終わる季節に
その話を耳にしたときに思ったことは――。
あの方は、本当にお寂しいのだ。
ということだった。
◇◆◇◆◇
建平という年号が定まり、チョウリョウは新しい節目を迎えた。
それは、喜ばしいことなのか……奥侍女でしかないメイワにはわからなかった。
咲いた花の数だけを数えているような内宮の中では、外のことは遠く、どこかぼんやりとしていた。
薄絹越しに見る空のように、どこか作り物めいていた。
「――というわけ。
ちょっと意外だと思ったわ」
「計算づくなのかもしれないわよ」
「鳳の君ですものね」
どこか棘をはらんだ噂話。
閉鎖的な空間ではよくある話。
メイワは、聞くとはなしに聞いていた。
賓客たちの部屋と比べても、そう見劣りしない調度に飾られた一室は、奥侍女のために用意された部屋。
趣向をこらした装いの奥侍女たちは、そこで他愛のない話に興じる。
行儀見習いの一環の登城であれば、重要な仕事は与えられない。
ごく一部を除いて。
「どう、思います? メイワ」
窓越しに、院子を眺めていたメイワは現実に引き戻された。
同僚たちの眼差しは、どれも麗しかった。
生き生きとした黒茶色の双眸は、瑪瑙のように美しく、それを縁取るまつげは露も耐えられない風情があった。
綺羅らかで、艶やかな美貌というのだろう。
同性の目から見ても十分、魅力的な女性たちだった。
メイワは、そっとためいきをつく。
「陛下のお考えは深遠で、私にはわかりかねますわ」
笑みらしきものを作り、メイワは言った。
皇帝として即位した五つ歳上の青年は、自分の胸のうちを明かすことを得意としていなかった、ように思える。
「では、メイワは気にしないというの?
あのような子どもが……」
憎たらしい、と美しい同僚は眉をひそめる。
「ものめずらしい、から。
と、私は思っていました」
メイワは言う。
一拍。
間が空いてから、楽しそうな笑みが漣のように広がった。
「メイワらしいわ」
「あら? でも、的確だと思いましたわよ」
「言われてみればそうよね」
傷つけられた体面をかばうように、女たちは笑う。
自分の務めは、無事果たされたのだろう。
メイワは息を吐き出しながら、院子に目をやる。
外は秋の支度を始めていた。
今年も、紅い季節がやってくる。
葉のすべてが紅く染まる前に、と願い。
葉のすべてが落ちる前に、と願う。
けれども、メイワは知っていた。
今年もただ時が流れていくのを感じ、やがて歳を重ねていくのだろう。
どんな約束も……忘れられたかのように、時が静かに去っていくのだろう。
「では、私はそろそろ。
姫の下へ参りますわ」
メイワは微笑んだ。
「きっと今頃、癇癪を起こしてるわ」
「あの方、我慢がきかないから」
「大変ね。メイワ」
同僚たちはおしゃべりの手を止めて、気安い見送りをくれる。
メイワは返事のような笑顔を浮かべて、部屋を後にした。
形ばかりの後宮には、最低限の女官と必要人数の侍女で構成されていた。
二代前から、後宮というのは「家族」のものであり、血統を維持するために子をなす場所ではなかった。
家の「奥」という印象から抜け出せない。
そのような場所であった。
それが一変したのは、年号が建平を改まってからのことだった。
兄の後を継いだ、鳳の君には妻もいなければ、確たる約束もなかった。
朝廷の筆頭である宰相にも、皇帝を補佐する太師にも、手ごろな娘がいなかった。
前の王朝であるエイネンの血を有するシャン家も乗り気ではなく、またウェン家にも良い切り札がなかった。
ともすれば、出世を狙う他家の目の色が変わらないはずがない。
親たちは娘をせっつく。
今なら『皇后』の身分も夢ではない、と。
一つきりの席をめぐって、娘たちは競い合う。
それは院子に咲く花のように、華やかで、外の風を知らない陽気さだった。
◇◆◇◆◇
物が砕け散る音。
耳に飛び込んできた音に、メイワの足は早くなる。
「姫! おけがはありませんか?」
主人の部屋に飛び込んだ。
部屋の中央には、肩で息をする乙女がいた。
柔らかい白の寝着に朱い糸靴。
用意してあった装束に袖を通していないということは、起きぬけなのだろう。
膝まで届く艶やかな髪は編まれておらず、糸のように乱れていた。
「どうして!」
ホウチョウは鋭く叫んだ。
極上の赤瑪瑙にたとえられる大きな瞳が、メイワを見据える。
可憐な乙女は泣くに泣けない表情をしていた。
今にも悲鳴を上げそうな顔をしていながら、その瞳は乾ききっていた。
砕け散った水差しを除けながら、メイワは主の下へ向かう。
「何かございましたか?」
「……メイワ。……いたの」
「ええ。姫」
メイワはホウチョウの腕を取る。
微熱。
上等な衣に包まれた細い腕は、不穏な熱を発していた。
「さあ、こちらへ」
寝台まで手を引いていく。
風になびく花のように、ホウチョウは逆らわなかった。
「割ってしまったわ」
ポツリ、とつぶやいた目線の先には、水差しがあった。
白地に鮮やかな色彩で鳥が描かれていた陶器は、元の形がわからないほどに、割れていた。
元の形を取り戻そうとするのならば、職人たちの根気を試すことになるだろう。
「形あるものは、いつかは壊れるものです」
メイワは降りている紗をめくり、ホウチョウを寝台に押しこむ。
「割れたんじゃないわ。
私が割ったのよ」
大きな瞳がメイワを見上げる。
「おけがはございませんか?」
「物に当たっても……苛立ちは減らないものね」
「ええ。そうですわね」
メイワはうなずいた。
「もう、メイワは聞いたのかしら?
お兄様が、妻を娶るって話」
「いいえ。
一体、どちらの姫君なのでしょう?」
「傑作よ。
あの、華月。
あれが皇后になるんですって!」
ホウチョウは怒鳴った。
「噂でしょう」
メイワは否定した。
辺境のクニの総領であった少女は、その姓から海姫と呼ばれている。
待遇だけなら、夫人のひとりと変わらない扱いを受けている。
皇帝の字を呼ぶことを許され、私室に立ち入ることを許されている。
ただし、今までその特権を得てきた女は海姫だけではない。
少数ながら「いる」のだ。
「みんなが言ってるわ。
誰もが言うの!」
ホウチョウは不快さを訴える。
「正式な発表ではありませんわ」
「私は、華月が大嫌いだわ!
あの子が、皇后になるなら、私は公主をやめるわ。
一緒に食事をしたくないもの」
「……姫」
「だって、華月が嫌いなんですもの。
仕方がないことだわ」
「姫。姫のほうがずっと歳上なのですから」
「嫌よ!
華月が変わらない限りは無理ね!」
「まだ海姫さまは小さいのですから」
「小さい?」
ホウチョウは皮肉げに笑う。
赤瑪瑙の瞳が爛々と輝く。
「もう十分、大きいわよ。
だって、そうでしょ?
この城に来たときのメイワはもっと小さかった!
シャオだって、今の華月よりも小さかった!
あんな風にメソメソなんてしてなかったじゃない!!」
体全体で、ホウチョウは叫んだ。
メイワは膝を折り、主と視線の高さを合わせる。
「状況も、立場も違いますわ」
家のために来たのは、誰もが一緒だ。
守るものがあったのも、一緒だろう。
選ぶことができなかったのも、おそらく一緒だ。
「私は姫にお会いすることができて、幸せです」
メイワは言った。
きっと、曖昧な色の目をした少年も同じだろう。
いつだって、あの少年は心から笑っていた。
「だから、悲しくなんてありませんわ」
家を思ったことはあるけれど、逃げ出したいと思ったことはなかった。
二つ歳下の主を見捨てることなど、できなかった。
「私は……嫌なの。
華月を、お兄様の運命だなんて思えない」
「それを決めるのは、陛下ですわ。
良い時期が来れば教えてくださいます。
姫の兄君ですもの。
それまで、ゆるりとお待ちしていればよろしいのですよ」
メイワは言った。
「華月だけ特別扱いなの。
今まで、そんなことなかったのに」
ホウチョウの指が、ぎゅっとメイワの手を掴む。
「今度、お話をしてみればよろしいのでは?」
「お兄様と?」
「はい。
陛下のお気持ちを聞けば、姫も納得できるはずですわ」
「無理よ」
ホウチョウは歳相応の笑顔を見せた。
幼さの抜け切った娘らしい、苦笑にも取れる笑みだった。
「お兄様は昔から、ご自分の気持ちに正直にはならないもの。
メイワも知っているでしょ?」
だから、無理だ。とホウチョウは力なく首を振った。
「そんなことはありませんよ」
メイワは微笑む。
ホウチョウは大きく息を吐き出すと、メイワの手を振りほどいた。
疲れたのか、そのまま寝台に身を横たえる。
メイワは立ち上がり、細い体に布団をかける。
「すこし騒がしくなりますが、我慢してくださいね」
「片付けるの?」
「姫が起きてからのほうがよろしいなら、このまま退がります」
「片付けていいわ。
お兄様に知られたら、また怒られるもの」
「では、知られる前に片付けてしまいましょう」
「お願いするわ」
そういうと、ホウチョウはまぶたを伏せた。
一過性の苛立ちだったのだろう。
深い呼吸は、小さな寝息に変わった。
メイワは微笑み、紗を下ろす。
幸いなことに割れたのは、水差しだけだった。
床に散った破片を拾いながら、よく聞く噂に思いをめぐらせる。
皇帝陛下は、海月の姫君にご執着だ。
どうやら、あの異民族の娘を妻にするつもりだ。
メイワはためいきをつく。
海月の元総領は、数え十二の少女だ。まだ子どもと呼んでいい。
恋が育たないとは言わないけれど……。
五つ上の青年が思っているものは、違うような気がした。
自分の気持ちに素直になるような方ではなかったけれど。
いや、そんな人だから、噂になるような恋をするのだろうか、と。
誰が見てもわかるような、そんな正直な好意を向けておいて、妹姫に教えないということがあるのだろうか。
宰相に相談して、約束を確たるものにしないのだろうか。
そんなことを、メイワは思ってしまった。
すべての破片を拾い集め、手巾を包む。
ふと目に飛び込んできた庭の色は、やはり秋の色。
恋そのものなのに、恋の終わりを告げる色だった。
確たる約束が欲しいのは、自分自身なのかもしれない。
幼いころの約束を思い続けるには、歳を重ねすぎた。
どこで、人は純粋を失ってしまうのだろう。
恋の情熱を疑ってしまうのだろう。
メイワは、終わりいく季節の絢爛さに、そっとためいきをついた。