鴛鴦婚
時は群雄割拠。
ここは飛鷲勇が治める地域。
その優美なる居城の内宮。
柔らかな春の日差しが注ぐ院子(中庭)の東屋で、我が家のようにのんびりとお茶を飲む美青年。
クセのないサラリとした黒茶の髪が、落ち着いた容貌に華を添える。
姓を翼(ヨク)。名を燕雀(エンジャク)。字を鴻鵠(こうこく)。
このチョウリョウの豪族の一つである翼家の当主であり、シユウの無二の親友であり、槍の名手と名高い軍略家である。
管弦をこよなく愛し、漢詩の才も素晴らしい。
神から愛された者とは、このことだろうか。
誰もが認める多才の美丈夫であった。
「浮かない顔をしているのね」
スッとエンジャクの間合いに入り込んできた少女は言った。
虹藍色の大きな瞳が彼をマジマジと見つめる。
シユウの妻ラン夫人の侍女の一人、水花(すいか)。
橘橙色の髪を持つ小柄な少女は、いつも軽やかで、風に舞う花びらのようだった。
「勝ち戦だって聞いたんだけど?
何かあったの?
顔色が悪いわ。
ケガでもしたの?」
矢継ぎ早に水花は問う。
勧められる前に、ちゃっかりとエンジャクの隣に座る。
シャランと袖に飾られた鈴が鳴る。
その涼やかな音色に、エンジャクは目を細める。
「いや、怪我はしていない」
想いを寄せる少女が己を心配してくれたことが嬉しくて、自然に声は喜びに彩られる。
「戦場に出て、ケガしないなんて、どんな戦い方をしているの?
殿だって軽い矢傷を負っていたのに」
大げさに水花は言う。
彼女はいつでも感情豊かなのだ。
それが、好ましいと思う。
人は自分と違うものに心惹かれるのかもしれない。
「そうだな」
「殿がケガしたから、そんな顔しているの?」
水花は問いを重ねる。
「あれぐらいの怪我なら、すぐに治るだろう。
心配していない。
それよりも、露禽(ろきん)兄の方が……。
命を取り落とすところだった」
ためいきと共にエンジャクは呟く。
エンジャクは考え込むように瞳を伏せた。
習露禽は、普段の素行はともかくとして、軍事面では頼れる人物なのだ。
ああ見えても、良き兄貴分でもある。
「それも知っているわ。
でも、助かったわ。
完治まで、少し時間がかかりそうだけど」
水花は事実を告げる。
彼女は生真面目だから、嘘をつくことはしない。
若干、隠し事はするものの。
「それで、奥方を呼んだ方が良いと思うのだが」
「誰の?」
「露禽兄の」
「結婚していたの?」
水花は驚く。
まあ、当然の結果だろう。
あれだけ派手に女遊びをしているのだ。
「連れ添って三年の妻がいる」
エンジャクは瞳を開けた。
「そうは見えなかったわ。
てっきり、独身かと思っていたわ。
チョウリョウにも色んな人がいるのね」
エイネンの民である水花は、あっけらかんと言った。
「感心できないが、そういう方だ」
エンジャクは苦々しく言った。
チョウリョウ生まれの、チョウリョウ育ち。
両親が鴛鴦婚(恋愛結婚)ともなれば、エンジャクの考え方は完全にチョウリョウ的なものになる。
「それでこちらに奥さんを呼ぶのね」
「家族に看病された方が治り早いと思うのだが……。
露禽兄は、奥方を嫌っている」
信じられない事態というのは、いつだってある。
「まあ。
チョウリョウには愛のない夫婦はいないって言葉、嘘なの?」
水花の声が責めているように聞こえた。
エンジャクは傍らの少女を見遣る。
彼女はきょとんとして、エンジャクを見上げていた。
どうやら、取り越し苦労だったらしい。
「露禽兄は特殊な例だ。
……それで、正直困っている。
呼ぶべきか、呼ばないべきか」
「奥さんの方は、露禽殿を愛しているの?」
「それがわかったら、苦労はしない」
エンジャクはためいきをついた。
「妻を呼んだだと!?」
半ば床から起き上がり、若い男は言った。
姓は習(シュウ)。名はロシ。字は露禽。
家の財を湯水の如く使う放蕩息子で名が通るチョウリョウ切っての伊達男である。
「何故、あれを呼んだ?」
せっかくの色男ぶりも失せるような怒りをあらわにする。
シユウに体よく仕事を押し付けられたエンジャクは、心の中で渋い顔を浮かべる。
「殿の決定です」
早々に切り札を出した。
「あれが来るなら、俺は街に出るぞ」
言うが早いか重態の怪我人は、床から出ようとする。
慌ててエンジャクは、押し戻す。
「露禽兄。
逃げても無駄です。
奥方はもうお着きです」
「鴻鵠弟よ。
俺を兄と呼ぶなら、ここは見逃してくれても良いだろう?」
「できません」
キッパリとエンジャクは断る。
「俺と妻の仲を知っているだろう?
結婚一日目にして、床を分けるほどの仲の悪さだ。
鴛鴦婚ではないんだ」
「それでも、三年も連れ添っているじゃないですか」
「そりゃあそうさ。
あれにはおおよそ欠点らしい欠点はない。
離縁する理由が見つからない」
ロシは盛大にためいきをついた。
「良くできた妻で結構ですね」
「だが、俺はあれを愛していないんだ」
真剣にロシは言った。
「……毎回思うのですが、どうして結婚したんですか?」
エンジャクは脱力する。
チョウリョウの民らしい感性のエンジャクには、どうしても理解できない。
「知るか!
俺の父親に訊いてくれ。
久々に実家に帰ったら、その日のうちに祝言を挙げさせられたんだ。
しかも、こっちは泥酔状態だ。
花嫁の顔を見たのは、結婚した後だった」
「それは露禽兄がいつまでも結婚なさらなかったからでは?
もっと早い段階で、恋人をご両親に紹介なされていれば、こんなことにはならなかったと思います」
家が近いせいもあってその披露宴に出席したエンジャクは、その騒動の一部始終を知っている。
あれは正しく大騒動であった。
「まだ俺は若い。
なのに、家にカビが生えて、柱がボロボロになるほど古いもんだから、結婚しろ、身を固めろ。と成人する前から、親戚一同に迫られたんだ。
お前もわかる。
あれは反面教師だ」
「お気持ちもわからなくもありませんが、きちんと説得すれば良かったじゃないですか」
「お前は説得しているのか?」
「こちらも最近、うるさく言われていますから」
「誰と結婚するんだ?」
ニヤニヤとロシは尋ねる。
エンジャクが水花を想っていることを知っていて、ワザと訊いているのだ。
「鴛鴦婚しかしないと、叔父方には伝えてあります」
「やめとけ。
目の色の違う人間とは所詮相容れない」
「人の恋路を邪魔しないでください」
「上手くいったら、東南渡りの香を譲ってやろう」
東南渡りの香は、香の中でも最上級。
その値は、同じ重さの黄金よりも高いという。
いくら習家が資産家だとしても、ひょいひょいと手に入る物ではない。
「もう少し、応援してくれても良いと思うのですが……」
「これでもしているつもりだ」
大真面目な顔をしてロシは言う。
「失礼いたします」
女性の澄んだ声が戸からかけられた。
ロシはギクリと腰を浮かす。
それに感づいたエンジャクはロシの肩を押しとどめる。
程なくして、質素な身なりをした女性が現れる。
見るからに賢夫人という出で立ちの妙齢の女人は、ロシの妻チョウア。
「お元気そうで何よりです。
こちら、お着替えと熱を取る果物でございます」
チョウアは、卓の上に抱えていた包みを乗せる。
「いつまでいるつもりだ?」
まるで尋問のように、ロシは妻に問う。
「すぐに家に戻ります。
差し出がましいことをいたしまして、申し訳ありません」
儚げな風情が漂う女人は、典雅に一礼した。
「せっかく来たのですから、少しゆっくりしていかれたらどうですか?」
エンジャクは冷え冷えとした夫婦の会話の腰を折る。
「いつから、ここはお前の家になった?」
ロシは不機嫌に言った。
「殿も会いたがっておりましたよ」
「ご挨拶をしたら、帰ります。
長く家を留守にするわけにはいきませんから。
鴻鵠様もご立派になられましたわね。
お気遣いありがたく思います」
チョウアは慇懃に礼をすると、静かに部屋を出て行った。
ロシは疲れたかのように、ドサッと床に就く。
「奥方のどこに不満があるのですか?」
誰もが羨む賢妻だ。
「どこもかしこも気が食わない。
もう疲れた。
少し寝る」
ロシはエンジャクを追い払うかのように、言う。
「戸の前には侍女が控えていますし、窓の外には護衛がついていますので、安心して傷を癒してくださいね」
エンジャクは釘をきっちりと刺してから、退出した。
「まあ、それで続きは?」
興味津々に水花が問う。
「それで、お終いだ」
エンジャクは言った。
「そうなの。
残念だわ。
他人の恋の話ほど面白いものはないのに」
がっかりしたと言わんばかりに水花はためいきをついた。
「恋?」
違和感のある単語にエンジャクは眉をひそめる。
虹藍色の瞳は不可思議そうにエンジャクを見上げた。
それから、はじかれように笑う。
「鴻鵠はお馬鹿さんね。
露禽殿は、奥方を愛していらっしゃるのよ。
だから素直になれないの」
水花はクスクスと笑う。
「しかし、露禽兄は」
「意地っ張りだから、今さら愛をささやけないのよ。
それに……。
自分ばかりが好きだと寂しいでしょ?
相手にも好きになって欲しいんだわ。
そうじゃないと、格好がつかないでしょ?」
達観したように水花は言った。
「とても、そうだとは思えない」
「鴻鵠の話を聞いただけでも、私にはわかるわ。
露禽殿は奥方の気を引きたくて、拗ねているのよ」
「その話が本当だとして、どうしてあの夫婦は上手くいかないのだろう?
仮にも夫婦なのだから、隠し事などせずに」
「鴻鵠の理想の夫婦像は良くわかったわ。
でも、それを他人に押しつけるのは間違っているわよ。
きっと出だしでつまづいたから、しっくりいかなかったのよ。
何かきっかけがあれば、上手くいくと思うわ」
自信満々に水花は言った。
純粋に面白がっているのが良くわかる。
虹藍色の瞳がいつもよりもキラキラしているのだ。
「だが、こじれた糸はなかなか解けまい。
もうこれは、天に任すしかない」
エンジャクはためいきを零した。
熱のせいかロシは短く浅い眠りを繰り返していた。
敵に斬られた傷が焼けるように痛む。
夢見はあまりよろしくなく、目を開ける度に後悔する。
いっそのこと、現実が夢の方が良いのかもしれない。
そんなことを薄ぼんやりと思っていた。
耳朶に微かに届く声。
意識が混濁しているせいか、耳鳴りを伴って聞こえてくる。
女たちの高い声だ。
「それでどう思われているのですか?」
「どう、とは?」
「チョウリョウでは皆、鴛鴦婚というものをすると聞きました。
生涯にただ一度の恋だ、と」
「ええ、そうですわ。
異国の方には奇妙に映るでしょうね」
「間違えたりはしないのですか?」
「それでは運命とは呼べないでしょう」
「私の姫もそう言うのですが、私には難しくてよくわかりません」
「そう、難しいことではありません」
「どんな感じがするのですか?」
「……言葉にすると、あやふやですわね。
この人でなければ、いけない。気がするんです」
「ちょっと、羨ましいです。
私はチョウリョウの民ではありませんから」
「どなたかお好きな方が?
ごめんなさい。
立ち入ったことを訊いてしまって……」
「それが良くわからなくて。
だから、質問攻めにしてしまって。
こちらこそ、ごめんなさい、です」
「いいえ。
気にしていません。
こんなに話したのは久しぶりで、楽しいですから」
「あまり、お話しないんですか?」
「……私の声は耳障りですから。
それに、あまり器量が……。
貴方のように素直になれれば、もう少し違って見えるのでしょうけれど。
どうせ、私は」
「こんなに美人なのに、誰も褒めてはくれないんですか?
チョウリョウの男は、本当にお馬鹿揃いだわ!
ああ、だから、女性が綺麗になれないのよ。
知ってますか?
女性は綺麗だって言われる度に、綺麗になるんです。
たくさん褒めてもらわなきゃ、駄目ですよ!」
甲高い声に、流石のロシも目を開けた。
微かににじむ風景に、妻と幼い少女がいた。
確かラン夫人の侍女の一人で、エンジャクの想い人だ。
小うるさいお子様のどこが良いのか、ちっともわからない。
エンジャクは目だけではなく、耳も悪いに違いない。
ロシは心の中で悪態をつく。
元気だったら、口に出していたことだろう。
「露禽殿はご自分の妻を褒めないで、他の女を褒めるなんて最低ですね!
一番褒めるべきは、最愛の妻でしょう!?」
少女がキャンキャンと吠える。
こういう女の声が一番、嫌いだ。
「水花さん。
家公(だんな様)は、お疲れなのです。
私のことを思ってくださるのは嬉しく思いますが」
「こういうことは、はっきりさせないと駄目です!
奥方のことを好いてもいないと言うなら、離縁すべきです。
これからの人生があるんですよ!
貴方みたいな最低な男に一生付き合わされるなんて、かわいそう過ぎます!
さっさと別れて、第二の人生を歩ましてあげるのが、せめてもの優しさです!
こんなに美人なんだから、すぐに新しい夫が見つかります。
安心して別れてください」
本当にうるさい女だ。
こんなに小さく人形のようなのに、中身はきっちり女なのだ。
それもドロドロしていて、醜い。
ロシが嫌う典型的な女だった。
「黙れ!
お前には関係ないだろうが!」
怒りに任せて、ロシは上体を起こして怒鳴った。
その拍子に傷がズキリッと痛む。
急に体を起こしたせいだろう。
血の気が引いていくのがわかる。
ロシは枕にもたれかかるように体を置く。
「関係あります!
不幸になる女性がいるなんて許せません!」
腰に手を当てて、小娘は偉そうに言った。
「水花さん。
ありがとうございます。
もう、良いのです」
チョウアがおろおろと言う。
「良くありませんよ!
不幸な関係を不毛にズルズルと続けるより、ちょっと痛いかもしれないけどすっぱりと縁を切った方が、最終的にはより幸せになれます!」
元気良く少女は言った。
本当に良く喋る。
それもいらないことまで、ベラベラと。
ずるがしこくて、はしっこい。
「私は今のままで、満足です」
「それが男をつけ上がらせるんです。
もっと、断固として振舞うべきです」
「これ以上は家公のお体にふれます。
私は、慣れていますから。
どうか、もう……」
「それで良いんですか?
愛してるとも言ってくれない夫に尽くすだなんて」
「お傍にいられるだけで、私は幸せなんです」
チョウアは告げた。
少女は不満げにしていたが、諦めたように口を閉じた。
それから、つんとそっぽを向くと、何も言わずに部屋を出て行った。
「お騒がせして申し訳ありません」
チョウアは頭を下げた。
良くできた妻だ。
何一つ文句を言わない。
ロシが何をしても……、チョウアは怒ったりはしないのだ。
無関心に近い情。
それを向けられているようで嫌だった。
「帰るのか?」
ロシは訊いた。
「はい。
私がいても、何のお役に立てませんから」
うつむきがちにチョウアは答える。
面と向って、何かを言うことはない妻だ。
「家に帰るのか?」
「……?
他に帰るところはありませんから」
チョウアは言った。
「お前はどうして俺の妻なんだ?」
ずっと抱えてきた疑問をぶつけた。
熱で意識が朦朧としていたせいかもしれない。
一生、訊くつもりはなかったのだ。
答えが知りたくなかった。
「……落ち度があるのなら、離縁なさってください」
妻の鑑のような返事が返ってきた。
そんな言葉を聞きたかったわけじゃない。
では、どんな言葉かと言うと、こちらの都合の良いことだ。
これ以上、無駄に問いを重ねて、傷を開きたくない。
「離縁はしない。
する理由が見つからない」
ロシはそう言うと、床に倒れこんだ。
天上が高く見える。
耳鳴りがはしゃぐ川の音のように響いてうるさい。
「他に想う方がいるなら、私はかまいません」
近いはずの声が遠くに聞こえる。
泥酔した後の次の朝に似ている。
最悪な気分だ。
「そんな者はいない」
ロシは揺れる視野を忌々しく思う。
また、浅い眠りが始まるのだろうか。
あの悪夢が……。
「……実家に帰らさせてください」
ロシはギクリッとした。
目を見開いて妻を捜す。
微かに震える儚げな女性。
床に零れるのは……。
うつむいた妻が零す、あの白玉は……。
「私のような……愚妻では……、家公も……お恥ずかしいでしょう。
わ、私は……もう、……遠慮……なさらずに」
涙ににじんだ声だ。
何と声をかければ良い?
思考は分散して、収拾がつかない。
「次に目が覚めるまで、ここにいろ」
ロシはやっとのことで言葉を紡ぐと、瞳を閉じた。
極彩色がグルグルと渦を描きながら、沈んでいくのが見えた。
廊下をしばらく歩くと、嫌な人物が待ち構えていた。
「水花。
他人のことに首を突っ込むのは、あまり良い趣味ではないぞ」
「鴻鵠もね」
軽く少女は流す。
「夫婦のことは、他人が口を出すことじゃない」
「鴻鵠は常識人ね。
しかも、堅物だわ」
げんなりと水花は言う。
「あの夫婦は放っておいた方が良い」
「最低男をのさばらしておくなんて、チョウリョウには悪習があるのね」
エンジャクを無視して、水花は廊下を歩き出す。
「最低?」
案の定、エンジャクはついてきた。
歩くお節介男は善良な精神でもって、水花の起こす些細ないざこざを全部解決するつもりらしい。
全く癪に障る。
「女を褒めない男はみんな最低よ。
殿ぐらいとは言わないけど、それなりの賛美は欲しいもの」
水花はすまして答える。
「水花も欲しいのか?」
慈善事業が大好きらしい。
エンジャクは真剣に訊いてきた。
「当たり前じゃない。
褒められたら気分が良いもの。
ましてや、かっこいい殿方や、好きな人からだとすっごく嬉しいわ」
自棄になって水花は答えた。
「女性は欲張りだな」
感心したようにエンジャクは言った。
このうすらとんかち!
水花は唇をとがらせる。
「男は、馬鹿ばっかり。
綺麗って言われる度に、女性は綺麗になるんだから」
こんなことを言っても無駄なことはわかっているが、言わずにはおられないこともある。
「これ以上、綺麗になりたいのか?
もう、充分すぎるぐらい美しいだろう」
すとんと飾り気のない言葉が降ってきた。
ドキッとして、少女は思わず立ち止まる。
言った男の方は、本気だったらしい。
実に真っ直ぐな視線が向けられた。
「及第点ね。
もうちょっと華美な言葉で、今度は口説いてね」
水花は居心地悪さげに歩き出した。
いちいちドキドキしていたら、身が持たない。
「口説き文句と言うのは」
エンジャクは水花を腕をつかむと、自分の方に引き寄せた。
小柄な少女は、すっぽりと腕の中に閉じ込められてしまう。
南渡りの香木の香りに、力強い腕。
普段は意識しないのだけれど、武人なのだ。
逃れることはできない。
水花の鼓動は駆け足になる。
これから起こる近い未来に、期待と喜びを感じている。
怖いのに、嬉しい。
複雑な心の動きに、水花は翻弄される。
「夜眠る前にいつも考えているのは、どうすれば絹で作った籠の中に君を閉じ込められるかと言うことばかり。
可愛い小鳥さん、知っていたかい?」
抑えたような低めの声が耳元で甘やかな言葉をささやく。
すべらかな少女の頬が朱に染まる。
心待ちにしていたのだ。
嫌だと思いながらも、望んでいたのだ。
だから、いつもすぐ傍にいた。
「これぐらいのことを、言うんだろう?」
スッと、解放された。
「……」
水花は、ハタッと理解に至った。
同時に怒りを覚える。
チョウリョウの男は、天然が多い。
「今のは、父が母に言った言葉だ。
これを公衆の面前でしたというのだから、父の精神力は素晴らしいと思う」
鈍感なエンジャクは言った。
「一回、死んできなさい!
馬鹿は死ぬまで、治らないって言うんだからっ!!」
水花は声量の限りの大声で怒鳴ると、その場から逃げ出した。
悔しくて仕方がなかった。
少女はまだ幼く、素直になれるほど馬鹿ではなかったのだ。
すっきりと目が覚めた。
熱が引いたのだろうか。
ロシは、重い体を引きずるように起こす。
ふと目を遣ると、寝台の端近くに寄せた椅子に腰をかけ、コクリと舟をこぐ妻がいた。
もう、夜中だろうか。
室内は微かな燭光に照らされいて、静かだった。
同室で夜を共にしたのは、これで二回目だ。
揺らめく灯りに思い出したくない過去が呼び起こされる。
新婚初夜の記憶は、他人から見れば滑稽、本人にしては悲惨だった。
あれ以来、強引に寝所を別けてしまった。
妻は何も言わなかった。
ロシは妻の横顔を眺める。
傍にいる赤の他人だった。
ロシは何一つ知らないのだ。
その髪の柔らかさも、肌のすべらかさも、その温かさも、知らない。
ロシはチョウアがどんな文字で綴られているのか知らない。
名すら交わしていない。
夫婦とは名ばかりだった。
それでも、チョウアは妻として、良く仕えてくれている。
離縁する理由がない妻だった。
いつ言われるのか、いつ終わりが来るのか。
ロシは全ての事柄から怯えて、逃げ出した。
家に帰らないのは、遊びが面白いから。
戦が続いているから。
妻が煙たいから。
どれもごまかしだった。
聞きたくなかったのだ。
たった一言を、耳にしたくなかったのだ。
スッと妻の目が開いた。
パチパチと数度瞬くと、ゆったりとこちらを向く。
「お加減はどうですか?」
耳に心地良い声が尋ねる。
「悪くない」
ロシは答えた。
「そうですか。
薬師をお呼びしましょうか?」
妻は静かに立ち上がる。
ロシの顔色を窺うように、傍に寄る。
珍しいことだった。
化粧も香もしない、清浄な空気が妻から漂う。
「ずっと、ここにいたのか?」
「はい。
家公が目が覚めるまでとおっしゃったので、それまでは。と」
小さな声がより小さく聞こえる。
どうも、聞こえづらい。
大きな声で話せと言えばチョウアが萎縮するのは目に見えている。
「ここにいろと言ったら、ずっとここにいるのか?」
ロシは尋ねた。
「はい」
妻は控えめにうなずいた。
命令すれば、何でも手に入るような気がした。
従順で儚げな女人だった。
父も阿呆ではない。
息子の好みをわかっていて、嫁を選んできたのだ。
家のことをしっかりこなし、決してでしゃばらない。
その洗練された立ち振る舞いは、嫌味に映らないほど美しい。
そして、硝子がささやくような美しい声を持つ娘。
ロシは初めて、手を伸ばした。
ずっと欲しかったものを手中に収めた。
花はたやすく手折られる。
「どうして俺の妻になった?」
ロシは訊いた。
緊張しているのだろうか。
微かに震えているのが、たいそう魅力的だった。
薄暗い部屋の中、夢のように美しい女人。
「家公に憧れない娘は、我が里にはおりません」
小さな声だが、この距離で聞き取れないことはなかった。
「俺で良かったのか?」
「家公でなければ、嫌です」
ずっと欲しかった言葉だった。
もっと早くに尋ねれば良かった。
遠回りをしすぎた。
「では、一生俺の傍にいろ」
ロシは儚げな妻を抱きしめた。
「はい」
しっかりとした返事だった。
「それで、それで?」
水花は砂糖菓子をいじりながら尋ねる。
「詳しくは知らない。
ただ、仲直りをしたらしい」
エンジャクは言った。
「それは良いことね。
不幸な女性は少ない方が良いもの」
水花は砂糖菓子を口に含む。
甘いお菓子に少女の頬が緩む。
戦時下ともなれば、甘いものは貴重品だ。
そうそう食べれないのだが、金持ちの知り合いがいれば話は別。
この前、喧嘩別れをしたためエンジャクが持ってきたのだ。
ラン夫人のためでもなく、侍女たち全員のためでもなく、水花のためだけに。
ちょっとした優越感である。
「水花も幸せな結婚をしてみたいとは思わないか?」
ひたむきなエンジャクの瞳が水花を捕らえる。
少女の心臓は早鐘を打ち、指先が緊張で震える。
「私は……」
一瞬、過ぎった鮮やかな映像。
それは美しい桃の林と嘆く……。
エイネンの斎姫の血が伝える必ず起こりうる未来。
「一生、姫様に仕えるの。
だから、結婚はしないわ」
水花は笑った。
結婚しなければ、起こらない。
あの未来は、結婚後の春だから。
「それは残念だ」
寂しそうにエンジャクは微笑んだ。