午餉
「箸が進んでないな」
鳥陵皇帝の私室。
月のように冴え冴えとした容貌の男は、微笑んだ。
そう口にした男の箸の先は汚れていない。
「え!」
ゲッカは慌てて箸を握りなおす。
「作り直させようか?」
ホウスウは甘やかすように言った。
「ダメだよ! 料理をしてくれた人に悪いよ!」
童女は真剣に言う。
円卓に並んだ料理の数々は、皇帝の食事をしては質素なものかもしれないが、それでも気配りに満ちていた。
皿ごとに味が違う。
塩辛いものを、甘酸っぱいもの、あっさりとしているもの、こっくりと味付けしたもの。
温かいものは温かいまま食べられるように、湯気の張った容器の上に載せられていたし、冷たいものは冷たいまま食べられるように、冷水の張った金属の器の中に入っていた。
「鳳が食べたくないんでしょ」
ゲッカは言った。
「子どもの華月とは違うから、毎食、毎食、食べる必要がないだけだ」
「嘘だよ。
沖達は一日三食、食事をしていたよ。
食べないときは……」
ゲッカは口を引き結んだ。
カイゲツの宰相が食べないときは食糧不足のときだった。
自分の分を削って、他に与えなければならないときだった。
畑を耕すわけではない。船を漕ぐわけではない。刃を持って国を守るわけではない。未来を担う子どもではない。
だから、食糧難のときは、食事を削っていた。
「とにかく!
食べなきゃ倒れちゃうよ!」
「華月は、沖達沖達ばっかりだな」
ホウスウは箸をもてあそびながら、苦笑する。
「ボクの勘違いじゃなきゃ、鳳と沖達は同い年だよね。
身長とかだって、そんなに変わらないし。
鳳だけ、特別ってわけじゃないと思うんだけど」
「皇帝は特別だよ」
「違う! そういう意味じゃないよ。
同じ人間だよ。
食べなきゃお腹がすくだよ。
お腹がすいたら、とても辛いんだよ」
食べられない辛さは、口で説明ができない類のものだった。
カイゲツの総領だったゲッカは『ひもじい』と言ったことはないが、感じたことなら山ほどあった。
「私を人間というのは、華月ぐらいのものだな」
「鳳は皇帝だけど、やっぱり人間なんだよ」
ゲッカは言った。
「本当に沖達という男は素晴らしいのだな。
一度、ゆっくりと話してみたいものだ」
ホウスウは微笑んだまま言った。
「え?」
ゲッカは黒い瞳を瞬かせる。
「華月の話を聞いていればわかる。
沖達がどんな考え方をして、どんな生き方をしているのか。
どんな理想を掲げていたのか」
惜しいことをした、と鳥陵皇帝は呟いた。
「鳳と沖達は、きっと気が合うよ!
二人とも一生懸命だもん」
幼い少女は無邪気に断言した。
「どうだろうな。
沖達は、私を憎んでいるだろう。
それとも個人的な憎しみを乗り越えられるほど、大人物なのだろうか」
「……個人的な憎しみ?」
ゲッカは鸚鵡返しをする。
「私はカイゲツを滅ぼした」
「でも、でも!
鳳はカイゲツを郡にしてくれたじゃないか!
カイゲツは、鳥陵になったから……飢える人が減ったって。
みんな幸せになったんだよ」
「華月の幸せは、腹が満たされることか?」
「だって、食べなきゃ、人は命って簡単に奪われるんだ」
餓死は辛い。栄養不足で病死するのも辛い。寒さに耐え切れずに凍死するのも辛い。
助け切れない命が辛い。
カイゲツが貧しかったのは、土地が痩せていたからではない。
痩せた土地でも、そこに人が居つくのは暮らしていけるからだ。
畑を耕し、漁をし、交易をすれば、ちゃんと暮らしていける。
ゲッカがカイゲツの民を養いきれなかったのは、戦をしていたからだ。
戦いで人手を奪って、飢えさせた。
「カイゲツは鳥陵になって、幸せになったんだ」
要請があれば兵士を差し出さなければならないが、それでも畑を耕せる。漁に出られる。
ゲッカが総領でいた時代よりも、それはずっとずっと幸せなことだった。
「人によって価値は違うものだ。
私は……国が豊かになればいいと思う。
鳥陵の国が豊かになればいい。と。
それは鳥陵の皇帝だからだ」
「うん」
「だが鳥陵の国と敵対する国は許せない。
そこにいる民を気にかけない」
「うん」
「恨みを買うのも当然だろう」
「だけど、どうしてそれが沖達につながるの?」
ゲッカ以上に、カイゲツの内情に詳しかった宰相だ。
今は郡となった海月を任されている。
感謝こそしても、恨むことないだろう。
「個人的な憎しみだと言っただろう。
憎しみを乗り越えられる者は少ない」
「……鳳は、乗り越えたの?」
「私は、それほど強烈な感情を抱いたことはないよ」
「え?」
ゲッカは目を見開く。
「情が薄いのだろうな。
誰かを憎んだことはない」
「お父さんやお兄さんの敵は?」
「ギョクカンの王が敵となるのだろうが……、会ったことがないからな」
ホウスウは苦笑した。
「まあ、確かに。
話したこともない人を憎しむって難しいよね。
でも、でも。
沖達が恨むって、鳳ってこと?」
二人が会ったことはあるけれど。
あれだけ、歴史に詳しく、知識のある宰相が恨むのだろうか。
弱いことが罪である。
それを知っていた男性だ。
「明確だろう」
楽しげにホウスウは言った。
「そうは思えないけど」
ゲッカは箸の先を見つめる。
沖達は感情表現が静かだった。
海と違って、波の立たない井戸みたいなものだった。
笑顔も控えめなもので、大好物の蜜柑があっても、穏やかに笑うだけで。
憎むというのが想像がつかなかった。
「そうは思えない」
少女はくりかえした。
あんなに優しい人間が、誰かを憎むとは思えなかった。
記憶の中の沖達は、優しかった。
時に厳しかったが、それはゲッカを思いやってのこと。
甘やかすのと、優しいのは違う。
それは、卓を囲んでいる鳥陵皇帝と、沖達が違うぐらい。
似ているが、まったくの別物だった。
「華月は、本当に沖達が好きなんだな」
ホウスウは言った。
「当然だよ!」
ゲッカは顔を上げた。
「ボクは……ずっと沖達が好きだったんだ。
ずっと好きだよ」
一番に気をかけてくれた。
思ってくれた。
誰よりも、大切にされた。
カイゲツの総領になる前から、とても小さい頃から。
ゲッカの記憶が始まるころから、沖達はいつも一緒にいてくれたのだ。
泣けば、慰めてくれた。
新しいことを知れば、褒めてくれた。
悲しいことがあれば抱きしめてくれた。
良いことをすれば、頭をなでてくれた。
「これからだって。
ずっと好きなままだよ」
ゲッカは言った。
「それは良いことだ」
ホウスウは微笑んだ。
その笑い方が、ちょっとだけ沖達に似ていた。
とてもとても穏やかに笑うのだ。
「うん」
ゲッカはうなずいた。
その日の昼餉、鳥陵皇帝は始終、箸をもてあそんでいただけだった。
一年に二回だけ。
夏と冬。
フェイ・ホウスウの臓腑は、食べ物を受けつけなくなる。
体調を崩しやすい時期、というだけではない。
当人がどれほど、努力しようとも、食べられないのだ。
一年に二日だけ。
ホウスウは食べられなくなる。
それを知る者は、ほとんどいない。