは知っている。
 成人前にチョウリョウにやってきて離宮暮らし。
 そこからは皇帝陛下に見いだされて、軍人としての道を歩き出した。
「平和になったら連れてやってやりたいが、こればっかりはな」
 体温が直に伝わるし、心音が重なるせいだろうか。
 キョウナンには嘘偽りではない気がした。
「そうね。
 あなたの武運を祈っているわ」
 戦争なんて知らない間に終わってしまえばいいのに。
 軍馬のいななきも、戦場で流される血の量を知らないキョウナンは思った。
 平和になったら。
 生まれた時から動乱の世の中。
 そんな言葉はただ綾。
「あんたが苦労するだろうから、俺がこっちに残るのもありだな。
 あんたの父親が許してくれるんだったら」
 トウテツは意外なことを口にした。
 故郷に帰りたい、のだと思っていた。
 何年もその地に足をつけていなくても、故郷は故郷だ。
 生まれてすぐに連れてこられたわけではないなら、なおのこと。
 血縁だって残っているだろう。
「そうしたら連れ出して」
 心からの望みをキョウナンは言った。
 行儀作法の一環で奥侍女として勤めている。
 それは家同士が勝手に縁組をされては困る、という意味であり。
 皇帝が即位して後宮がある以上、いつお手付きになってもおかしくない、という意味だった。
 愛する恋人と引き裂かれるぐらいなら。
「駆け落ちか?」
 茶化したようにトウテツは言う。
「ここでは珍しくはないわよ」
 皇帝と公主の両親とて駆け落ちだったのだから。
 今は玉棺と鳥陵に分割された北の紛争地帯。
 未来を夢で見るという斎姫が生み出される血筋を持つエイハン。
 皇太后はそのクニの王族であり、斎姫だった。
「安息の地がなくても?」
 お決まりの台詞をトウテツは口にする。
「あなたがいるわ。充分よ」
 キョウナンも誓約するように言った。
 もったいなさすぎる言葉だった。
 チョウリョウの民が一生に一度、味わう運命の『恋』。
 そうだ、とキョウナンは胸を張って言えるだろう。
「愛している」
 トウテツに力強く抱きしめられて、この腕の中で今、息絶えられたら至福だろうとキョウナンは思った。
「私も愛しているわ」
 未来があることを信じて、キョウナンは言った。
 今しか見えなくても、永久の愛になることを信じている。


   ◇◆◇◆◇


 しがらみを捨てて駆け落ち。
 宙ぶらりんの今よりもマシだろう。
 記憶にある故郷の春は美しかった。
 冬が厳しかった分だけ、春の訪れは輝かしかった。
 どこに行ってもトウテツには安息の地はない。
 父親は一番初めにできた息子の有効な使い方を思いついたようだった。
 何年も忘れ去っておきながら、父から届けられた手紙。
 親子の情を思い出させるようなものではなかった。
 あの父らしい簡潔な命令文だった。

 鳥陵皇帝の暗殺。

 それがトウテツに出された指示だった。
 皇帝であるホウスウとは即位前から臣下として友人としての距離の間にいた。
 トウテツの方が一つだけ年齢が下だったが、それなりに打ち解けていた。
 だからこそできるだろう、というギョウエイのクニの主は判断した。
 ギョウエイのクニの主の息子として、このチョウリョウに残ることはできない。
 友を殺すことなどできるはずもなく、恋人の手を離すこともできない。
 父親からの命令を無視すれば、どうなるかも理解はしている。

 平和な世界を見てみたかった。
 偽りのない言葉であり、今でも変わっていない。
 自分の菫色の瞳で、小さな花たちが咲き誇る姿を見たかった。

 もう、叶いそうになった――。
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