月は綺麗だ


「月が綺麗だね」

 隣を並んで歩いていた河野さんが言った。
 その言葉に僕の心臓が景気良く跳ねた。
 だってSNSでバズってから定着した言葉だ。
 ミームというヤツだ。
 知らない方が珍しい。
 どんだけ情弱だよ、みたいな。

「中秋の名月だから」

 河野さんはニコっと笑った。
 これ、完全に知らないヤツだ。
 素だ。

 そういえば河野さんは僕と正反対で理数系の方が得意で、古典の文法に文句を言っていた。
 係り結びの法則がわからないって。
 数学の公式はそのまんま覚えて、応用問題まですらすら解けるのに、日本語になるとお手上げらしい。
 生まれも育ちも生粋の日本人なのに。

「あー、そうだね」

 僕はドキドキしながら相槌を打つ。
 空を見上げれば十五夜。
 中秋の名月だ。
 塾で先生から聞いたばかりの話で、それが原因で河野さんと一緒に駅前のコンビニに向かっているわけだけど。

「しかも明日は満月だから大きいし」
「中秋の名月なのに満月じゃないんだね。
 十五夜って陰暦の八月の十五日だって」

「何年かに一度は一緒になるみたいだよ。
 一番近かったのは2年前の2023年の9月29日。
 次は2030年の9月12日」

 スマホで確認することもなく河野さんはスラスラと答える。
 天文少女というとロマンティックだけど、頭の中は数式と知識で埋まってる。

「やっぱ、天文好きとしては見逃せない?」
「それはそうだね。
 今年は日本でも皆既月食があったばっかりだし。
 緯度的には北海道まで行かないと見られないけど、オーロラの当たり年だし。
 もうすぐオリオン座流星群もあって。
 レモン彗星の最接近が極大に近いって。
 予想だと4等星までの明るさになる、って聞くし。
 この辺りだと明るすぎて、肉眼だと観測は難しいとは思う。
 ちょっと残念」

 河野さんは天文になると饒舌になる。
 陰キャなヲタクが早口トークするみたいに。
 でもキラキラと目を輝かして話す様子は、フツーの可愛い女の子だと思う。
 それがファッションとか、アイドルってだけじゃないだけで。

「レモン彗星?」

 ハレー彗星の話ぐらいは聞いたことがあったけど、初耳だった。

「うん、一生に一度だよ。
 非周期の彗星で1400年ごとに太陽系に来るの。
 次は西暦で3421年だって。
 平安時代の人も見たことのない彗星で、私たちの子孫とかも見られるか分からないって感じ。
 緑色の彗星だからレアだね」

「レモンなのに緑!?」

 どういうノリだ。
 1400年ごとって周期もスケールが大きすぎて、正直に実感が湧かない。
 一年に一度はある中秋の名月だって、なんとなく親のおかげで、バックレられない行事みたいにこなしているだけだ。

「星って発見者が名前を決めるから。
 マウント・レモン天文台が発見したから、そのままレモンって名前になったんだと思う。
 海外の発見だから、私もあんまり詳しくはないんだけど」
「マウントってことは山?
 レモンの山かー。
 想像つかないな」
「それを言ったらモンブランは白い山だよ。
 日本じゃ和栗を使うケーキで定着しちゃったけど」
「中秋の名月を観たら、十三夜。
 栗名月もしなきゃいけないんだっけ。
 片見月で縁起が悪いって」
「でも、そんな理由でモンブランケーキを食べられたら最高だよね」
「日本人って食べることだけには熱心だよな」
「美味しいものがいっぱいあるからじゃない?」

 そんな他愛のない話をしていたら駅前のコンビニまでついてしまった。

「じゃあ、私はこれで」

 河野さんはあっさりと帰ろうとする。
 当たり前だ。
 僕と河野さんは付き合っているわけでもなく、そもそも友だちですらない。
 同じ塾に通っている同じ学年だけだ。
 高校だって違う。
 河野さんの方が段違いで頭の良いお嬢さま学校に通っているのに、国語が壊滅ってだけで僕も通っている塾に在籍してる。
 ホントに国文がダメみたいで、現国は問題文に答えが書いてあるって僕が言ったら、「カンニング?」って言ったぐらいだ。

 女の子ひとりが夜道を歩くのが危険だから。

 って言うわけでもなく。
 だって駅前の大通りで二車線道路の明るい道しかないし、街灯だって整備されてる。
 タクシープールだってあって、バスの発着所もある。
 条例で決まっているからチェーン店の飲み屋っていうものすらない。
 塾からも歩いてすぐなんだから、それほど危ないところはない。

「いや、付き合ってもらったし。何か奢る。
 奢らせてください。
 僕がお母さんから怒られるって」

 必死に言った。
 こうして一緒にコンビニまで来たのだって、十五夜の日付を思い出した母親からの理不尽な連絡からだったのだ。
 お月見団子を予約し忘れたから、帰りに買ってきて、と。
 塾の終わりに和菓子屋なんて開いていないし、スーパーですら怪しい。
 『フードロスに協力ありがとうございます』って書かれたシールの貼られた見切り品だって大問題だろう。
 絶対に母親から怒られる。

 それに助け舟を出してくれたのが塾の先生と河野さんだったのだ。
 お月見の由来は中国からだから月餅で代わりになる、と。
 本家の中国では今でも色々な種類の月餅が売られて、それを食べている、と。
 河野さんが月餅だったら、有名なパンメーカーがコンビニで売ってるのを見たことがある、って。

「気にしないで。
 どうせ帰り道だったから」
「情報提供料ってことで!
 それに一緒に買い食いしない?
 小腹、空いてるからさ」
「……ダイエット中だから、誘惑しないで」
「そんなに気になる体形?」
「標準体重よりも……重いから」

 河野さんはぼそっと言った。
 うつむいてカバンをぎゅっと握ってる。
 駅前のコンビニの光に照らされた河野さんは可愛い女の子に見えるけど、きっと男の僕にはわからない悩みってヤツなんだろう。
 男が気になる女の子と背が変わらない、と同じぐらい深刻な悩みなんだろう。

「じゃあ、次の塾までにお礼を考えおく。
 お母さんから言われそうだし」
「そっか。大変だよね。
 じゃあ、また。
 気をつけて帰ってね」
「ありがと」

 駅の改札口に向かっていく河野さんの背中に。
 声が届くギリギリで。

「今日も月が綺麗だね」

 僕は言った。
 中秋の名月じゃなくても。
 明日が満月だから明るい月じゃなくても。
 僕にとっては、天文が好きな『河野結月』さんは綺麗だった。
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