悋気
たくさんの声の中から、聞き分けてしまう。
雲雀のように澄んだ声をこだまさせながら、子どもたちは遊んでいた。
絹の衣に、鮮やかな縫い取りのある帯。飾り珠が音を添える。
同じ年頃の子どもたちの髪の色や肌の色はまちまちで、話す言葉のクセもまちまちだった。
だから、聞き分けられた。
と、少年は玻璃越しの風景を見入る。
子ども特有の甲高い声は、少年のいる部屋まで届く。
外で遊ぶ子どもよりも、一つか二つ幼い少年は、窓辺にたたずんでいた。
少年の身を包む深い諦観は、世の全てに倦んだ老人のようだった。
何も期待せずに、何も欲せず、何にも嘆息を返事代わりにする。
渋い灰緑の衣をまとった姿は、小柄なだけにより哀れだった。
シ・ソウヨウ。
色墓を治めていた豪族・絲家の総領が一子。
チョウリョウに差し出された人質だった。
まだ九歳の少年は、窓の外を食い入るように見つめる。
茶色とも緑ともつかない色の瞳は、一人だけを追う。
その耳は、たった一人の声だけを聞く。
胡蝶の君と呼ばれ、誰からも愛される少女だけを求める。
彼女は親しげに微笑みかけ、その手を伸ばし、誰かの肩にふれる。
ないしょ話をするように声を潜め、耳を貸し、次に笑みを零す。
追いかけっこや隠れ鬼、石蹴り。
他愛のない遊びを続ける子どもたち。
自分はそこにはいない。
それが悔しいと感じる。
それが辛いと思う。
赤瑪瑙のような瞳が見つめるのは自分ではない。
笑顔を浮かべるのは、自分のためではない。
袖に隠れた拳がキュッと握られる。
「ソウヨウ」
琴が恥じて自ら弦を切る。
そう讃えられる声が少年の名を呼ぶ。
ここへ来て、つけられた名前にソウヨウは振り返った。
「長閑様。失礼いたしました」
ソウヨウは慇懃に頭をたれる。
「遊びに行きたいのか?」
部屋の主はからかうように笑う。
フェイ・シユウの第二子であり、胡蝶の君の兄であるフェイ・ホウスウ。
風変わりな少年で、まだ字を持たない。
「いえ、何とはなしに眺めていただけです」
ソウヨウは窓に背を向けた。
遊びたかったわけではない。
その笑顔を見ていたかっただけだ。
「そういうことにしておこう」
ホウスウは苦笑し、筆を持ち直した。
「はい」
ソウヨウは書きあがったばかりの竹簡にふれる。
流麗な蹟をぼんやりと見ながら、端から巻いていく。
真新しい竹の簡は、良い香りがするものの巻きづらい。
張ったばかりの紐がきついのだ。
緩く編んだら、竹簡はあっという間にばらけてしまうので、どちらが良いとはいえない。
少年の小さな手は器用に、巻き上がったばかりの竹簡を玉のついた飾り紐でくくる。
「それを鴻鵠に届けて欲しい」
「かしこまりました」
ソウヨウは竹簡を抱える。
灰色にも見える淡い茶色の瞳がソウヨウを見つめると、微笑む。
「あとは自由時間だ。
好きな場所に行くといい」
ホウスウは言った。
「はい」
ソウヨウはうなずいた。
その声が喜びに彩られていたことに、少年自身は気がついていなかった。
時は流れて、南城。
どこよりも早い春に、誰もが浮き立つ頃。
「シュウエイ、話があります」
南城の城主である青年は言った。
「私にはありません」
きっぱりと細面の伊達男は言った。
「私にはあるんです!」
ソウヨウは珍しく声を荒げる。
不機嫌さを隠しもしない弱冠の将軍の態度に、その場に偶然、居合わせたカクエキは尻上がりの口笛を吹く。
「私にも仕事があるので、失礼します」
「治りかけの腕が完治するの、さらに遅れるかもしれませんね」
計略の奇才は、穏やかな表情で、剣呑なことを言った。
光線の具合で違って見える瞳は、緑みが強い。
「この時期にですか?」
眼差しに屈するはずもなく、シュウエイは尋ねる。
「はい。この時期にです。
私は気にしませんよ」
「ちょっと待った!
伯俊抜きで、戦しろって言うのか?
無茶苦茶だ」
カクエキが口を挟む。
「シュウエイが素直に答えれば良いんですよ。
私は乱暴なことが嫌いなんです」
ソウヨウは言った。
「くだらない話に付き合うほど、暇ではありません」
「くだらないかどうか、決めるのはあなたではありません!
素直に答えてくれれば良いんです。
姫と何を話していたんですか?」
苛立ちながらソウヨウは尋ねた。
「は?」
カクエキは呆れる。
「ごく普通のことを話していただけです」
「二人だけで仲良く話していた。
その中身が知りたいんです」
いくら目の前の青年が腕を折ったために、家令役をしてるとはいえ、仲良く話している姿を見て、平常心ではいられない。
どんな話をしたのか。
気になって仕方がない。
「とりとめもないことばかりです。
将軍のお耳に入れるような、重大な話はありませんでした」
「ささやかなことでも、愛する人の情報は知りたいと思いませんか?
……何ですか? その目は」
「いえ、意外な言葉が将軍の口から出たので、驚いただけです」
しれっとシュウエイは答える。
「さあ。話してください」
「将軍のことを訊かれたので、知っていることを話しました。
軍議に寝坊して、当時城主であらせられた陛下に怒られた話。
近くの川で、溺れそうになり、風呼に助けられた話。
歩きながら漢詩を作っていたら、夢中になりすぎて、レイ将軍の背にぶつかって悶着を起こした話。
甘い菓子欲しさに、博打で不正を行った話。
などです」
「……な、な……何てことを話すんですかー!?」
ソウヨウは叫んだ。
堪えきらなかったカクエキの笑い声が、室内に響く。
「事実です。
公主も喜んで聞いてらっしゃいましたよ」
「もっと、マシな話はないんですか!?」
「その手の話は語りつくした感が否めませんから。
失敗談のほうが面白いと、公主はおっしゃっていました」
シュウエイは言った。
ソウヨウは複雑な気分になった。
飛一族のホウチョウにとって「面白い」は最高の褒め言葉なのだ。
それでも、格好の悪いところは知られたくない。
見栄を張りたい年頃なのだ。
「ご用件はおすみですか?
失礼します」
シュウエイはそう言うと、きびすを返した。
「まあ、何ていうんだ?
好奇心は猫を殺す、ってか」
カクエキは言った。
「なぐさめなんていりません」
「いや、なぐさめてないから」
「……私の配下は、どうしてこんな人間ばっかりなんですか?」
「自分で選んだだろ」
「もっと、私のことを思いやってくださる方々はいないんですか?」
「思うんだけどさ」
「何ですか?
せっかく自己憐憫に浸っていたのに」
「伯俊、これから仕事なんだろう?
で、将軍は仕事ないからこうして遊んでるわけだ」
「午前中に片付けましたよ、もちろん。
シュウエイにぐちぐち文句を言われるのに、飽きましたからね」
「ってことは、姫さん暇してるんじゃねーか?」
「カクエキにしては良い事を言いましたね!
ありがとうございます」
「うわぁ、礼を言われるのって、かなり気持ち悪いな」
カクエキは独り言のように言う。
「姫に会ってきます」
上機嫌にソウヨウは言った。
「おはよう、シャオ」
堂の外でホウチョウと出会う。
春のやわやわとした日差しの中、胡蝶はヒラヒラと舞う。
柔らかな印象の薄紅の衣の下には、新緑の衣。
目にも楽しい配色だった。
「おはようございます、姫。
これからどこかへ行かれるんですか?」
「そろそろシャオが来る頃だと思って。
伯俊が言ったのよ」
ホウチョウはにっこり笑う。
「そうなんですか」
にこやかに言いながら、ソウヨウの内心は穏やかではなかった。
好きな女性が他の男の名前を挙げたのだ。
「とても良い人ね。
シャオのことを色々と教えてくれるのよ。
それに、話していて楽しいわ。
彼はくだらないことを話さないし、つまらないことを言わないもの」
「……そうなんですか」
「シャオは良い配下に恵まれたわね。
自分の手足のように動いてくれる人材は得がたい。
みんな言ってるわ。
そんな人を自分の部下に出来るシャオは、もっと素敵ね!」
朗らかにホウチョウは笑った。
「はい、姫」
嬉しそうにソウヨウはうなずいた。