松ぼっくりの温度
「姉さん、どこへ行っていたの!?」
私は廊下を歩く後ろ姿に驚いた。
もう日はどっぷりとくれていて窓からの月明かりがその人を照らす。
邪魔にならないように軽くまとめられた長い髪は透明感のある鼈甲飴のような色。
枯れ木のように折れそうな細い体の肌は搾りたてのミルクよりも白い。
ゆっくりと姉のエリーテは振り返った。
親しみ深い湖水のような青色の瞳がヴィーを見て微笑んだ。
「軽く庭を歩いてきただけよ」
エリーテは穏やかに微笑んだ。
その声はしっとりとして靄のような印象を他人に与える。
「寝てなきゃ駄目じゃない!
こんな寒い日に外に出たら!!」
私は言った。
手でつかんでいた木の桶が揺れていたのは、この寒さで凍えていたわけではない。
怒りという感情だった。
理不尽なことへの純粋な気持ちだった。
「ずっとベッドで寝ていたら病人な気がするわ」
気にした風ではなく姉は言葉を続ける。
「気がするんじゃなくて、姉さんは病人でしょ!?」
私は本当のことを言った。
そのせいで私はたくさんのことを我慢してきた。
これからだって、我慢する。
病弱な姉の治療費のためにお金を惜しまない両親だった。
けれども健康で見た目の冴えない妹は体のいい雑用係だった。
金持ちの妾にもなれない美貌もなく、教養もない。
糸紡ぎが得意でもなければ、機を織るのが得意でもない。
刺繍の腕も図案を考えるのも人並み。
跡取りにもならない娘であれば、使い道すらない。
「そうね。生まれてから、ずっと。
でも外に出られるぐらい元気な日が私にもあるのよ」
エリーテは柔和な笑顔で続ける。
確かにベッドから起き上がって、外に出られるぐらいは元気なようだ。
少しでも咳をしたら、大騒ぎになるというのに。
「だからって寒い日にそんな恰好で出歩かなくても!」
姉はベッドから出て、近くにあった肩掛けを見つけたのだろう。
元気な人間だってそんな恰好をして外を出歩いたら、風邪をひいて、簡単に寝込んでしまう。
生まれてからずっと病人をしている姉だったら、高熱を出して、起き上がれなくなってしまうかもしれない。
「心配してくれてありがとう。
ヴィーはいい子ね」
善人とはこのことだろうか。
家の中と一部しか知らない姉は魂が濁っていない。
妬みや僻みを知らない。
すべて良いこととして受け止める。
「別にいい子なわけじゃ」
私は言葉を詰まらせる。
姉のせいで、村の娘たちが競い合って付けているリボン一つ、買ってもらえない。
都で流行っているというリボンは鮮やかな染料で染められていて、細やかな刺繍が施されていた。
羨ましくて仕方なくヴィーだって、両親にねだった。
それでも買ってもらえなかったのだ。
姉の治療費が高額だから、今、着ている服だって自分のためにあつらえたものではない。
親戚がゴミとして処分するというワンピースだった。
あちらこちらほつれて、裾は擦り切れていた。
14歳という年頃の娘としては恥ずかしい姿をしていた。
「はい。お土産。クリスマスリースが作れるかしら?
外はすっかり冬ね」
エリーテは言った。
湖水に泳ぐ小魚のように細い指先が私の空いている方の手のひらに松ぼっくりをそっと置く。
「松ぼっくりなんて、庭にたくさん落ちてるわよ」
腹の足しにもならない。
髪飾りにもならない。
せいぜいクリスマスの到来の祝うリースの材料ぐらいにしかならない。
それを売ればいくらかの小遣い稼ぎができるだろうか。
都の貴人たちは自分の手で作らないから、ちっぽけな村から見れば大枚で売れる。
「ヴィーは何でも知っているのね。
私は今日まで松ぼっくりが落下する季節だって知らなかったの。
窓からは葉が赤く染まっているのは見えても。
落ち葉を踏みしめたらどんな音がするのか。
一年前も聞いた音なのに、忘れていたわ」
おっとりとエリーテは言った。
「姉さん」
私は思わず視線を落としてしまう。
染みだらけで、いくつもの傷がついた老朽化した建物の床。
新しく木材を使って張り直すことができない廊下。
「そんな顔をしないでヴィー。
私は幸せよ。
姉想いの妹がいるんですもの」
エリーテは弾んだ声で言った。
「姉さんには少しでも元気でいて欲しいだけだから」
私は顔を上げた。
姉にどこかへ消えて欲しいと思ったこともある。
なんだってこんな姉の妹として生まれてきたのか、恨んだことなんて山のようにある。
死ぬんだったら迷惑をかけずにさっさと死んでほしい、と思ったことだってある。
でも……結局は血を分けた姉妹なのだ。
憎み切れなかった。
少しでも元気でいて欲しい。
「心配をかけないように次はヴィーに声をかけてから、外に出るわ」
エリーテは私の気持ちなんてこれっぽっちも気がついていないようにのんびりと言う。
「その時は、もっとあったかい格好してもらうから」
私は姉の青い瞳を見て言った。
「そうね。少しだけ寒かったわ。
そろそろ病人は自分の部屋に戻るわ。
一緒にいたらヴィーまで怒られるでしょう?」
天使がいるのなら姉のような存在を言うのだろうか。
穢れを知らず、生命という灯が風で揺らいでても恐れを知らない。
どこまでも優しい。
「いいよ、一緒に怒られても」
私は言った。
「ヴィーは本当に優しい子ね。
おやすみなさい。いい夢を」
私の頭を一撫ですると姉はゆっくりと自分の部屋に戻っていった。
松ぼっくりをエプロンにしまうと、私は木の桶を持ち直す。
姉の体を拭くためにお湯にするために井戸から組んできた水なのだ。
この寒さだ。
凍りつくような水をお湯にするほど温めるにはどれほどの貴重な木材を使うのだろうか。
お湯になるまでの時間、火の側にいたい、と私は思った。
両親の機嫌が良ければ体を温めるためのミルク茶が飲めるかもしれない。
私は台所まで水を一滴も零さないように歩き出した。