偽造

 大司馬シ・ソウヨウは書卓に広げられた竹簡を拾い上げ呻いた。
 ちなみに鳥陵皇帝の目の前でだ。
 邪魔をするような天官もいなければ、護衛する兵もいない。
 完全に人払いされている。
 もし何かあったなら、誰が責任を取るのだろうか。
 夏官長の己か、それとも天官長だろうか。
 そんなことを考えても、意味はない。
 相手は絶対領域の持ち主なのだから。
 フェイ・ホウスウのいくつかある特技だが、知る者は少ない。
 恐ろしいほど目の良い若い男は瞬時に相手の間合いを完全に見切る。
 ソウヨウが本気になっても、その間合いに飛び込んでいくことは難しいだろう。
 絲一族で特に緑を赦されたソウヨウですら、そう思うのだから常人には無理だろう。
 そんなこと考えながら歩く暗器は、流麗な文章が書かれた竹簡を見る。
 ここは鳳凰城の後宮内の私室の一部だ。
 歳若い臣下の失礼極まりない呻き声を聞いていたいと尊き方は、微かに口元を笑みを履いただけだ。
 流麗な文章を水のように書きつけていく。
「文章偽造罪って、どれぐらいの罪に当たると思いますか?」
 ソウヨウは興味を覚えて尋ねてみた。
「今度、南渡りの香木を下賜しようか?」
 ホウスウは手を止めずに、答えた。
 ますますソウヨウはふてくされた。
「伽羅よりも白檀の方が好きなんですよ」
 面倒くさそうにソウヨウは告げた。
「その割には、ソウヨウからの奏上文は香りがしないな」
「趣味の話です。
 焚く香の話をしているわけではありません。
 墨で使う香料の話です」
「なるほど。
 つまり十六夜への恋文か」
「漢詩でも使いますよ」
 ソウヨウは否定はしなかった。
「そういうことにしておこう」
 流麗な墨蹟は淀むことは知らない。
 書き上がったばかりの法令は、削り跡すらない。
 つまりは一字も損なうことがないということだ。
 完璧に書く文章が頭の中に入っている証左だった。
「だが、そろそろバレるだろう?」
「私はバレてもかまいませんよ」
 ソウヨウは手にしていた竹簡を巻いていく。
 幼い頃、人質として鷲居城にきたばかりのように、丁寧に。
「私が困る」
 剣など知らないような白くて長い指先が墨が乾いたかどうかを確認するように竹簡を撫でる。
「……好きでやっているわけではありませんから。
 いっそのことバレてくれた方が気が楽です」
 ソウヨウは断言した。
 巻き上がったばかりの竹簡を書卓の片隅に載せる。
 やがては皇帝の名の下に出される法令だろう。
「鴻鵠は気がついているようだが、見て見ぬ振りをしているな」
 ホウスウは人臣の位を極めた男の字を挙げた。
「だったら、もういいじゃないですか?」
「私は楽がしたいのだよ」
 愉し気にホウスウは言った。
 そして、書き上がったばかりの竹簡をソウヨウに投げて寄こす。
 書卓に真新しい竹簡をカランカランと音を立てて広げる。
 筆を取り、書き始める。
 仕方なしにソウヨウは竹簡を巻き始める。
 元より人の話を素直に聞く人ではない。
 思ったよりも長い付き合いになってしまった。
 初めて北の大地に踏んだ時に、こんな未来を描いたことはなかった。
 あるいは故郷である色墓に戻った時も、南城の城主を任された時も。
「もし私が野心を持ってしまったら、どうするつもりなんですか?」
 ソウヨウは忠告代わりに尋ねた。
「それならこの国をくれてやろうか?」
「ご冗談を。
 私には小市民的な穏やかで慎ましやかな生活を送るという野望があるんです」
 ソウヨウは断言した。
 かなり目立つことをしておきながら、さも当然ということを言い放った。
 十代で大司馬という地位に就いたという。
 空前絶後をした青年は遠い空を見やるように願望を口にした。
 いや、させられたと言った方が正しいだろう。
 何といっても宰相である鴻鵠の目の前で、下された勅命だったのだ。
「まあ、あの美しい花薔薇の院子を守りながら暮らしていけばいいさ」
「姫がお好きですからね。
 ……話を逸らしても無駄ですよ」
「引っかからなかったか。
 ……そうだなぁ。
 私が飽きるまでは続けてもらおうか」
 よくわからない区切りをホウスウは言った。
「本気ですか?」
「有言実行は、私の数少ないこだわりの一つだからな。
 それに皇帝になった以上、言葉には責任を取らなければならない」
 洗練の極みというべき流麗な文字は伸びやかに竹簡を埋めていく。
 それを何となし気にソウヨウは曖昧といわれる瞳で眺める。
 うっかりと自分の奏上文との差異はないだろうか。
 そんな栓もないことを考えてしまう。
「いちいち筆跡を変えるというのは面倒なんですよ」
 ソウヨウは巻き上がったばかりの竹簡を載せる。
「……そんなにか?」
「今のところ似ている、で済まされていますが」
 ソウヨウはためいきをつく。
 無意識化で書いてしまうと、どうしても目の前の物と同じ物になってしまう。
「傑作だな」
 ホウスウは珍しく笑った。
「鳳様のせいです」
 ソウヨウははっきりと言った。
 何が嬉しくて、筆跡に気をつけながら文章を書かなければならないのか。
 大司馬という立場上、書類決済は避けて通れない。
 疲労で参っている時には、自分の名前すら署名できない。
 そんな苦労を知らずに目の前の若い男は、文章を書き続ける。
「それでよく十六夜にバレないな」
「竹簡を使いませんから。
 紙か絹布を使います」
「まあ確かに恋文なら妥当だろうな」
 ホウスウは笑い続けながら言う。
 つまるところ、皇帝であるホウスウと大司馬であるソウヨウの筆跡は差異はない。
 長年に渡り仕え続けている宰相ぐらいしか、気がついていないというのだ。
 判断基準は竹簡に焚きこまれている香だけだという。
「そんなに気になるなら削ってみればどうだ?」
「そんな器用なことができたら、とっくのとうに行動していますよ」
「だろな」
 ホウスウはうなずいた。
「役割に忠実な大司馬がいてくれて助かるよ」
 相も変わらず竹簡に流麗な文章が構築されていく。
 まるでソウヨウ自身が書いた文字のようだった。
 それもそうだろう。
 ホウスウは面白半分にソウヨウに自分が書く癖を徹底的に覚えさせた。
 ソウヨウが気がついたところには手遅れだった。
 まったく同じ筆跡で書けるようになってしまっていたのだ。
 それも無意識化になる程度に馴染んでしまっていた。
 以来、人前ではわざと筆跡を変える必要ができてしまった。
 副官であるモウキンですら気がついないだろう。
 この国の重要な秘密話だった。
 ソウヨウは何度目かわからないためいきをついた。
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