#06.I open the window.
朝、起きる。カーテンを開く。カーテンは白のオーガンジーだ。緑の刺繍糸で仕事の合間に“風”を縫いとめた。窓を開けば、今日の朝の空気が部屋を巡回する。
いつでも窓を開く準備は出来ていて、誰もが窓を開く力を持っている。
それは幸せなことだ。
と、私はつい最近まで知らなかった。
内と外を隔ている窓を開くのは、自分だけの力だということも知らなかった。
誰が来て、窓を開くことを願っていたのだ。それはとても虫の良い考えで、無意識だからこそ恐ろしいのだ。
目を逸らしても世界は変わらない。耳を塞いでも世界は変わらない。
だから、私は口を開く。息を吸う。朝を知り、その空気を体に取り込む。
今日も朝が来て、私はカーテンを開く。窓を開け、外を知る。
それから、部屋の片隅にあるパソコンの電源ボタンを押す。
静かな機械音を聴きながら、冷蔵庫を開いて、紙パックを取り出す。抹茶味の豆乳にストローを差し込む。プツンッとかすかな手ごたえと共に、ストローはパックに吸いこまれていく。
私はストローをくわえながら、モニターの電源を入れる。いつくつかのプロセスを経て、私の世界は、全世界につながる。
0と1。あるいは光。
そんな目には見えないもので、つながる。
これも、もう一つの窓だ。
引力に逆らった抹茶味の豆乳を味わいながら、私はもう一人の私に成り代わるために、電子の世界に身を投じる。
すぐさまメッセージがチャットとして飛んでくる。
『おはよ(^o^)/』
私はキーボードを打つ。
モニターの向こうには人がいて、リアルタイムでつながっている。が、その顔を知らない。それが普通の範疇に入っていて、自然なことだということに、たまに違和感を覚える。
『おはよう』
電子の世界の私はロールしていない。
何故なら、現実世界の私――《shi》がすでに演じられているモノだからだ。
ロールにロールを重ねたら一周してきて、本来の「私」になってしまう。
『今日は――と一緒じゃないんだね(・・?』
モニターの中で、0と1で構成された虚像が首を傾げる。
私はモニターとキーボードの間を見つめる。
『――は黄昏にならないと出てこない』
現実を生きている《黄昏》は忙しい。遊びの一環として、インターネットがあり、オンラインゲームがあるが、それは私に無理に合わせているだけだ。
私が生きていることを確認するために《黄昏》はインターネットに接続して、オンラインゲームにログインする。そこに私の痕跡を探して、黙って《黄昏》は去っていく。
付き合いの良さから言えば《グングニル》のほうが上だろう。
《黄昏》は《shi》も《グングニル》も、持ち得ないモノを手にしている。
だから、彼は彼の人生を歩き、彼は彼の窓を開いている。
『へーそうなんだ。残念(>_<)』
十代の少女のアバターをまとった人物は、“がっかり”のエモーションをする。
目の前の虚像を操る人間が十代の少女である保証はない。それが、この“窓”を開いた先の世界なのだ。
『しぃちゃんは暇?』
『いや、これから用事がある』
『そっかぁ。じゃあ、またね(^o^)/』
『お疲れ』
私はキーボードで入力すると、ログアウトする。
抹茶味の豆乳は空っぽになっていた。朝食は終わりだ。
テーブルの上に置き去りにしてあった携帯電話が音楽を奏でる。一昔前の流行歌は私を呼ぶように、鳴り続ける。
メールだろうか。
しばらく放置したが、携帯電話は鳴り止まない。用事がある人物がいるのだろう。留守電につながるように設定しておけば良かった。と後悔しながら、私は携帯電話に手を伸ばした。
機械である携帯電話は冷たかった。
サブディスプレイに、電話をかけてきた人物の名前が0と1で構成された文字で点灯する。
私は鳴り続ける携帯電話を握りしめる。
いつまでも鳴る。
一昔前の流行歌は懐かしいというよりも、珍しいといった印象が強い。わずらわしいはずの電子音を聞きながら、私はモニターから離れて、カーテンに近づく。
今日も空は空のままで、好き勝手な天気を広げていた。
ふっつりと携帯電話が鳴り止んだ。
やがて鍵が開く音が聞えてきた。玄関のドアが開く。身長が高いから一歩が長い。だから足音に間が空き、重い。フローリングの床が振動を伝える。
「おはよう。
で、電話になんで出なかったんだ?」
声が頭の天辺よりも高いところから降ってきた。
《黄昏》は私よりも背が高いのだから、当然なのだが……あまり気分の良いものではない。
「おはよう」
私は言った。
「答えは?」
「電話は好きではない」
私は振り返った。
これから出勤するのだろう。《黄昏》はスーツを着ていた。部屋着のまま己とは、生きていく世界が違うのだ。ということを再確認する。
「ゲームをしていたのか?」
《黄昏》はモニターを一瞥した。画面に映っているのはいくつかのアイコンと壁紙だ。
「すぐにログアウトした」
開ける窓はいくつもあるが、その窓が満足できるものかどうかはわからない。
足音が私の横を通り過ぎて窓を閉める。カーテンがかすかに揺れる。白い生地に緑の糸で刺繍したカーテンが揺れる。
緑は風の色だ。変化をもたらすものだ。
「まだ熱が下がっていないんだろう? 横になっていろよ」
「飽きた」
私は正直に答えた。
横になっていると、そのまま死体になってしまいそうな気がする。それは私の妄想で、人間は簡単に死んだりはしないのだけれども、やはり天井ばかりを眺めていると、とりとめもない考えが去来するのを止められない。
何かをしていないと気がまぎれないのだ。
「そんなに病院が好きなのか?」
《黄昏》は入院をほのめかす。
「寝るのは嫌いではない」
私はパソコンの電源を落として、モニターも消す。
《黄昏》の視線を感じる。疑問があるのだろう。
「だた……寝る直前に思うことがある」
携帯電話を手に、私は布団に向かう。
「次はいつ目が覚めるのか。
それを考える」
だから私は眠るのが好きではない、ともいえるのかもしれない。
人間は未知のものに恐怖を感じるものなのだ。
《黄昏》と目線が会う。
呆然と同情が混じったような、奇妙な色が浮かんでいた。
どうやら、また私は常識の範疇を飛び越えた答えを出してしまったようだ。
「おやすみなさい」
私は魔法の言葉を使う。
「ああ。夜に、また寄る。
欲しい物があるなら」
「後でメールする」
「そうか。
じゃあ、しっかり寝ておけよ」
ためいきを一つついて《黄昏》は部屋を出て行く。
足音は遠ざかっていき、やがて鍵が閉まる音がした。
私は、また小さな私の世界を手に入れたのだった。
孤独で……終わらない時間の世界を。
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