魔族ED


 膨大な時間の中にいた。
 元より魔族なのだから、時間を数えるのは無駄だとはわかっていた。
 生まれ落ちての年数が少なかったせいか、ついつい数えていた。
 混族のように祝ってくれるものもいない、というのに。
 きっと情が移ってしまったのだろう。
 一瞬、すれ違っただけの少女に。
 古い言葉で光と名付けれられた、少年らしく振る舞う少女に。
 鍵と同化したからシノノメは識っている。
 立ち去った神が創られた最後の希望だ。
 世界がいがみ合うことなく調和するために産み落とされたこの世界の希望だった。
 永遠の眠りの中にいるはずだった。
 それなのに、耳は羽の音を拾った。
 天族が好むような鳥の羽の音だ。
 この幻界では珍しい音だった。
 神と似た姿の天族は誇りが高かった。
 自分とは違う姿を持つものを塵芥のような瞳で見ていた。
 昼のように鮮やかな色で。
 魔族は持ちえない色の瞳で。
 シノノメは目を開いた。
 世界は希望に溢れた光をしていた。
「ごきげんよう」
 天族の妙齢の乙女は笑っていた。
 最初に出会った時とは違う。
 最後に目にした時とは違う。
 髪の色も、瞳の色も、羽の色も同じだったけれども。
 神のような色を帯びた乙女は真っ白で華やかなドレスを身にまとっていた。
「……アーシェン」
 シノノメはかつての旧敵手の名を呼んだ。
 あるいは、気まぐれかもしれないが助けてくれた相手の名を呼んだ。
「そろそろ目覚める頃だと思って。
 思い出話をしにきたのよ」
 アーシェンは横たわっていたシノノメの隣に、腰を下ろす。
「もちろん、間抜けの魔族を笑うためでしてよ」
 白い指がシノノメの黒髪をかきあげる。
「綺麗な右目ね」
 アーシェンは言った。
「だから神に利用されたんだろうな」
 負傷した右目は天族や混族にしか持ちえない色に、徐々に変わっていった。
 深い紫色の左目と同色だったはずの色は、鮮やかな空色になった。
「間抜けね」
 アーシェンは笑う。
 それから、幻界の空を見上げる。
 雲一つない青空だった。
 きっと天族が見続けたセレスティアルガーデンの空は、こんな色だったのだろう。
 アイスゲハナとは違う。
 氷の地獄と呼ばれた場所ではない。
「尻尾の長いお嬢さんは死んだの」
 アーシェンはポツリと呟いた。
「ああ、識っている」
 シノノメは答えた。
 あの戦いの後、役割を果たした少女は、重たい『運命』から解放された。
 すべての記憶を忘れ去り、混族の普通の少女として、それなりの幸福の中で暮らしていたはずだ。
 天族や魔族とは違い、混族ゆえに短い生命だったが、それが不幸せだとは思えなかった。
「もう何もなくなっちゃったわ。
 嫌になるぐらいの寿命ね。
 気楽な時代は終わったのよ。
 誰かさんが眠りこんでくれたおかげでね」
 アーシェンは言う。
「それは悪かったな」
 シノノメは苦笑する。
 世界を破綻させないために鍵を抱きかかえてシノノメが眠っている間に、アーシェンは神の代わりに世界を治めるはめになったのだ。
 あの誇り高い天族が、魔族や混族の3つの種族をまとめることになった。
 当然ついてまわったであろう同族からの侮蔑を感じながら、天王の最も傍にいた、鍵の秘密に2度もふれた、そんな理由でアーシェンは任されてしまったのだ。
「でも、俺が目覚めたのだから、もう仕事はおしまいだろう?」
 シノノメは上体を起こした。
 相も変わらずアーシェンは空を見上げていた。
「禁断の恋のお誘いにきたのよ」
 アーシェンは言った。
「これは、また笑えない冗談だな」
「あら神と同化したのだから、ちょうど良くなくって?」
 アーシェンはシノノメを見た。
 真っ直ぐと見つめてきた瞳の色は、鮮やかな色だった。
「ずいぶんと計算高い、ことで。
 確かに共同統治するなら都合が良いだろうが。
 反発も減るだろう。
 だからといって、そこまで自己犠牲するものか?」
 シノノメは尋ねた。
 自分よりも遥かに長生きをしているはずの天族の乙女を見る。
 神は自分に似た生き物を創った。それが天族だという。
 幻界に伝わる創世神話の一部だ。
 だからこそ天族は神に忠実であろうとするのかもしれない。
「混族はともかくして、魔族が厄介ですのよ。
 あなたは一応、魔王の血筋でしょう?
 象徴には、ちょうど良いでしょう?」
 アーシェンは言った。
「そんな理由で、恋をするものなのか?」
 シノノメは不思議に思った。
 魔族は後継を得るのに血筋に縛られることはなかった。
 あくまでも実力主義だった。
 たまたま第二騎士団長に選ばれたものの、魔族の中では変わり者扱いされていた。
 シノノメにとって、恋とは疎遠な感情だった。
 ましてや天族や魔族は性すら自由に変えられるのだ。
 混族のように恋をする、という習慣が薄かった。
「試してみなければわからなくてよ?
 それとも私は魅力的ではないかしら?
 せっかく混族のように花嫁衣裳をまとってきたのに」
 アーシェンはドレスの裾をつまむ。
「綺麗だと思うし、よく似合うと思うが」
 シノノメは言った。
「あら、お上手ね。
 魔族にも社交辞令が言えたのね。
 皆が褒めてくださるのよ。
 こんな外見をしているから。
 素敵で、可愛らしいでしょう?」
 アーシェンは鈴を鳴らしたような声で笑う。
 種族の差か、それとも生きた年数の違いなのか。
 シノノメには、乙女の姿を保ったままのアーシェンの考え方がわからなかった。
「社交辞令を言えるほど器用ではない、と知っていると思っていたが。
 それで本題は?」
 シノノメは言語遊戯に付き合いきれずに、先を促した。
「思い出話をしたくなったのよ。
 あれは誰にも言えない秘密でしょ。
 あなたとだったら話せるじゃない。
 それなら結婚してしまえば楽だと判断したのよ。
 夫婦の閨まで聞き耳を立ててるような無粋な愚かものはいないでしょう?
 不浄のものは焼き払ってしまえばいいのだから」
 相も変わらずにアーシェンは果敢らしい。
「それに尻尾の長いお嬢さんのように可愛らしい子が産まれるかしら?
 それともあなたみたいな綺麗な目の色の子が産まれるかしら?」
 アーシェンは楽し気に言う。
「気持ち悪いと思わないのか?
 不浄なものなのだろう?」
 シノノメはいぶかしがる。
「あら、せっかくあなたの子を産んであげるって譲歩したのに。
 それとも、あなたは女性体の方が気に入っているの?」
「……考えたことはなかったな。
 性を変えてまでも、恋をするような相手はいなかった。
 それに子どもが欲しくなるほどの年をとっていなかった」
 シノノメは言った。
「本当に間抜けなのですわね。
 その調子じゃ、魔界でも誘惑されても気がつかなかったでしょうに。
 戦嫌いの第二騎士団長殿。
 実力主義で、そこまで登りつめたのだから、才覚は充分。
 無自覚なのは、お子さますぎたのね」
 アーシェンの白い細い指がシノノメの黒髪を梳く。
「一応、女性からプロポーズしたのだから恥をかかせないでいてくださる?」
「子ども相手に?
 それに俺の意思は尊重されないのか?」
 シノノメは苦笑いをした。
「勝算のない勝負は嫌いですのよ。
 『運命』なんて素敵な言葉だと思いませんこと?
 神がお創りになられなかった唯一の生命を産みだしたらきっと素晴らしいわ。
 それを自分の肉体でできるなんて」
 アーシェンは夢見るような眼差しで言う。
「よくわからない感覚だな」
「物語のようにめでたしめでたしで終わらせましょう。
 ちゃんと終幕をさせなければ、神もお嘆きになられるわ。
 天族と魔族は協力し合い、混族を産み落とした。
 神がいらっしゃらなくても世界は一つになり、平和になった。
 誰の目から見ても幸福な結婚生活を送りましょう」
 アーシェンは微笑みながら語る。
 思いっきりシノノメの意思を無視しての提案だった。
 世界を識ったものの『運命』か。
 それとも神と同化したものの『運命』か。
 断ったら、天族の乙女は間違いなく殺しにかかってくるだろう。
 それが神殺しにあたる行為であっても。
「じゃあ、年長者らしく子どもの俺を恋に堕としてくれ」
 シノノメは答えた。
「やりがいのありそうなお話ですわね。
 とりあえずあなたが起きたことを皆に知らせなくてわ。
 これでしばらく魔族は黙っていてくれそうだわ。
 さあ、行きましょう」
 アーシェンは立ち上がる。
 シノノメも、また立ち上がった。
 好みの外見なのか、相変わらずアーシェンはシノノメの肩ほどの背丈だった。
「こういう時は手を貸してくださるものですのよ」
 アーシェンはシノノメを見上げる。
「ご自慢の羽で飛んでいかないのか?」
 シノノメは尋ねる。
「あら、そうしたら口説く時間が減るでしょう?」
 アーシェンは当たり前のように言った。
 シノノメは根負けして、手を差し出した。
 天族の乙女はそれにそっと重ねる。
 槍を握って、戦っていたはずなのに、繊細で華奢な手だった。
「どうかいたしまして?」
「いや、守らなければいけない、と思うような作りをしているんだな」
 シノノメは感心したように言った。
「本当に子どもですわね。
 これを無自覚にしていたら、性質が悪いですわね。
 それだけ見目麗しい姿をしているのですから、さぞや同族を泣かしてきたでしょうに」
 アーシェンはためいきをついた。
「天族の目から見ても美しいと見えるのか?
 むしろアーシェンの方が花のように愛らしい姿だと思うのだが」
 シノノメは華奢な手を握りつぶさないように気をつけながら、歩き出した。
 並ぶようにアーシェンも歩く。
 まるで羽を持たない混族のように。
 あるいは飛ぶことが不自由な混族のように。
「本気ですの?」
 鮮やかな瞳がなじるように見つめてくる。
「魔界では決して咲かない花のように美しいと思う」
 神に似た姿を持つ天族は、魔族にとって嫌悪するほどの憧れの存在だった。
 アイスゲヘナと呼ばれた地の底で、生きていかなければいけなかったから遠い存在だった。
「率直すぎるのも困りものですわね。
 そこまでストレートに褒められると気恥ずかしくなるってご存じかしら?」
 アーシェンは言った。
「事実を言っただけだ。
 皆が褒めてくれるのだろう?
 褒められ慣れているのではなかったのか?」
 シノノメは疑問に思ったことを尋ねる。
「社交辞令と素直な言葉は重みが違いますのよ」
「不愉快なのか?」
「帰ったら乙女心の本を貸して差し上げますわ。
 もう少しお勉強をしていただきますから。
 この調子では、私だけが振り回されそうですもの。
 マルガレーテに笑われそうですわ」
 アーシェンは深くためいきをついた。
「まだ、あの天族の娘がいるのか」
 散々、天族らしく高圧に絡まれたことを思い出してシノノメはげんなりとした。
 戻ったら、すぐさまに嫌味を言われるだろう。
「ええ優秀な子ですから。
 だいぶ性格も丸くなってきたから、言葉遣いも良くなったのですよ。
 昔のように、私の補佐をしてくれています」
 アーシェンは言うが、シノノメには楽観視ができなかった。
「魔族の方からもちゃんと補佐官を見つけてくださいね。
 共同統治をすると決まったら、最初の仕事になるでしょうから」
 アーシェンは忠告する。
「わかった」
 シノノメはうなずいた。
 だいぶ時間が経過しているから、顔馴染みは生きているのだろうか。
 問題が山積しているような気がしてくる。
 それでも折れざるを得ないのは恋なのだろうか。
 馴染みのない感情だった。
 これから先の未来は、まだ見えない。
 最後の希望が立ち去った世界だ。