最愛の婚約者さまは『婚約破棄』をしてくださいません!
「レオンハルトさま、わたくしと婚約破棄をしてくださいませ」
わたくしは緊張しながら言いました。
舌足らずでどもったりすることが多く、淑女のように流暢な発音ができないわたくしにしては頑張った方ですわ。
小鳥のように可憐なさえずり、とまではいかないかもしれませんが、猛特訓した成果があるような自分自身に花丸をつけたくなるぐらいの言葉遣いだったと思いますの。
もっとも目の前の殿方はわたくしの努力など誉めてくださらない雰囲気を漂わせていました。
わたくしよりも二つ年上のレオンハルトさまはエーデルバイス公爵家の嫡男でございます。
今年で18歳になられ、その見目麗しさは神話に出てくる半神の英雄よりも素晴らしい方です。
家柄や容姿だけではなく、優れた実力をお持ちの方ですわ。
現国王陛下の姪を母君に持ちますが、それをひけらかして権力を誇示することもなく、学園の中の誰もが慕っています。
卒業することを惜しむ声がわたくしの耳にも入りました。
もちろん今宵の卒業式の余興であるダンスホール内では国防を司る魔法省ですでに役職を用意されていることに皆さま方は褒めたたえていらっしゃいました。
わたくしもその一員ですわ。
ここはダンスホールから少し離れた庭園です。
近くには瀟洒な噴水もございまして、その水音の清らかさが普段ならすずやぎをもたらすのですが、わたくしにはそれどころではありません。
ノミよりも小さなわたくしの心臓は緊張で壊れてしまうのではないかと思うほどの早鐘を鳴らしています。
「私は聞き落としたようだ。
もう一度言ってくれないか?
私の可愛いフィナ」
レオンハルトさまは穏やかな物腰で言いました。
さすが五大公爵家ですわ。
怒っていても感情的にならずに理論的に話を続ける姿勢を示すなんて。
わたくしには真似ができないことです。
それにしても美形というのはどのような顔をしても美形であることが変わらないことが羨ましいですわ。
他人と話す時に穏やかに微笑んでいらっしゃる姿も課題に真摯に取り組んでいる時の知的な姿も素晴らしいですが、険しい顔をしていても様になるどころか、よりいっそう神々しくなるのですから。
凄味が増して、その美しさから主神がお傍で愛でるために今すぐにでも星座にして、天に召してしまうのではないか、そのような素晴らしさです。
月のない夜であっても、ダンスホールの蝋燭から遠い場所であっても、その輝かしい白皙の美貌はお変わりがありません。
眼鏡越しに見えるグレーと呼ぶにはもったいない銀灰色の瞳が真っ直ぐとわたくしを見ているのは怒っていらっしゃるとわかっていても喜ばしいことです。
その瞳に映ることができるなら塵芥のような扱いでもかまわない、と脚色なしに思いますわ。
わたくしがこのような顔をしても誰も称賛してくださらないどころか……。
お腹が痛いのかい?
欲張ってケーキを食べすぎたのだろう。
ウェストを締め付けないドレスを着るように何度注意すればわかるんだい?
もう少し学習能力というものを身につけて欲しい。
そんなことを言われるのが落ちですわ。
今までも散々レオンハルトさまから注意されてきましたし、お優しいお兄さまたちとて忠告してくださいましたし、お父さまはためいき混じりお茶会や夜会の度におっしゃります。
あまりに言われ続けるためにわたくしは慣れてしまいましたわ。
こういうところが学習能力がない、と言われる所以なのでしょうか?
「ご卒業おめでとうございます。
これからは大人の仲間入りですね。
魔法省での活躍をわたくしエルフィーナ・シエルブランも楽しみにしています」
在校生であれば定番の言葉ですわ。
もっともこの言い回しを練習するのにも大変な努力をいたしました。
付き合ってくれた家族たちも最初の頃は我慢してくださっていたのですが、度が酷すぎたのでしょう。
カミル兄さまは書類で顔を隠していましたが、肩の震えを隠しきれていませんでした。
エラン兄さまなど手にした魔法具のパーツを取り落として、大口を開けて笑っていたのです。
お二方とも貴族らしからぬ態度でしたので、婚約者の方に愛想つかさなければよろしいのですが。
特に結婚式の準備を始められたエラン兄さまが心配ですわ。
義理の姉になるラーゼン伯爵令嬢は淑女然としたお優しい方でわたくしのようなものでも実の妹のようにあたたかく接してくださいます。
釣った魚が逃げないと良いのですが……。
「続きがあっただろう?」
レオンハルトさまは促します。
約12年も婚約者として過ごしていればある程度のことはわかります。
ヴァントール王国の奇才。
神の落とし子。
五大公爵八大侯爵の中で頂点であるエーデルバイス家の次期当主として期待され続け、努力を怠らない方ですもの。
百歩譲っても聞き落とすことなどありません。
用件は聞いたけれども、応じる気は一切ない、という意味だというぐらい馬鹿なわたくしでも理解できます。
これからお叱りいただくのでしょう。
いつもでしたら素直に受け止めるわたくしですけど、譲ることができない重要な要件ですわ。
今までずるずるとなあなあとしてきた部分だけですもの。
レオンハルトさまがめでたくご卒業するタイミングは絶好のチャンスです。
この日、この時のために、わたくしは何度も頭の中で計画を立てて、家族を巻き込んでまで猛特訓をしてきたのですから。
「私の可愛いフィナは、いわゆる『真実の愛』を見つけたというのかい?
まだ学園に入学して一年だろう」
レオンハルトさまが尋ねました。
『真実の愛』とは貴族間で使われる便利なフレーズですわ。
円満に婚約を解消するために学園の卒業式では飛び交うセリフですの。
政略結婚をするのが当然の高位貴族間ではそうそう簡単に婚約解消はできません。
国王が祝福した婚約を覆すのですもの。
翻意があると思われても仕方がありません。
ですが、学園内で愛を育み、相思相愛の関係になった男女を引き裂くのは重罪ですわ。
愛の女神の御手によって守られていますもの。
ヴァントール王国が近隣諸国から高圧な外交をされず、吸収されず、歴史を大陸に連綿と重ねてきた背景には他国にはほとんど使い手のいない魔法をあやつることができる者がいるからですわ。
それも国民全員が、と注釈をつけなればなりません。
貴族階級でない平民であってもささやかな魔法を扱うことができます。
ですからたまに高位貴族をしのぐほどの豊かな魔法力と使役するための能力を持った平民が生まれてきます。
適切な教育を与えずに放置するのも危険ですし、他国の方に誘拐されても厄介ですし、国防の役に立つようにと学園への入学が許可されています。
貴族も平民も身分を関係なく学園の中で三年間という歳月を過ごします。
若い男女がいれば自然と惹かれあうのも節理。
そもそも貴族間の婚約がよりよい魔法使いを育てるために幼少時から縁組――予約しておく行為なのです。
多少は情がある婚約者がいても、情熱的に愛する想い人ができて、なおかつその想い人が婚約者と同等かそれ以上の魔法の使い手であれば、誰もが考えることは一緒ですわ。
もちろん家督を継ぐ予定がなく学園内でお相手探しをする貴族の方もいらっしゃいます。
わたくしの父であるアデルオーベルヌ侯爵もその一人でした。
成人して結婚もして魔法省で働いている兄がいる気楽な次男でしたから、悠々と授業を受けながら、男女問わず広い交友関係を築いたそうです。
兄の補佐をするための人脈作りという、素晴らしいお考えですわ。
その中で平民出身のお母さまに出会い、意気投合したそうです。
八大侯爵の末席とはいえシエルブラン家と話の合う女性というのは少なく、かなり高度な魔法技術や研究などの話にお母さまはついてくることができ、切磋琢磨する良きライバルといった雰囲気だったそうです。
一緒にいる時間が長くなり、二人だけで研究する機会が増え、自然と二人の距離は縮まりました。
学園内での良き友人だった、と魔法省に就職してから思うような想い出話ですが、そうならなかったのは、お母さまが優れていたのは魔法力や頭脳だけではなかったという事実がございます。
わたくしのオレンジに近い茶色といった髪色のよりも華のある蜂蜜のような艶やかな真っ直ぐとした髪。
藍玉《アクアマリン》を神さまが自ら瞳にはめこんだといっても過言ではない美しい瞳。
雪花石膏《アラバスター》のように白く滑かな肌。
水晶を打ち鳴らすような繊細でいながら明瞭な声。
今のわたくしから見ても美しいお姿なのですから、お若い頃――学園に在学当時はさぞや異性の目を釘付けにしたことでしょう。
母から子によく似る、と言われるのに神さまは手違いをしたのでしょうか。
お母さまの魔法の才能や容姿の十分の一でも伝わればわたくしは、ここまで深く思い悩む必要はなかったのです。
話が逸れましたわ。
卒業を間近に便利なフレーズである『真実の愛』だと言って急に距離を縮める殿方があまりに多く、お母さまは大変お困りになったそうです。
今までほとんど会話すらしたことがない相手にいきなり言われても困ってしまいますわよね。
わたくしでしたらそのような殿方は信頼できません。
生涯を共にする相手として一考する価値もなかったでしょう。
魔法省への就職を諦めて学園を中途退学すると決意を固めていたところで、ぼんやりしているというか、色恋に関してはおっとりとしているお父さまが引き留めたということですわ。
お父さまもその他大勢の殿方と同じで、お母さまの美しさに惹かれていらっしゃったそうです。
ですが同じ学園で学ぶ者であり、お母さまにはその気がないように思い込んでいらっしゃったので、ひた隠しにしていたそうです。
女心がちっともわからなかったようですわ。
いくら話が合うからといって、婚約者がいなく花嫁探しに来ている殿方と二人きりで長時間過ごす娘なんていませんのに。
一瞬たりとも目が離せない素敵なお芝居のような紆余曲折を乗り越えて、便利なフレーズではなく『真実の愛』だとお二人は気がつき、学園を卒業した後、結婚をすることになりました。
家督を繋ぐ予定のない貴族男性と平民のカップルというのは学園にいれば、たまにあるラブロマンスです。
小さな領地をいただいて領地運営か能力があれば魔法省に就職して文官として働きながらつつましやかに暮らしていくものです。
卒業式の直前。
魔法省への就職を内定させるために実力テストでお二方が歴史に刻まれるような成績を叩き出してしまいましたの。
ヴァントール王国は魔法の力で国防をしているのです。
そうなると自動的にお父さまがシエルブラン家の当主になることなり、国王からの祝福を与えられました。
平民出身のままでは侯爵夫人になることはできない、とお母さま一度伯爵家の養女になり、シエルブラン家に嫁ぐことになりました。
そこでもひと騒動があったそうですが、相思相愛の二人は無事に壁を乗り越え、お兄さま方を含めて子宝に恵まれ幸せといえなくもない暮らしを送っていますわ。
ええ、わたくしという出来損ないがいなければ、もっと幸せだったでしょう。
「『真実の愛』を見つけたのはレオンハルトさまですわ。
仲の良い方がいらっしゃるのでしょう?
わたくしの耳にも自然と入ってきましたわ。
具体的なお名前はその方の名誉にかかわるので控えさせていただきます」
水色と呼ぶのもおこがましい薄すぎる青色のわたくしの瞳に熱がこもっていくのがわかりますし、声だって震えています。
レオンハルトさまと同じ歳。
今年、卒業されるイヴェット・ヴァネッサ伯爵令嬢。
燃えるような紅い豊かな巻き毛と蠱惑的で大人びた色香のある女性ですわ。
お二人が仲良く談笑している姿をわたくしは何度も拝見いたしました。
家柄的にも伯爵家なら問題はございませんし、成績も優秀なのですから、わたくしが身を引くべきなのはわかっています。
レオンハルトさまにお似合いなのは、ヴァネッサ伯爵令嬢ですわ。
「わたくしとレオンハルトさまの婚約は、魔法の属性の相性で決まりました。
レオンハルトさまの血が濃すぎて、五大公爵、八大侯爵の高位貴族に絞るとなると当家シエルブラン家しかなかった、と。
わたくしが優秀であればよろしかったのですが、皆さま方の期待を外していしまいましたわ」
ヴァントール王国の国民であれば誰もが持っている魔法力。
その力は幼い頃はまだどれほど豊かなものなのか。
測定することはできません。
言葉を自在に操り、体がある程度できてきてから、ようやく調べることができるのです。
そのため義務として12歳の誕生日に測定を行うことになっています。
どちらかというおめでたい儀式のようなもので、すこしだけ大人に近づいたと誰もが喜ぶ行事ですわ。
平民でも貴族でもそれは変わりがありません。
わたくし自身も胸を高鳴らせて儀式に挑みました。
その結果は今でも鮮烈に刻み込まれています。
大きな傷のようなものです。
完全に繕うことはできず、何かの折に開いては痛み出す。
人間は悲しいことがあったら涙が枯れることがなく、一睡もできない。
そのようなことを知った日でもありました。
幾夜も、わたくしは眠れないまま太陽が昇る姿を眺めました。
わたくしは儀式で測定できないほどの魔力しか持っていない。
平民以下。
他国の国民と同じ。
だというのに八大侯爵家の娘だという理由だけで学園の入学が許可されました。
魔法力を持っていないのに理論だけ知っていても意味がないと痛感した一年間。
それでもレオンハルトと一緒に学園生活を送れたのでしたから、過分な喜びだったと……いえ、本当に幸せな時間でした。
初めてお会いした時。
まだ婚約の意味すら知らなかった幼いわたくしは美しく、優しく、博識なレオンハルトさまに遊んでいただくのが嬉しかったです。
婚約というのが結婚の約束をしている間柄だという意味を知った時は羽でも生えて舞い上がってしまうのではないか、それぐらい浮かれていました。
いつかお父さまやお母さまのように素晴らしい家庭を築ける。
そんな意味だと信じていました。
「ダンスホールで『真実の愛』を見つけた。
レオンハルトさまがそうおっしゃれば皆さまは納得いたしますわ」
もちろんわたくしも納得しますわ。
今、胸の内からこみあげてきて瞳を潤ませてしまうものも隠して。
侯爵令嬢らしく微笑みながら祝福をしてみせますわ。
レオンハルトさまの透明感のある月光色と呼ぶにふさわしい銀色の真っ直ぐとした髪。
それをまとめるお気に入りの朝露色の絹のリボン。
知的な印象を高める眼鏡越しの銀灰色の瞳。
それを目にするのも今宵が最後。
ご卒業なされて、魔法省での活躍を期待されているのですから、わたくしとの接点はなくなります。
わたくしの魔法力では魔法省へ追いかけていくことなどできないでしょう。
それにすでにお似合いの方がいらっしゃるのですから、あたたかな家庭を築いていますわ。
高潔で張りのある声でわたくしのことを『可愛いフィナ』と呼んでくださるのも最後ですわね。
家族よりも一緒にいた時間の方が長くなり始めただけに、胸が張り裂けるという言葉では足りません。
生木を裂くような。
痛々しいほどの痛みが全身をめぐります。
「そんな理由では受け入れられない」
レオンハルトさまは冷静におっしゃいました。
「どうしてですの?」
わたくしは現金にも涙が引っ込んで尋ねてしまいました。
うっかりです。
レオンハルトさまは怒っていらっしゃるのをわざわざわたくしにもわかりやすいように隠していなかったというのに。
思いっきり話の腰を折ってしまいましたわ。
焦ったところでいまさらどうしようもないのですが。
あまりよろしくない展開ですわ。
不注意とか、学習能力がないとか、ですましていい問題ではないような気がします。
わたくしの場合、この手のトラブルの頻度が高く……そういう意味でもレオンハルトさまの婚約者に相応しくないのです。
今までのわたくしの行いを振り返って反省したところで、現況を覆すことはできないのできませんわ。
「婚約が決まってからの12年間。
君をよく見てきたつもりだ。
思い込みが激しく、すぐに早とちりをする。
暴れ馬のように暴走もする。
決めたことは力づくで押し通そうとするし、未来を楽観視しすぎるきらいもある」
レオンハルトさまは淡々と悪口を。
いえ正確無比なわたくしへの評価を並べていきます。
家族や学園の先生でももう少し手心を加えてくださいますわ。
まだ16歳の誕生日を迎えていない子どもにはキツすぎるお言葉の数々。
客観的に見ても婚約者失格だとレオンハルトさまの口から直接、評価されてしまうと立つ瀬がなくなりますわ。
いっそのこと手近にある噴水に身を投じたくなります。
「ですから、わたくしはレオンハルトさまに相応しくない、と。
お相応しい方と結ばれてください。
エーデルバイス家の皆さまも、これから生まれてくる予定のレオンハルトさまの子どもも納得いたしますわ。
さすがに格下のわたくしの方から婚約破棄を申し出ることはできません。
実際にわたくしが12歳の誕生日を迎えて儀式を行ってから、婚約を白紙にする旨を書面で送っている、とお父さまからも聞いていますわ」
わたくしは必死に言いました。
今まで婚約破棄をされなかったのが不思議なぐらいなのです。
母から子に魔法力であっても伝わりやすいのですから、他国の住民のように魔法力がないわたくしと婚約を継続する利点は一つもありません。
高位貴族に絞らずに、もう少し幅広く妻の候補を広げたところで、誰も文句を言わないでしょう。
自分で口にしていて、なんて嫌な響きなのでしょうか。
物がわからなかった幼子のように大声で泣いてしまいたいですわ。
もっともわたくしのような平凡な容姿の娘が泣いたところで涙が真珠にすらならずに、怪物のように醜悪な顔になるだけでしょう。
「婚約は続行だ。
卒業までの二年。
子どもらしく学園で過ごして欲しい」
レオンハルトさまは意外なことをおっしゃいます。
お似合いの方がいらっしゃるとわたくしの耳にまで届く方がいるのに。
何度もヴァネッサ伯爵令嬢と談笑する姿をこの目で見たのに。
「子どもらしく、ですか。
少しぐらい淑女扱いしてくださっても」
つい不満を零していしまいました。
わたくしはどうしてこんなに恨みがましい嫌な性格をしているのでしょうか。
身を引く、と思いながら、婚約が続行されることを喜ぶなんて。
「淑女はこのような突拍子もないことをしでかさない。
行き当たりばったりだったし、考え方も甘い。
根回しという単語を学習して欲しい。
シエルブラン家が出席していなくて良かった。
ここはダンスホールから遠いから人目もない。
目撃者もいなかっただろう。
実に馬鹿々々しい話を聞かされた」
レオンハルトさまの言葉にわたくしは項垂れるしかありません。
「貴重なお時間を取らせて申し訳ございませんでした」
「卒業生代表で答辞を述べたのに、ダンスをまだ一曲も踊っていない。
婚約者が学園内にいる場合は、ファーストダンスは婚約者だと決まっているからね。
フィナを探し回る羽目になった。
注目を浴びるのが苦手かもしれないが、踊らずに帰宅することはできない」
「ご迷惑をおかけするつもりはございませんでしたの。
他の女性の方と踊れば『真実の愛』だと皆さまにわかりやすいと思ったのです」
わたくしは顔を上げて言いました。
「フィナのことだから、そんなことだろうと思ったよ。
悪いと思っている?」
眼鏡の奥の銀灰色の瞳がわたくしを映します。
それはケーキよりも甘く、花の蜜よりも軽やかな誘惑。
ずっとこの瞳に映っていたい、と思っていますもの。
たとえ眼鏡越しであっても。
グレーだと識別される色合いであっても。
それでも独り占めできることは光栄です。
「ええ、もちろんですわ」
夢見心地とはこのことでしょうか。
わたくしは頷きました。
「だったら僕に正直に話せるね」
レオンハルトさまは静かに眼鏡を外しました。
人前であれば絶対に外さないそれを。
わたくしが何もわからない頃であれば何度でも見た光景でした。
ドキドキと血の巡りを耳の奥まで聞こえてくるほどの緊張感。
噴水の音すらわたくしの耳に入りません。
ただ真っ直ぐにレオンハルトさまを見上げてしまいます。
ああ、こういうところが淑女らしくないのですのね。
殿方から見つめられて恥じらって視線を逸らさず、逆にまじまじと見つめてしまうなんてよろしいことではありませんわ。
子どもの頃からのクセというのは抜けないものです。
それにもったいないと思いますもの。
たとえ満月の光があっても、ダンスホールの中のように蝋燭で満たされていても、この瞳の色は隠せませんわ。
星しかない夜であってもレオンハルトさまの瞳の輝きは失せません。
黒蛋白石《ブラックオパール》のような黒とは呼べない揺らめく色合い。
青、緑、黄色、赤。
遊色がある黒蛋白石《ブラックオパール》でもここまでの幻想的な揺らめきはないでしょう。
これ以上に素晴らしいものをわたくしは見たことがございません。
神さまの恩寵。
かつて王家に伝わっていたと呼ばれる審理の瞳。
稀有な瞳。
神さまの前では誰もが行いを審判にかけられるように。
審理の瞳は嘘も欺瞞も許さない。
生まれ落ちた時までさかのぼって罪状を取り調べる。
レオンハルトさまの眼鏡は視力矯正のためのものでもなく、強大すぎる魔力を封じ込める魔法具でもなく、他人の心を覗き込むことを防止するための一点ものの魔法具。
国内一の技術のある魔封具師しか作ることができず、どれほどの金貨や宝石を集めても魔封具師が断れば終わり。
それほど貴重なものです。
「フィナは『真実の愛』を夢見ているようだね。
今回のことは僕のことを思って行動を起こしたようだから、見逃してあげよう。
二度と馬鹿げた行いはしないように。
いいね」
レオンハルトさまの言葉は蜜のように蕩ける響き。
教会のパイプオルガンですら敵わないほどの美しさ。
雲の上を歩くようにふわふわと地に足がつかない居心地にさせてくださいます。
このまま時計の針を縫い留めることができれば良いのに。
わたくしは何度も頷きました。
「わたくしは可愛いフィナなのですよね?」
なかなか夢から覚めない朝のように訊きました。
ベッドの中で朝の光を感じたり、鳥の声を聞きながら、ポタージュスープのように微睡む時間のように。
「ああ、もちろん」
レオンハルトさまは優しく言ってくださいます。
なので勇気をもって
「でしたら、可愛いわたくしのお願いも叶えてくださいませんの?」
最初の要件を確認しました。
つまり円満な婚約破棄ですわ。
「僕にどれだけ実力があってもできることとできないことがあるんだよ。
こう見えても成人する前の子どもだからね」
ためいき混じりにレオンハルトさまはおっしゃいます。
「今宵を過ぎたら大人ですわ」
「だから君は可愛いフィナなんだよ」
揶揄うような口調で言われて
「幼くて申し訳ございません!」
わたくしは淑女らしくなく声を尖らしてしまいました。
大失態ですわ。
自分で墓の穴を掘る、という行為ですわね。
学園に入学して大人びた上級生の皆さまや同級生でもしっかりとした方と一年過ごして、どれほどわたくしが子どもじみているか痛感したというのに。
ためいきをついてもつき足りないぐらい心が沈み込みます。
「あ、レオンハルトさま。
眼鏡をかけてしまうのですか?」
せっかく美しい瞳でしたのに。
そうそう見る機会がなくて残念なのですよ。
「眼鏡をかけた私は嫌いかい?」
レオンハルトさまは穏やかに尋ねます。
一人称まで切り替わりました。
お兄さまたちと談笑している時ぐらいしか僕と使わないのですのに。
わたくし相手でも稀ですわ。
「皆さま、眼鏡姿のレオンハルトさまを知的で素敵だとおっしゃられますが、もったいないと思いますの。
賢いのはご存知でしょう?
魔法具のおかげで瞳の色が違って見えてしまって」
どのようなカラクリがあるのでしょうか。
レオンハルトさまの父君であるエーデルバイス公爵と同じ色に見えます。
もちろん色を識別するためのグレーなどの麗しさの欠片もない言葉ではなく、銀灰色と呼びたい色合いと眼差しですけれど。
「この色は嫌いかな?
父と違った色に見えたら大問題になるだろうね」
「そうなのですの?
公爵と同じ色合いも素敵ですけど、眼鏡を外した色の方がもっと素敵だとわたくしは伝えたかったのですわ。
レオンハルトさまと同じ瞳をわたくしは絵画ですら見たことがございませんもの」
「かなり珍しいらしいね。
……先祖返りだと言われたよ」
「ええ、わたくしもそう説明されましたわ。
その頃には眼鏡をかけ始めましたよね?
やはりお辛いのですか?」
不安になってわたくしは尋ねてしまいました。
「滅多に眼鏡は外さないから大丈夫だよ。
私の可愛いフィナ。
笑顔が曇っているよ。
これからダンスホールに戻るんだ。
笑顔でいてくれないと困る。
……一時的とはいえ離れ離れになるから寂しがっている婚約者、ということにしてもいいけれども」
穏やかな物腰ですけど面白がってレオンハルトさまはおっしゃいます。
「寂しいのは本当ですわ」
学園に入学してからの一年間が楽しかった分だけ切なくなります。
魔法省は激務だと聞いていますもの。
どのような部署に着任なさるかはわたくしには教えていただけていませんが、優秀な成績を修め、ヴァントール王国の奇才と褒めたたえられる方ですもの。
忙しい日々を送られることでしょう。
ヴァネッサ伯爵令嬢も魔法省に入ることが決定しているのですから、より親密な関係になるかもしれません。
他にも魅力的な女性職員も多いことでしょう。
わたくしは平民以下の魔法力も持たずに、魅力のある容姿をしているわけではありませんもの。
ですが考え方を変えると、魔法省に入られてからレオンハルトさまに『真実の愛』を見つけていただき、その方と愛を育んでいただいて、素晴らしい家庭を築くために、わたくしとの婚約を破棄していただけばいいだけですわ。
それがきっと皆さま方が望むハッピーエンドでしょう。
「それなのに私に婚約破棄をするように頼むわけか。
私がエスコートするのは可愛いフィナだけだよ」
「レオンハルトさまには『真実の愛』を見つけて欲しいと思っているのです。
わたくしの心からの願いですわ」
「その話はフィナが学園を卒業する二年後に。
もう少し淑女らしくなっていることだろうからね」
「いつまでも子どもじみていて申し訳ありません」
同級生よりも幼いのは事実なので認めなければなりません。
二年後ですら年相応の淑女になっているでしょうか?
前途多難な気がしてきます。
「卒業しても理解が追いついていなかったら、時間をかけて私が教えてあげよう。
その頃には私もゆっくりと休暇が取れるだろうからね。
今は何かと立て込みすぎている」
「何を教えてくださいますの?」
出会った時からわたくしは何でも教えてもらってばかりいるような気がします。
一年間とはいえ、学園生活では不慣れな点も丁寧に付きっ切りで教えてもらっていましたわ。
そういう意味でも赤ん坊のような扱いですわね。
魔法力がなくても、知識だけは身につけて、賢い淑女にならなくては。
レオンハルトさまには、安心して『真実の愛』を探してもらわなければいけませんわ。
「可愛いフィナが自分で事実に辿りつけるなら、手伝わないよ。
ただ卒業して成人しても理解していなかったら、みっちりと指導するだけだね」
レオンハルトさまは穏やかな物腰なのに、有無を言わせぬ圧力をかけてきます。
わたくしではなくても、誰であっても頷かせるような雰囲気です。
やはり五大公爵八大侯爵の中で頂点であるエーデルバイス家の次期当主だけありますわ。
他の方とは雰囲気が違います。
「学園できちんと勉強をいたしますわ。
レオンハルトさまのご迷惑をこれ以上、おかけいたしません」
わたくしは尊い誓いを立てるように真剣に言いました。
「さっさとダンスを踊ってしまおう。
ここでは学園代表だの、ヴァントール王国の奇才だの、肩書が大きすぎる。
早く楽になりたいよ」
「レオンハルトさまでもそのようなことを思うのですの?
自慢して回ったわけではなく、努力なされたからついてきた結果ではございませんか」
わたくしは当たり前のことを言ったつもりだったのですが、レオンハルトさま渋い顔をなさりました。
どうやらまた明後日の方向の回答をしてしまったようです。
その後、本当にダンスを一曲踊っただけで帰路につきました。
てっきりレオンハルトさまはご自分の家であるエーデルバイス家に帰ると思っていたのですが、魔法省でお勤めのお兄さまたちもシエルブラン家に帰ってきていらして、我が家がお祝いモードでした。
お兄さまたちにとってレオンハルトさまは弟みたいなもの、ですものね。
わたくしからすれば空恐ろしいことですが、殿方の友情というものに口を挟むべきではないとお母さまが注意されたので、わたくしもできるだけ大人しくしていましたわ。
ただ婚約破棄に失敗したことだけは練習に付き合ってくれたお兄さまたちがバラしてしまったので、お父さまが盛大なためいきをつき、もう少し落ち着くようにと苦言もいただきました。
そのことをきちんと付け加えさせていただきます。
このような状況でわたくしは二年以内に円満に婚約破棄ができるのでしょうか?
魔法省:魔法具師の作業場
シエルブラン家次男のルーカスエランに与えられた小さな一室
「機嫌が悪そうだね、ハルト」
「季節の挨拶程度に婚約撤回の手紙が届けば誰だって機嫌が悪くなるだろう?」
「今更だ。むしろ最近は文通の頻度じゃないか。
もう慣れたと思っていたよ」
「僕はエランほど心が広くないんだ」
「……妹が何かしたかな?」
「婚約破棄をして欲しいと言われた」
「君の本性がバレたんじゃないかな?
嫉妬深くて、束縛の強い男性は嫌われると聞くし。
いくら顔が良くても家柄が良くても、性格の悪いと逃げたくなるって……一般論だよ。
平民的な」
「シエルブラン家が本気になったら、王家ですらどうにもできない。
僕にだって無理だろう」
「当家を買ってくれるのは嬉しいけどね。
シエルブラン家は五大公爵、八大侯爵家の中でも末席だ。
私自身もしがない魔法具師で下から数えた方が早い。兄上も司書編纂係だ。
魔法省でも閑職だね」
「平時の場合だけだろう?」
「近隣国と戦争なんて始めたら、ますます結婚が遠のくよ、ハルト。
フィナなら王都の中核――国王一家の盾にされるから、安全といえば安全だろうけど。
君は違うだろう?」
「面と向かって婚約破棄を叩きつけられて我慢できるほど、僕はまだ大人じゃないんだ」
「私だって愛しの婚約者から告げられたらショックで寝込むよ。
まあ、そのためにも閑職で将来的にほどほどに出世ができればいいんだけど。
家族を養っていけるだけの給金が貰えれば充分かな。
家は兄上が継ぐだろうし。
兄上も逃げるなら、シエルブラン家は伯父の子たちが継げばいい。
ほら、眼鏡の調整がすんだ。
かけ心地を確認してくれないか?」
「僕と視線を合わせながら話せるのは君たち兄妹だけだ。
実の両親すら目を逸らす」
「母上の教育方針のおかげかな?
恥ずべき行動をしない。
もし嘘をつくのなら信条をもってつきなさい。
おかげでフィナなんて嘘のつき方も知らないまま16歳だ」
「眼鏡越しでもフィナが考えていることなんてわかりやすい。
朝露の瞳のように清らからで澄んでいるよ」
「幼なじみで、同じ男として気持ちがわからなくもないけど、兄としてはフィナがかわいそうだと思うよ」
「エランが板挟みになっているのは面白いな」
「性格が悪いぐらいじゃなきゃエーデルバイス家が泥船のように沈没するんだろうけど、わざわざ私に本性を見せなくてもいいんじゃないか?」
「フィナに話すとは思えない」
「んー、話したところで妹は純粋無垢でね。
『レオンハルトさまはエラン兄さまと違い賢いのですのね。さすがですわ』とか言うだろう」
「だったら、どうして婚約破棄をしたいと言い出すんだ。
まだご両親に憧れて、学園内で好きな男ができたのなら理解できる」
「理解するだけだろう。
あの手この手で妨害工作をするハルトしか想像ができない」
「当たり前だ」
「劇的な出会いをする前にハルトとフィナは婚約してしまったからね。
しかも12歳の儀式の時に魔法力が『測定不可能』だった」
「誰もが力が少なすぎて測定ができないと判断した一件だ」
「そう、私と兄上と君以外はね。
私の両親は気がついているかもだけど。
当代のシエルブラン家は穏やかな暮らしを望んでいる」
「婚約撤回を書面が届き続け、フィナからも直接告げられる立場になって欲しい。
どれだけ苛立つか」
「君の猫の被り方は素晴らしい。
称賛に値する。
その性格にお似合いの女性と『真実の愛』とやらで婚約解消をしてくれてかまわないよ」
「エランの指先が傷ついたら私も困るし、フィナも悲しむから実行に移せないのが実に残念だ」
「心底、魔法具師で良かったと思ったよ」