羨望 弐
シュウエイがその男を見つけたときは、ありきたりな日常の中だった。
人に忘れ去れたような廊下。採光と風通りを考えて、くりぬかれたような窓。桟がはめられていない窓の下枠に、男はひじを置き、風を楽しんでいた。
与えられた部屋にいても誰かしらが呼びに来る。
一人きりになりたいとき。あるいは、秘密話をするときは、この廊下と決まっていた。
ヤン・カクエキがもっとも無防備な顔をしている場所とも言えた。
陽気な男が静かに時間を過ごしているのだ。
それを気にせずに、シュウエイは声をかけた。
「今度は何を吹き込んだ?」
「はぁ?」
黒に近い青の瞳が驚いたように丸くなる。
寄りかかっていた窓から体を離して、シュウエイに向き直る。
「風朗の様子がおかしい」
「前からおかしいだろう」
カクエキはまぜっかえす。
どんな用件でも、男の態度は変わらない。
気安く、明るいのだ。
劣悪な用件でも、過酷な用件でも変化が少ない。
顔色を変えて、逃げたりはなしない。
「特に酷くなったから質問しているんだ」
「……否定しないのかよ」
呆れたようにカクエキは言う。
「話がややこしくなるだろう」
シュウエイは言った。
「まあ、それが伯俊だな。
で、何で俺なんだよ」
「元凶がお前だと判断した。
全部説明してやってもかまわないが、話が長くなるぞ」
「んじゃ、いい」
カクエキは「いらない」と手振りで示す。
話が短くてすむ。
「発言を撤回しろ」
「どれだぁ?
いつの話だかもわかんねぇしなぁ」
カクエキはまとめ切れていない髪を後ろに流す。
髪に通された玉飾りの色は五元を網羅する。
悪趣味になりそうな色合いの飾りが打ち合い音を奏でる。
「見習えといった話だ」
「あれかぁ。
嘘は言ってないけどよ……、迷惑なのか?」
面白そうにカクエキは尋ねる。
「迷惑だ。
忙しいのに付きまとわれる。
私は風呼ほど暇人ではない」
「暇があったらいいのかよ」
「言っておくが暇など、一年先にも存在しない」
シュウエイは言った。
「そんなに忙しいのか?」
「忙しくしようと思えば際限なく忙しくできる」
青年は事実を告げた。
情報収集、及び解析というものは、どれだけ時間を投入しても良いものだ。
人脈は一朝一夕に築けるものではないし、兵の練度は時間をかけて高めていくものだ。
「それってよぉ、暇を作ろうと思えば作れるんじゃね?」
「こうやって風呼と話すことぐらいの暇は作れるな」
どれが無駄で、どれが価値のあることか。
自分の中の優先順位を決め、配分していく。
シュウエイは人形ではないから、人間としての時間を捨てるつもりはない。
「んじゃ、風朗とも話してやれよ」
気軽にカクエキは言った。
「……育ちが違いすぎる」
シュウエイは健全な同僚を思い浮かべる。
フェン・ユウシは曲がったところがない好青年だ。
武官として重要視される性質を無欠に備えている。
さらに立身出世を望み、陰謀詭計の世界に身を投じるというのなら別だが……、個人的な感情としてそうなって欲しくはなかった。
身勝手な思いだ。
ユウシは風朗のままでいて欲しいのだ。
夢に描くように理想的な武官。
自分とは違う。
他者を利用することに罪悪感を伴わない。
そんな人間にはなって欲しくないのだ。
「嫌味に聞こえんぞ」
カクエキは苦笑いを浮かべる。
「取りようは自由だ。
そこまで介入するつもりはない」
「ケンソウとか面倒見てるついでに、風朗も面倒見てやれよ。
こっちはシデンの相手してんだからよ」
「風朗はシデンと一緒のほうがマシだろう」
「…………ケンソウはそんなにヒドイのか」
戦場でケンソウたちを拾ってきたのはカクエキだった。
諦めのような、苦い表情を男は見せる。
良くあることは、実に面白くできていなかった。
子どもは環境に影響されやすい。
戦災孤児は、さまざまな姿を見せるが、武官になるような気質は真っ二つだ。
自分のような犠牲者を出したくない、と他者に自分の夢を投影するか。
人の生命の重さがわからなくなり、殺人にためらいがなくなり、他者を自分の居場所まで引きずり下ろそうとするか。
「将軍よりマシな程度だ。
私はモウキン殿ほど人ができていないからな。
……状況は厳しい。
軍人として一人前にすることは可能だろうが、人間としての感性が身につくかは……」
シュウエイはためいきをついた。
役に立たない道具は捨てられる運命にある。
シ・ソウヨウという将軍は、そういった面で人間的な感性を持ち合わせていない。
『使えない』と微笑みながら、配下を自滅に追い込むだろう。
「そりゃ、シデンもどっこいだな。
風朗は染まりやすいからなぁ。
せっかくあれだけ良い父親がいるんだから」
「風朗が望んでいるのは、武力だ」
「一番いらないもんだろ」
カクエキは断言した。
「書記官に聞かれたら、減給されるぞ」
「貯めても酒と女に消えてくだけだ。
まともなものに使いはしないからな」
減ってもいいさ、とカクエキは笑う。
自分の言葉に後悔しない。
言葉の責任を潔く取る。
カクエキは責任感が足りないのではない。
自分というものをきちんと持っていて、責任を果たすのだ。
「今までどおりに引き受けろ」
「ああ、それが本題か。
できるだけ伯俊に振らないようには気をつけてやるよ」
まかせろ、といった風情で男は言う。
「頼む」
「できるかぎりだ」
カクエキは言った。
無理なことは、始めに無理だと言う。
自分の限界を把握して、それ以上は手を出さない。
誠意を持って、相手に伝える。
それができる人間は意外と少ない。
「十分だ」
「了解。ってね」
カクエキはきっちりと拱手をしてみせる。
それからニヤリと笑う。
不真面目な態度だが憎めない。
シュウエイは「頼む」ともう一度、言って窓辺から立ち去る。
背を向けているから実際は見たわけではないが、男はまた窓の下枠にひじを着き、吹く風を楽しんでいるだろう。
『風呼』という二つ名の通りに。
カクエキの一人の時間を邪魔したのは、やや気が差した。
己が碧桃の枝を見上げるようなものだろう。
ただそれよりも……未来がない。
シュウエイの非礼を咎めずに流すカクエキの度量の深さに、青年はためいきをついた。
自分が一生かかっても持てないものだろう。
歩んだ人生の違いだろう。
そうわかっていても、羨ましく感じた。