星が降った世界で
グランミリオンの辺境の森。
知識の女神の腕に抱かれるように、“伝承”と“詩”の一族の集落がひっそりと存在していた。
大地に蒔かれた伝承という名の種子を集め、詩として育てる。
それを自らに課せられた使命だと信じた一族は、グランミリオン大陸を出てグランドリン大陸中に散った。
種子を抱えたまま他の大地に根づく者もいれば、詩を咲かせて還らぬ者もいた。あるいは、そうした生き方に疑問を抱き、一族から離れていく者もいた。
一族が暮らす豊かな森は年々、寂しくなっていった。
そのような緩い滅びの中、少女は生まれ育った。
村の中でも使う者が減った古代文字に興味を覚え、「ヴィアロの魔導書」だけではなく、一族に古くから伝わる「呪歌」をも学んだ。
決して才能豊かとはいえない少女ではあったが、その努力は詩の女神にも届いたようだった。
人の齢で数えるのなら、17、8の頃。少女は鈴歌草で染めた青い衣と黄金の羽飾りを許され、葉《フロネス》の名を授けられた。
サフィエラフロネス
“伝承”と“詩”の一族の詩人。
あるいは、古代文字作家。
彼女が新たに生み出した古代文字の数は、歴代の詩人を凌駕する。
† † †
百年という歳月は一睡の夢に等しく。
時がひどくゆったりと流れている森の底に、その村はあった。
故郷は、サフィエラが旅立ったときと変わらない姿で佇んでいた。
梢を鳴らして渡る風の音も、さらさらと零れる日差しに照らされた家々にも、変化が見つけられない。
サフィエラは集落で最も大きな家に足を向けた。
その家の入り口には扉の代わりに垂れ幕がかけられている。
厚みのある生地に施された刺繍が鮮やかに綴るのは、読める者も少なくなった古代文字。百年前の英雄譚が生き生きと縫い取られている。
サフィエラは垂れ幕をくぐりながら、声をかける。
「ただいま帰りました」
室内は薄暗くひんやりとしていた。
この部屋では時間すら微睡んでいるように思える。
「お帰り、青玉の娘《サフィエラ》」
火の消えた囲炉裏端に彫像のように座っていた一族の長老が口を開いた。
「さあ、お座り。
外の世界の話を聞かせておくれ」
長老は席を勧める。
少女は入り口近くの座布団に腰を下ろした。
古くなった衣を解いて細く綯った円形の座布団は詩人のためのもので、サフィエラはいまだに座り慣れない。
カタンッ。
腰飾りが床にぶつかって音を立てた。
サフィエラは慌てて、鳥の意匠の金飾りを拾い、膝の上に乗せた。
「悪いドラゴンは見つかったかい?」
長老は穏やかに尋ねた。
「いいえ。赤い鱗のドラゴンは思慮深く、温情豊かで、勇壮だった」
昔むかしに耳を澄ませた物語。
片手に乗るサイズの魔法のランタンに照らされた夜。
ガラスの中では、灯の代わりにオウギの花が踊っていた。
「勇敢な騎士は見つかったかい?」
「青の騎士はとても忠義篤く、気高く……そして、悲しい宿命を抱えていた」
サフィエラは言った。
いくつもの伝承を話してくれた人は、今は遠く。
声ははっきりと覚えているのに、瞼を閉じて結んだ像は朧。
「海の宮で暮らした娘は見つかったかい?」
「海に浮かぶ小さな国は、楽園のように美しかったというわ。でも、もうその大地は焼け野原」
心弾ませて聞いた話の続きは、薬酒のように苦い結末。
そんなものを望んだことはなかったのに。
「櫛を失くしたお姫さまは見つかったかい?」
「騎士を失くしたお姫さまは氷の涙を流したそうよ」
誰かが紡いだ物語。真実を写した鏡は悲しい。
くりかえし胸の内で問う。
それは定められた運命だったのだろうか、と。
寄せては返す波の音。
繰言になるから訊いてはならない問い。
答えてくれる優しい人は、傍にいないのだから。
「サフィエラ。
お前はどこまで行ってきたんだい?」
長老は訊いた。
「約束どおり、グランミリオンから出ていないわ。
星の灯台でたくさんの話を聴いたの」
短くも長い旅だった。
故郷に帰ってきても、なお想う。
自分ができたこと。自分にはできなかったこと。
「たくさんの詩を聴けたかい?」
「ええ、たくさんの鎮魂歌を聴いたわ。
たくさんの願いと祈りを聴いたの」
歌われた数だけ悲劇があった。
歌い手の数だけ祈りがあった。
形に残らないからこそ、歌は聴くものの胸を打つ。
悲鳴も、嘆きも、慟哭も。風に乗り、心の扉を叩く。
「そうかい。
どれだけ悲しくたって忘れてはいけないよ。
我らは“伝承”と“詩”の一族。種子を芽吹かせ、花を咲かせる。
葉《フロネス》と名乗る限り、それは務めだ」
長老は言った。
「……はい」
「長旅で疲れているだろう。
ゆっくりとお休み。
お前が見聞きし、育て上げた“詩”は枯れたりはしないのだから」
「ありがとうございます」
サフィエラは頭を垂れた。
左耳で揺れる耳飾が、妙に重く感じられた。
† † †
そよと吹く風に合わせて、鈴歌草がベルを鳴らす。
金色の輪唱が心を振るわせるのなら、花弁の青い縁取りは詩人を思い起こさせる。
「空よりも……蒼き弓、よりも深き。……伏した弓よりも深き、藍、あいの色」
言葉が上手く紡げない。音に乗せる方法もわからない。
少女はためいきをつく。
情景を詠むことすらできなくなっている。
抱えた膝の上に頭を乗せる。頬にふれる感触は柔らかく、良い香りがした。
大きな花の刺繍があるエプロンは、耐久度優先の詩人の肩掛けとは違う。
左耳で揺れた耳飾だけが違和を伝えるように重い。
「碧樹の森の鈴唱……揺らく」
「“風の鈴歌よりも幽しは君の笑顔”
おかえりサフィエラ」
声はすぐ近くでした。
「師匠!」
少女は顔を上げ、立ち上がる。
鈴歌草染めの青衣をまとった赤髪の青年は微笑を浮かべていた。
陽光の下にあっても淡く光る耳飾は、サフィエラとは反対側の耳で揺れている。
「外は楽しかったかな?」
花を除けながら歩いてきたルベルフォーリムが質問した。
「おかえりは師匠のほうです!
どこへ行っていたんですか!?」
師匠兼幼なじみの旅は長い。一度、飛び出すとなかなか帰ってこない。
グランミリオン大陸の伝承と詩を集めるのだけでは物足りないのか、頻繁に他大陸に足を伸ばすのが原因だ。
サフィエラの背丈が今の半分しかなかった頃から、ちっとも変らない。
「それに、私はサフィエラじゃなくって、サフィエラフロネスです!」
少女は訂正した。
村で最年少ではあるが詩人になった今、子ども扱いされる謂れはない。
「おかえりサフィエラ」
「……」
「シオアンコーのトゲの数を数えてみたかな?」
想い出の中と変らない笑顔でルベルは尋ねる。
優しい記憶が胸に湧き上がる。
不思議に溢れた外の世界の話を毎夜、せがんで聴いた。
詩人になりたくて聴いていたのか。聴いていたから詩人になったのか。
どちらが先か、曖昧になるほど遠く、砂糖菓子よりも甘い時間を思い出す。
「そんな御伽噺を信じるほど、子どもじゃありません」
サフィエラは言った。
「涙の数なんて、数えられるものじゃない。
浜に寄せる波の数を数えられないように」
星の灯台で聴いたものと同じ声が親しみ深く言う。
訊いてはいけない問いが喉にせりあがってくる。
神さまはどうしてこんなに哀しい運命を記したのか、と。
変えることのできない道だったのか、と。
「“悲しみは満ち満ちて。盈月を溢れだす”ってね。
そら、涙は真珠《しらたま》のごとく」
ルベルの手の甲が少女の頬をなでる。
「おかえりサフィエラ。
ここは鈴歌草しかいない。
葉《フロネス》なんて、名前は忘れてしまっていいんだよ」
ルベルは言った。
「……だっ……て!
私は! 怪我もしなかったし、大切なものを失ったりはしなかった!
だから!!」
私は神の恵みを受けて幸福だった。
少女は青年を見上げる。
自分の耳飾と対のそれが視界の端で揺れる。
対になる物は呼び合い、惹かれあう。その性質を利用した魔法道具。
どこに居ても、どんな気持ちのときでも、独りではない証だった。
「サフィエラ。
英雄譚《バラッド》は歌えそうかな?」
青年の残酷な問いかけに、少女は目を見開く。
目じりから頬へ雫が伝うのがはっきりとわかった。
「たくさんの英雄を見たの。聴いたの。
でも、みんな……哀しかった!
どうして? みんな、……みんな、生きていたかっただけなのに!」
争い続く不完全な世界に星が落ちてきた。
青い青い星の欠片は雨のように、大地を覆いつくした。
大地の上に生きていたものたちは……戦った。
生命の焔は空に輝く星のように煌いた。
それは瞬き。刹那の輝き。
……星の欠片も、人々も、ただ生きていたかっただけなのに。
「私、……詩人じゃない。
だって、歌えない」
生命の焔を見たのに、聴いたのに、それを歌えない。それを遺せない。
言の葉を綴るようにとフロネスの名を授けられたというのに、誰にも伝えられない。
「ここにいるのは、サフィエラフロネスじゃない。
ただのサフィエラ。
それでいい」
ルベルの手がサフィエラの頬を撫で、左の耳朶にふれ、髪を梳く。
幼なじみの仕草は、詩人の旅は常に独りきりだと初めて知った夜と同じ。
どこまでも優しい。
「おかえりサフィエラ」
穏やかな声がくりかえす。
「……ただいま、お兄ちゃん」
サフィエラはルベルの胸に額を押しつけた。
幼子をあやすように温かな手が、少女の背中を撫でる。
幸福なはずなのに、涙が止まらなかった。
伝承を集めるのは悲しくはない。それは時間が悲しみを濯ぎ落としてしまっているから。
詩を集めるのは悲しくはない。それは己の身から引き裂かれるように溢れでるものではないから。
けれども、自分の言葉で紡ぎ歌うことは……辛い。
どんな言葉にも置き換えられない感情が喉を締めつける。
砕け散った生命を思うと、痛いほど悲しかった――。
† † †
時代は歌う、英雄譚《バラッド》の刻と。
落ちてきた星は、災悪か、それとも幸福か。
動乱で鳴き続けた大地の主たちは手に手を携えた。
武器を取り、知恵を絞り、戦った。
奪われた生命を考えれば災悪であっただろう。
大陸間の啀みあいが鎮火したのは幸福であっただろう。
明確な敵がいて、達するべき目標があった。
数多の英雄たちが生まれては消えた時代。
駆けぬけた生命たちは何を思い、何を記すか。
それは、新しい世界の担い手に委ねられた。