■注意書き■
本作品には、炎上に関する描写が含まれます。特定の企業や商品を批判する意図はありません。
休憩室の炎上談義
伊藤悠斗には現在進行形で、気になっていることがあった。
ネット上で炎上している物件である。
一回、気になると気になって仕方がない。
夜も眠れないほどではないが、スマホでついつい流れてくる文字列を追ってしまって、睡眠時間が削れ始めた。
良くない兆候だろう。
とはいえ、周囲にいるような人物は自分と似たり寄ったりの価値観を持つ男性ばかりだ。
職場の人間とは真逆。
ネットのスラングで『チー牛』と呼ばれるようなタイプだ。
実際のところ会社員になったが、大手とは言えないし、劇的な出世はしていないし、これからもしないだろう。
20代だというのに両親からは『婚活しろ』と言われているぐらいだ。
マッチングアプリで探してまで贅沢品である結婚や子どもが欲しい、とは言えない年収だった。
親としては孫の顔を見ておきたいのかもしれないけれども。
妹もいるが、兄妹とは思えないほど社交的な性格をしている。
悠斗の話を一刀両断して時間の無駄とすっぱりと言ってくれるだろう。
そんなことを思っていたら
「伊藤さんどうぞ」
と小さく声をかけられた。
デスクの上にはブラックのコーヒー。
個包装のキャンディーが添えてあった。
「ありがとう」
悠斗の好みを完全に把握しているチョイスだった。
職場のコーヒーはブラックで飲むが、甘いものも欲しくなる。
コーヒー自体には砂糖を使いたくない。
そんなことを知っているのは、この会社では柏木結衣だけだ。
同期で入社した女性だが、万年お茶くみ係と言われている。
実際のところ大きな仕事は任されおらず、雑用ばかりさせられている。
そのことで結衣が文句を口にしたところは一度も見たことがなかった。
他の社員であれば、性別関係なく、上司に訴えるか、辞表を代行サービスで叩きつけていることだろう。
結衣自身にまったくスキルがないわけではないのだから、普通だったらプライドが傷つけられるだろう。
「柏木さん、ちょっと話せる?」
悠斗は尋ねた。
「ええ、全員分、お茶は配り終わりました。
会議前ですから、そろそろ一息ついていも大丈夫だと。
話しづらいなら場所を変えますか?」
結衣は尋ねた。
オーバル型のフレームの奥の瞳はいつものように穏やかだ。
比較的自由は恰好が許される職場だったから、女性は華やかな服を着ていたり、メイクをしていたり、髪だって長めでクルクルとしている。
妹がよくしている格好に似ていた。
が、柏木結衣は『事務員です』というようなテンプレ的な格好をしている。
だから『悠斗とお似合いだとくっつきないよ』とからかわれる対象になっていた。
「じゃあ、ちょっと休憩室で」
悠斗は提案した。
「わかりました」
結衣は静かに頷いた。
◇◆◇◆◇
空調が効きすぎて、少し乾燥している休憩室。
淹れてもらったブラックのコーヒーを飲む。
何度、飲んでも、その日の悠斗好みだった。
お茶くみの腰掛け組かもしれないけど、相手はいない、と言われる柏木結衣だが、上司や既婚の先輩たちからはめちゃくちゃ可愛がられている。
何故なら、全職員の好みのお茶を淹れられるのだ。
コーヒーも緑茶も紅茶もノンカフェインも。
しかもその日の気分にあったものが出てくる。
結衣の方も現状の仕事に不満があるわけではないらしいので、お茶くみなどの雑用に回っている。
何かの折に『お給料が変わらないのだったら、自分の得意分野の方がいい』と言っていた。
なので、お見合いとか紹介とかで、あっという間に寿退社をしてくれそうだった。
しかも上方婚というのか、婚活中の女性が憧れそうなスペックの男性と。
「かなりプライベートな話になるんだけどいい?」
悠斗は尋ねた。
「大丈夫ですよ」
結衣は安心させるように柔らかく微笑む。
「女の子が、カップうどんを食べたくなる時ってどんな時?」
思い切って悠斗は訊いた。
例のCMを見てからずっと気になっていたことだった。
それもネットで情報を追いかけるぐらいに。
結衣はしばらく考えて
「贅沢をしたい時ですね」
と答えた。
「え?
ご飯を作りたくない時や疲れた時じゃなくて?」
意外過ぎる返答に悠斗は驚いた。
自分だったら、そうだと思い込んでいた。
なにせお湯を注ぐだけで出来上がるのだ。
しかも5分後には、熱々のうどんが食べられる。
「退社した後に、外食をして帰ることもできます。
家までの間に女性が一人で入ってもおかしくない店が何件もあります。
あるいは家に一番近いコンビニでお弁当を買って温めてもらえばいいだけです。
帰宅してからカップうどんを食べるのはひと手間ですね」
結衣はナチュラルに言った。
「もしや件のCMですか?
話題になっていますよね。
わざわざ帰宅して、部屋着に着替えて、化粧を落とす。
化粧を落とした後は基礎化粧などをして保湿しなければなりません。
男性にとっては理解しがたいとは思いますが、かなり面倒です。
今は便利な冷食もあります。
電子レンジに入れればいいだけです」
結衣は言った。
「女の子って大変なんだね」
悠斗は相槌を打った。
「スーパーでは冷凍うどんも売っています。
あらかじめ片手鍋に麺つゆを入れて、沸騰したら冷凍うどんを入れるだけです。
トッピングも冷凍庫にいくらでもストックできます。
そちらの方が短時間でできて、美味しいです。
カップうどんの利点は使った鍋やよそった器を洗わずにゴミとして捨てられるというだけです。
電気ケトルでお湯を沸かして、カップうどんに注ぐ。
そこから5分も待たなければいけません。
しかも、うどんは片手で食べられるわけではありませんから、他のジャンクフードの菓子パンやサンドイッチと違い、効率が悪いですね」
普段から自炊をしているのだろう結衣はテキパキと答える。
これだけしっかりしていて、気配りができて、浪費癖のない家庭的な女の子なら良縁が大量に舞い込んできそうだ。
自分とは段違いの同期だと悠斗は再確認した。
しかも二目と見られないほどのブスというわけではない。
遊びだったり、自慢して連れて歩くなら、派手目な美人も悪くないんだろうけど、一生に一度の大博打と考えているのなら、中身や価値観の近さの方が大切だ。
「メーカー希望小売価格は250円以上ですよね。
スーパーに行けば特価商品として安くなることも多いですが。
パン屋さんで贅沢な食パンが一斤買えますよ。
4枚切りなどに厚めに切ってもらってトーストしてバターを塗った方が幸福度は高いです。
トースターがなくても魚焼きグリルでも焼けますから」
結衣は柔らかく言う。
パン屋さんのパンなんてどれぐらい食べていないだろうか。
実家暮らしの時でも4枚切りのパンのトーストなんて出てこなかった。
ボリュームがあると噂のコーヒーショップのトーストよりも美味しそうに響いて聞こえた。
コーヒーを飲んだばかりなのに、想像してしまい、お腹が空いてきた。
「確かにカップうどんにお湯を注いで、キッチンタイマーをかけて、蓋をぺりぺりとはがす快感は分かります。
湯気がふわっと出て、いい香りが匂いますし、待った時間だけの期待度も上がりますから、より美味しく感じます。
夜遅くにジャンクフードを食べる。
ダイエットや肌の敵だとわかりながら。
その背徳感は値段ではつけられません」
「柏木さんでも食べるの?」
悠斗は質問をした。
てっきり健康志向だと今までの会話で思い込んでいた。
自炊をするぐらいなのだから、食べない、と。
「最初に言ったように、贅沢したい時に、一人で。
ドキドキして、ワクワクしますよ。
特別な日にしか食べません」
結衣ははにかむ。
250円の贅沢。
特別な夜にしてはずいぶんと低コストだ。
「可愛いね」
悠斗は思ったことを口にした。
覆水盆に返らず、だっけ。
思いっきり口を滑らした。
ハラスメントに引っかかりそうだ。
「あ、ありがとうございます。
可愛げのない性格だとよく言われるので。
……堅物すぎて、四角四面で、融通が利かないと。
同い年の男性からは煙たがれているので、そう言っていただけて社交辞令でも嬉しかったです」
結衣は視線を床に落として言った。
うつむく姿は男女の性差があるせいか、小さく見えて、本当に可愛かった。
守ってあげたい、と悠斗ですら考えちゃうぐらいで。
これは上司や既婚の先輩とか、余裕のある大人から受けがいいのは当然すぎだろう。
「かなりプライベートなことを訊いてゴメンね。
オレ、こういうの話せる女の子の知り合いがいなくって。
どんな気分なのか、ずっと気になっちゃって」
悠斗は白状をした。
「少し過激な反応をする女性も多いですね。
私個人としては、同じCMの男性バージョンの方が気になったのですが……誰も話題にしていなくて、伊藤さんだったらあのようなシチュエーションで食べるカップそばに憧れるのですか?」
結衣は顔を上げた。
銀縁のフレームの奥の瞳は真剣だった。
「残業代が出るなら!
あるいは自分で担当した案件で大失敗したら、泣きながらリカバリーする」
悠斗は断言した。
「伊藤さんは、やっぱり責任感が強くて、仕事熱心なんですね。
私も見習いたいです」
結衣は穏やかに微笑んだ。
「いや、そんなことないよ。
言われたことしか、まだできていないし。
自分から率先して仕事を取ってくるとかできるほど意欲的じゃないし」
悠斗は自嘲気味に笑った。
出世していく同期たちの背中を眺めているだけだ。
あるいはスキルアップして、もっと良い職場に転職していくのも珍しくない。
一生、働ける会社なんて少数だと理解している。
「自分のできることも理解して、最大限に努力しているのが凄いと思います。
誰かは……少なくとも、私だけかもしれませんが、その姿勢を知っている人間が一人はいるのですから、正当に評価されるでしょう」
結衣は真摯に言った。
全肯定された気分になって、悠斗の心臓は自然に早くなる。
「ありがとう」
悠斗は緊張しながら言った。
喉がカラカラとしていて引きつっている。
柏木結衣は、本気で惚れたらヤバい高嶺の花だ。
自分なんかじゃ、振られるのがわかっているぐらい優良物件だ。
同期の同僚としての社交辞令を真に受けるなんてどうかしている。
だというのに、ストッパーが効くはずもない。
勘違いから始まる片思いになりそうだった。