寝落ち通話
「陽馬くん、私にできることない?」
春が浅い頃。
紬が遠慮がちに尋ねてきた。
大きな窓から日差しが入ってきていて、丁寧にコーヒーカップを戻す姿が綺麗だった。
店内の静かなジャズのBGMにかき消えたのか。
ソーサーに戻す音が聞こえなかった。
普通だったら陶器がぶつかる音が微かにはするのに。
それぐらい紬の仕草は丁寧だった。
細い指先に続く爪には嫌味ならないピンクベージュのマネキュアが塗られている。
微かにパール感があるもののネイルと呼ばれるようなゴテゴテとした装飾はないし、凶器のような長すぎる爪でもない。
「どうしたの? 急に」
陽馬は驚く。
こうして日中にデートを誘い、一緒に出掛けられるだけでも陽馬にとってはご褒美状態だった。
「なんか、私ばかり嬉しくなっちゃうことをしてもらっているから。
ちょっとはお返しができないかなって」
紬は少し視線を落とす。
小さな体を小さくして。
「デートコースだって……男の人にとって退屈な場所だって。
お昼のデートって本当はお腹いっぱい食べたくて。
量の方が重要で、質は気にしないって。
女の子の側に合わせているんでしょ?
ラーメン屋とか、牛丼とか、よくて焼肉屋さんだって」
紬は心細そうに口にした。
陽馬にも心当たりがまったくないとはいえない案件だった。
「あー、まあ、否定はできないけど。
そういうのは間に合っているというか。
あ、誤解しないで!
他に女がいるとかじゃなくて!!
付き合っているのは紬ちゃんだけだから!」
必死になって陽馬は言った。
いくら穴場のようなカフェとはいえ、それなりにお客さんがいる。
場所に不釣り合いな大声を思わずあげてしまった。
それぐらい焦ったわけで。
「バイトが終わった後に仲間と一緒に行ったり。
先輩に連れて行ってもらって奢ってもらったりするからさ」
アルバイトが終わった後に開いている店なんて限られている。
どうしても来店する場所は偏ってくる。
深夜までや24時間営業してくれている店は助かるものの、そればかりだと飽きてくる。
ましてやバイトで肉体的に疲れていれば、コンビニ弁当が上等で、家にあるカップラーメンということにもなる。
ぶっちゃけ潤いのない食生活だ。
しかも野郎ばっかりだ。
「紬ちゃんが興味があるなら、女の子でも入りやすいとこっていうの?
ファミリー向けだったりするとこ知ってるけど?」
陽馬は提案した。
厳格なお父さんに育てられているのだから、そういった場所も紬には新鮮だろう。
女性でも入りやすい小綺麗なラーメン屋も増えてきた。
カップル向けの半個室もある。
「普段、陽馬くんが食べているものに興味はあるよ。
でも、今回はそうじゃなくって。
私にもできることがあるかなって」
紬は顔を上げて言った。
その瞳は真剣だった。
「カフェ巡りに飽きちゃった?
男一人でも入れるカフェもあるけど。
カップル同士や女の子が多い店って一人じゃ入りづらいし。
色んな店のコーヒーを飲んでみたいんだよね。
こう見えても甘党だからさ。
デザートも気になるし」
陽馬は軽く笑った。
「陽馬くんは、いつも素敵なお店を選んでくれるから嬉しい。
何回も行ったお店でも、期間限定のケーキがあってリピしちゃうし。
行く度に、コーヒーの味もちょっとずつ違うし。
まだ農園名とか、焙煎具合とかわからないけど。
その日によって違うことぐらいはわかるようになって。
好みの味もわかるようになって。
陽馬くんがこのスイーツだったら、ってコーヒーをペアリングしてくれるし。
すっごく、それが楽しいから。
私も……って」
紬は一生懸命に言う。
陽馬のコーヒー好きは、コーヒー狂いに近い。
ここまで来ると口煩いマニアだ。
それに付き合ってくれる人は本当に一握りだけ。
一杯で千円札が飛んでいくなら、流行のフラペチーノを飲みたい、という方が圧倒的に多い。
オレのカノジョ、健気すぎ。
一生懸命なところも可愛いし、きちんと気を配れるところも癒し属性すぎる。
陽馬は喜びをかみしめる。
絶対に逃したくない本命なら、男は頑張るんだけどな。
面倒なことだってする。
他の男に盗られないように牽制だってする。
もうすぐ大学四年生になるのだ。
卒論に向かって勉強も厳しくなるし、同時進行に就活だってある。
今は少子化が進んで、大学卒業=就職の形も崩れてきている。
資格をどんどん取って行ってスキルアップしていく時代だ。
一つの企業に縛られなくなったし、ブラックだと感じた瞬間、退職代行サービスを使うのも当たり前だ。
そうはいっても、この先はこうして紬にゆっくりと会える時間は絶対に激減する。
遊び歩けるのにもタイムリミットがあるのだ。
「紬ちゃんって自分専用のノーパソ持っているんだよね?
家の中にはWi-Fiもあって」
陽馬は確認する。
「うん、お父さんが仕事用にデスクトップ型のパソコンを持っているから。
光回線に入っている。
WEB会議があるらしくって。
大学に入学する前は自分の部屋でノートパソコンを使っていたら、動画を見たりして遊ぶって思われていたんだけど、自己責任になった。
当たり前だけど、勉強に使うから。
調べ物をしたり、レポートを書くのにも、タブレットよりも使いやすいし、速度も出るし」
考えながら紬は言う。
「紬ちゃんスマホを持っているし、データー通信料を気にしなくていいんだよね?
それにWi-Fi使えば、line通話とか無料になるよね?」
「う、うん。
陽馬くんと通話している時は家の使っているし。
スタンプとか文字の時はあまり気にしたことがなかったけど。
通話時間が長すぎるってお父さんにも怒られたことがないから……たぶん大丈夫」
紬はぎこちなく頷いた。
「じゃあ、今度さ。
夜更かしして大丈夫な日がある?
寝るまで紬ちゃんとしゃべっていたい」
緊張しながら陽馬は言った。
こういうのは個人差の問題だ。
嫌がる相手はとことん嫌がるのは知っている。
でも、やってみたいものはやってみたい。
紬が途惑っていることがわかって、やっぱり無理だということがわかって、陽馬は心の中でためいきをつく。
「寝落ちするのは迷惑だよね。
オレが寝たっていうか、返事しなくなったら、速攻で切っていいけど。
夜遅くは難しいよね。
寝つきは良い方だと思うけど30分ぐらいは通話することになるし。
やっぱり長いよね、ゴメン」
陽馬は謝った。
これ以上、ピュアで優しくて可愛いカノジョに負担をかけたくない。
「あ、驚いたのは、それぐらいでいいのかなって思っただけで。
嫌ってことじゃないから。
本当にそんなことでいいの?」
マスカラが塗られたまつげを瞬かせながら紬は言った。
「そんなことがいいんだよ。
お付き合いしている特権です」
堂々と陽馬は言った。
「そ、そうなんだ。
次の日に一限目が入っていない日なら、いつでも大丈夫。
私けっこう講義を取っているから、私に合わせてもらっちゃうけど」
「本当に良いの?」
「うん、大丈夫。
高校時代の友だちと話していると一時間とかもあるし。
お母さんは、それに笑っているぐらいだし」
紬は微笑んだ。
どうやら陽馬がやってみたい『寝落ち通話』ができそうだった。
寝る直前まで紬の声を聴いていられるなんて幸せだった。
どれほど一緒の時間を過ごしていても、二人は所詮、カレシカノジョでしかない。
独り暮らしをしている部屋のベッドで横になれば虚しさがあった。
眠る前に紬から可愛らしいスタンプが届いても。
物理的な距離は埋められない。
「お母さんたちの時代は、無料通話なんてなかったんだって。
電話回線を使いすぎて怒らてたって。
パケットを分け合える家族プランに入っていて、一人で使い切ったとか。
『今は便利ね』って言ってる」
弾むような声で紬は言う。
紬の両親もそんなことがあったのだろうか。
厳格なお父さんからは想像がつかない結婚前の話だ。
「平成が終わる前ぐらい? とか。
オレらぐらいの年齢だと意外な感じだけど。
昔のドラマとか見ると驚く。
スマホ……携帯電話か、それのバッテリーが切れて、大騒ぎとか。
今じゃコンビニでレンタルできない方が珍しいし。
スポットもたくさんあるから、すぐに返却できるし。
フリーのWi-Fiも多いし」
陽馬にとっては信じられない時代だ。
lineを送って既読スルーならまだしも、未読スルーで鬼電がかかってくるのが当たり前だ。
事前にバイト中は出られない。
講義中はマナーモードにしている。
そう伝えていても通じないことも多々ある。
些細なすれ違いから、いじめに発生することだってある。
カレシカノジョ同士なら、壊滅的な破局になるパターンだってある。
「それぐらい不便でも会いたいとか、声を聴きたいとか、すごいパワーだよね」
陽馬は言った。
それぐらい不自由な方が自分の時間も、相手の時間も大切にできるのかもしれない。
多少の障害がある方が恋は燃え上がるし、持続するなら愛になる。
「うん。
それでもみんな恋を実らせて、結婚して、子ども産んでとか。
スゴいと思う。
純粋に尊敬しちゃう」
紬は穏やかに笑った。
できればそんな障害があっても、両親がそうだったように、陽馬も紬と同じ未来を見てみたい。
コーヒーの香りを楽しみながら、幸福に続く明日を描く。
『寝落ち通話』の約束は取り付けたのだ。
まずは第一歩。
紬との恋愛は二人らしいペースで進んでいければいい。
情報社会に取り残されたとしても、自分たちらしく。
型に嵌った消耗品のような恋愛は欲しくない。