夏の朝
東の空がまだ銀の煌きを宿している時分だった。
気の早い朝告げ鳥が一声、つんざくように鳴いた。
鳴かぬように喉でも潰しておけばいいのに、と誰もが一度は考えたことがあるような、目覚めの良くない朝だった。
シャン・シュウエイは、自分の部屋の寝台で、目を覚ました。
夕べに過ごした酒の匂いが体にまとわりついていた。
鈍りがちな思考に活を入れるのも兼ねて、シュウエイは窓を開ける。
日が昇る前の涼しげな風が、室内にさまよいこむ。
樽を一つ空けさせられた記憶がぼんやりと残っていたが、どんな会話をしたのか全く覚えていない。
親しくするつもりもない同輩の言葉によると、ずいぶんと饒舌になるらしい。
自分の部屋で目覚めたということは、昨夜は大きな失敗はしなかったということだ。
ひとまず安心することにした。
営倉という場所は、かび臭く、薄暗く、愉快な場所ではない。
目覚めの場所としては、最悪に近い。
シュウエイは手早く身支度を整えると、部屋を出る。
城砦としては華のある南城の廊下を渡り、何故か直属の上官であるシ将軍の私室に向かう。
朝はぼんやりとしていて、支度に手間取る将軍の世話をするためだ。普段は、副官のモウキンが一手に引き受けているが、壮年の男性にも休暇は必要だ。一月に一度か二度、将軍の「お友だち」であるシュウエイにも仕事が回ってくる。
今日が、その日だった。
シュウエイの足がピタリと止まる。
ちょうど、ソウヨウの私室にいたる戸の前で。
寝坊で有名な将軍が、えたいの知れない表情を浮かべて、立っていた。
朝の散策を楽しむには申し分がない程度には、装束が調っていた。
大事そうに胸に抱えた白い花薔薇は、院子で摘んできたものなのだろうか。
手間が一つ減ったわけだったが、シュウエイの胸のうちは
「今度は何をやった。このクソ餓鬼が」
という、自然な感情に占められていた。
「あ、シュウエイ。
ちょうど良いですね」
今日はシュウエイの日だったんですね。と、少年は嬉しそうに微笑む。
「一人で困っていたんです」
ソウヨウは私室に続く戸に手をかける。
「最近は暑くなってきて、嫌になりますね」
シキボ生まれの少年は世間話をするように言う。
戸が開いた瞬間に、部屋にこもっていた匂いがむわんっと迫ってきた。
かぎなれた匂いにシュウエイは眉をひそめた。
まだ強い匂いにはなっていないが、体中があわ立つような、本能が拒否するような匂いだった
人によっては、吐き気を催すような匂いだろう。
シュウエイの冬葉色の瞳が室内を素早く一周する。
確かに、夏が近づくと嫌なものだ。
物が腐りやすくなる。
部屋に横たわっていたそれらもすでに腐り始めていた。
全部で三体。
癖の強い茶色の髪の男たちだった。手には刃こぼれしていない剣が握られている。配給されたものではない剣とは趣が違うところから、男たちの階級が簡単に想像できた。
床に敷かれた夏用の織物は、血を吸い込んでところどころ赤黒くなっていた。吸い込まれきれなかったそれらにも、やがて虫が吸い寄せられてくるだろう。落ち着いた緑の陶器の破片が、織物を彩っている。なぎ倒された卓子に、傷ついた椅子。部屋の片隅には、血まみれの衣が脱ぎ捨てられていた。
シュウエイはすいこんだ息のやり場に困った。
ためいき一つつけば物足りるようなものではなかった。
ここはチョウリョウの長の弟が城主になるような重要な拠点であり、比較的安全な場所であったはずだ。
強行密偵に起こした事件であるというならば、まだ穏当だ。
相手の手際が良かっただけであり、こちらの警護を厚くすれば良いだけの話だ。
だが、違う。
死んでいるのはチョウリョウの民の特徴を持つ男たちであり、生きているのはチョウリョウによって併呑されたシキボの民の特徴を持つ少年なのだ。
「シュウエイ。
花瓶が欲しいんですが、ちょうど良いものを知ってますか?」
早くしないとしおれてしまいます、と白薔薇を抱えた少年は言う。
惨劇から守られた薔薇は花弁一つ失っていないようだった。
穢れを知らないように白い。
「城主に報告はなされたのですか?」
シュウエイは尋ねた。
「していません」
あっけらかんとソウヨウは言う。
「鳳様も暇ではありませんからね。
毎日のように報告されたら、うんざりするでしょう」
少年の利き手が腰に下げた剣の束にふれる。
緑柱石のはまった漆黒の束と鞘の間には、鮮やかな朱色の細布が戒めのように巻かれている。
「約束を守るのは……難しいですね」
独り言のようにソウヨウは言う。
曖昧と呼ばれる色の目に、珍しく後悔らしきものが浮かんでいた。
どんな約束なのか、まったく興味のなかったシュウエイは
「花瓶に心当たりがあります。
ついでに風呼を起こしてきます」
と言った。
「さすがシュウエイですね」
ソウヨウはクスクスと笑いながら、白薔薇をシュウエイに手渡す。
「私は散歩に行ってきます」
「護衛は?」
「今日はもう血を見るのはこりごりです。
適当にしておきますよ。
後はお願いします」
言うが早いか、ソウヨウは院子に向かって歩き出した。
◇◆◇◆◇
シュウエイは花を抱えたまま、同僚の寝室に向かう。
目を背けたくなるような片づけを依頼するためだ。
シュウエイが死体のために穴を掘り、侍女たちにあれこれと物を選ばせるよりも、同僚が掘っている間に、シュウエイが新しい調度を選んだほうが効率が良いからだ。
死体の身元を確認する必要はないのだから、手早い作業が求められる。
鳥たちが歌い騒ぐ時間になっていたが、ヤン・カクエキは惰眠をむさぼっていた。
シュウエイは部屋に入るなり、腰に下げた剣を引き抜く。
鞘を払われた白銀の煌きを、躊躇なく振り下ろす。
切っ先は弧を描きながら太い首を両断する……はずだったが、鈍い音に止められた。
鞘に入ったままの短剣が鋭い刀身を受け止める。
黒にも近い青の目が刃越しに、シュウエイを見た。
焦点が合うと同時に、男は大あくびをした。
「手抜くなよ、起こすのに」
カクエキはのろのろと身を起こす。
「緊急だ」
シュウエイは剣を鞘に収める。
「つーか、その細い腕のどっから、その力が出てくるんだ」
カクエキは枕元に短剣を投げやる。
それから大きく伸びを一つした。
「重量のない剣で左手を添えるのは、正確性を持たせるためだ。
どうしても身がぐらつくからな。
勢いさええられれば、片手でも両手でも、力は変わらない」
そんなことも知らないのか、とシュウエイは思った。
「なら双剣のほうが有利そうだな」
あくびをかみ殺しながら、カクエキは言った。
「あれこれと、武器を極める気はない。
近接武器など、自分の生存率を上げるためだけにしか、役に立たないからな」
「そうかもな」
わずかに反りのある刀を得意とする男は認めた。
「で、何の用だ?」
カクエキは寝台から降りる。
「将軍の部屋を片付けてくれ」
「んー? 死体でも出したのか?」
あくびを混ぜながら、カクエキは衣を重ねていく。
「3つある」
「マジかよ〜。
冗談だったのにな」
男は締め終わった帯に、階級を示す玉の飾り紐をくくる。紐の色も玉の数も、シュウエイとは同じだ。
「将軍に怪我は?」
「確認はしていないが、歩き回っているんだ。
平気だろう」
シュウエイは言った。
「たまに思うんだけどよ。
よく、それでここまで出世したな」
「心酔するような上官に当たったことがない」
「そりゃあ、不幸だな」
カクエキは軽く笑いながら、革靴を履く。
配給されたものではない得物をその腰に吊る。
叩き割るよりも、斬りつけることを優先した曲刀だ。
「戦場が変わるぞ」
カクエキは、刀身を守るために上から被せただけの鞘を、軽く叩く。
「戦況が有利になるなら、考えておこう」
「まあ、心の持ちようだからな。
死にたくないヤツほど死んで、死にたいヤツほど死ねない。
って、日もあるから、……考えるほどのものじゃねーな」
伸びを一つして「掃除かぁ」と大柄な男は、気負いなく言った。
シュウエイにすれ違いざまに
「朝飯がまずくなりそうだな」
と、素直な感想を呟いた。
「ああ、そうだな」
シュウエイも同意した。
部屋の片づけの後に待っているはずの、朝食は楽しいものにはならないだろう。
こういう場合は、誰を恨んでおけば良いのだろうか。
軍属なのだからと諦めるには、割り切れない朝だった。