第十話
レティシアは美しい庭園の中、慎ましやかに咲く花たちを眺める。
手紙の返事は代筆で姉のブリジットが書いてくれた。
もちろん『喜んで承諾する』という内容だった。
激動に流されているような気がする。
「本当にここの花がお好きなのですね」
優しく穏やかでいながら艶やかな声が降ってきた。
声をかけられたレティシアは驚いて、振り返る。
あいかわらず身分に不釣り合いな格好の第二王子ティデットさまが立っていた。
太陽の光を浴びても、月の神のような優美な姿は変わらない。
顔色は優れているようには見えなかったけれども。
三日も床につけば当然かもしれない。
「ご加減は?」
レティシアは尋ねた。
「パーティーを抜け出した罰として先見を散々させられたのです。
おかげさまでベッドに押しこまれましたよ。
発熱と頭痛がありましたから」
穏やかに微笑んだまま、何でもないことのようにティデットさま言う。
「今は、大丈夫なのですか?」
病魔の影を見出して、レティシアは不安になる。
「少しは残っていますが、いつものことです。
お気になさらずに。
……それよりも、お茶会に誘ったのに、こうして会っていたことが話題好きな方たちに見つかったら大変ですよ。
断る、つもりだったのでしょう?」
ティデットさまは言った。
「も、申し訳ございません」
レティシアは謝る。
ティデットさまの回復を祈った気持ちは偽りはなかった。
だが、妃候補となると別問題だった。
領民たちからすら、ネズミ姫と呼ばれるような本が好きなレティシアが望む暮らしとはかけ離れているだろう。
「こういう虫も殺せぬような線の細い外見をしていて、病がちで、本ばかりを読んでいる大人しい王子と話題ですが、実は私は狡猾なのです。
好奇心が強くて、賭け事が好きなのです」
にっこりとティデットさまは笑う。
「賭け事?」
違和感のある言葉にレティシアは小首をかしげる。
「二つある可能性があるとしたら、どちらが楽しいのか。
未来へ干渉したくなりませんか?
どこまで歪められるのか。
神がお決めになられたというのなら、どこまで変えられるのか。
ちょうど本の結末を変えるようなものです」
青緑の瞳をキラキラと輝かせて、ティデットさまは言う。
「魔法みたいですね」
レティシアは素直に感想を言った。
未来が視える、先見の力を持っていれば誘惑に駆られるのかもしれない。
「恐ろしくないのですか?」
意外そうにティデットさまは言う。
「悲劇的な最期を迎える『英雄譚』を読むとハッピーエンドにならないか、とつい空想してしまうのです」
レティシアは白状をした。
「そういう考え方もあるのですね」
ティデットさまは感心したように言う。
「子どもじみているとはわかっているのですが」
レティシアは微苦笑をした。
いい歳した大人が考えるようなことではない。
詩の中でも『英雄譚』は悲劇的なものではなくてはならない、という形式美があるのだ。
だから、家族の中ではいつまでも『可愛いレティ』のままなのだ。
「是非ともご自分の置かれている状況を考えてみると楽しいですよ」
「え?」
「先ほど、賭け事が好きだと言ったでしょう?
貴女がここに来る未来に賭けたのです。
まんまと貴女は罠に嵌まったというわけですね。
実はお手紙をいただいた時に、いくつかの可能性が視えたのです。
おおむね予想通りの未来になって楽しいところなんですよ」
ティデットさまは内緒話をするように言った。
レティシアは紅茶色の睫毛を瞬かせる。
「平穏な暮らしに戻るのなら、まだ引き返せます。
また調子を崩した、と私の方から言えばお茶会は中止になります。
よくあることだ、と周囲は思いますから。
角は立ちません。
ですが、貴女がお茶会に出席したら、父たちは乗り気になるでしょうね。
貴女の逃げ場は完全に断たれます。
まあ、修道院に逃げることもかなわなくはないでしょうが、少々困難でしょう」
ティデットさまは言う。
どこまでが本心なのだろうか。
お茶会に誘っておいて、逃げる道を示唆するなんて。
「先見ですか?」
レティシアは尋ねる。
「それほど便利な力ではありませんよ。
占いよりも確かなだけで、推理に近いです。
状況を読んで、理論を組み立てるだけです。
カードゲームみたいなものです。
揃った瞬間は楽しいものです。
では、貴女はどの可能性に賭けますか?」
ティデットさまは提案する。
「実は困っていて。
帰りたい、と思っていたはずなんですが……。
王子が倒れられたと聞いたら、心配になってしまって。
ですが、お茶会に行くほどの勇気はなく」
レティシアはうつむいてしまう。
こういう時、貴婦人は毅然と振る舞うのだろう。
あるいは姉のブリジットのように嫣然と断るのだろう。
やはり貴族の令嬢としては平均点以下だろう。
「充分なお言葉ですね。
自惚れてもよろしいでしょうか?」
艶やかな声が尋ねる。
「え?」
レティシアは顔を上げる。
「恋愛物語はお好きですか?」
「……子どもじみているとわかっているのですが、一番好きです」
レティシアは顔を赤くなるのを感じた。
乳母のマリーにすら揶揄われている事柄なのだ。
成人した貴族の令嬢が好んで読むようなものではない。
未来の婚約者を夢見るような、社交界デビューもしていない少女たちが読むような物語だ。
「では、この陰謀策略にまみれた王宮で、生命を削って国を守る哀れな王子の唯ひとりの妃になる。
献身的な愛情で持って、王子の短い生涯を支え続ける。
そんな結末はどうでしょうか?」
にこやかにティデットさまは言う。
「そ、その?」
レティシアは意味を取りかねる。
自分の置かれている立場や状況。
誰にも聞かれていない庭園で、成人した異性と二人きりで会話を交わしている。
それこそ恋愛物語に出てくるような展開だった。
「初めて会った時から口説いているつもりなのですが?
やはり兄上ほど場数を踏んでいないないから、女性の気持ちをつかむのは難しいですね。
……逃げるなら今の内ですよ。
まだ誰にもバレていませんから」
ティデットさまは、やはり二つの道を示される。
手折るつもりなら、いくらでもできるはずなのに。
拒む権利を持ち合わせている娘がいない、ことなどご存じのはずなのに。
レティシアに逃げ道を示唆するのだ。
「私が逃げたらティデットさまはどうなるのですか?」
おずおずとレティシアは尋ねる。
「貴女が嫌いな『英雄譚』のように、死ぬまで王国に飼い殺しでしょうね」
ティデットさまは、あっさりと言う。
まるで自分の生命なんて軽い、と言わんばかりに。
それがレティシアの心臓が凍りついたように恐ろしかった。
「お独りですか?」
声の震えは止まらなかった。
「王統を残すつもりはありませんから、そうなりますね。
母の出自を低いですから。
先見の力がなければ『王子』の称号を得ることはできなかったでしょう。
せいぜい傍系の王族として、暗黒の半年間に早々に殺されていたでしょうね」
ティデットさまは淡々と言う。
まるで歴史を語る教師のように。
あるいは殉教者のような瞳をして。
「そんな」
レティシアは息を飲む。
「良くあることですよ。
それに血を残したくないのは、私の意地みたいなものです。
黄金なんていりませんよ。
だから、貴女は気に病まなくてもいい」
「ですが……」
レティシアが言葉を紡ごうとした瞬間に、ティデットさまは失笑する。
乙女は紅茶色の睫毛を瞬かせる。
「私は狡猾だと言ったはずなのですが?
時間切れです。
勝負は私の勝ちのようですね」
晴れ晴れとした笑顔でティデットさまは言う。
「王子!
また、こんなところで!」
庭園に見覚えのある女官が駆けこんできた。
最初に花を見た時に、声をかけてきた麗しい女官だった。
ティデットさま付きの女官だったのだろう。
「こちらのご令嬢は?」
女官が詰問に近い形で尋ねる。
身の置き場に困り、レティシアはうつむいてしまう。
時が流れていくのをじっと待っている他、なかった。
「ひとつだけ無くなったリボンは知っていますよね?」
「もちろんですわ。
おかげさまで散々、探させられましたから。
結局、見つかっていませんが」
「差し上げた方です」
堂々とティデットさまは言う。
「ただ、まだ答えをいただいていない状態で。
どうやったら女性の心をつかむのか、考え中だったのです。
兄上ほどスマートじゃありませんからね。
参考までに、口説き文句を教えてくださいませんか?」
「あれだけ少女向けの恋愛小説を読んでいるのに、どの口が言うのですか?」
「気の遠くなるような暇つぶしですから。
現実と物語の差を痛感しているところなのです」
「では、国王陛下に頼めばよろしいではありませんか?
どうせカードゲームのように、嵌めたのでしょう?」
「それでは、心が手に入らないじゃないですか。
王族が、それも先見の力を持つ『王子』が命令すれば、正妃にするのは可能でしょう。
視た、と言えば誰も疑いません」
「事実、視たのでしょう?」
「可能性のひとつですよ。
先見はそこまで便利な力ではありません。
と、言うわけで、父上と兄上には、このことは内密に。
私の調子が優れないことにしておいてください。
では、失礼します」
「起き上がれないぐらい高熱を出して、食事もまともに摂られなかった方が何をおっしゃるのですか!
死ぬおつもりですかっ!?」
女官が遠慮なく、叱りつけた。
レティシアの鼓動を止めるには充分な発言だった。
……ティデットさまが死ぬ?
「それぐらい楽しみだったんです。
待ちきれないほどの未来だったんです。
どうせ、そう長くない人生ですからね。
損するじゃないですか。
母の歳よりも長く生きました。
想い残すことはありません。
きちんと寝室に戻るので安心してください。
こちらの令嬢はエマが送り届けてくださいね。
とても清らかな方なので、王宮にはふさわしくありません」
穏やかに言うと、足音がひとつ立ち去っていく。
ゆるゆるとレティシアは顔を上げる。
ティデットさまの後ろ姿が見えた。
ロディアーヌさまの黄金のような太陽の光を浴びても、かすまない月の神ように優美なお姿だった。
「そんなにご調子が優れないのですか?」
レティシアは、エマと呼ばれた女官に確認してしまう。
麗しい女官は表情を曇らせた。
それが雄弁な答えだった。
やはり、生命の炎が揺らめく燈芯のように消えかけるのだ。
悲劇的な最期を迎える『英雄譚』のように。
「王子の気持ちを汲んでくださるのなら、そう言うことをお尋ねしないでください。
期待してしまうでしょうから」
エマは絞り出すように言った。
「どういう意味でしょうか?」
ティデットさまはいつだってお優しかった。
きちんとレティシアに逃げ道を残してくれていたのだ。
社交界に不慣れなレティシアを手折ることなど、造作がないというのに。
出会った時から、気持ちを尊重してくれていた。
「王子が初めて先見をした未来があるのです。
ちょうどご令嬢のように菫色の瞳を持った女性と穏やかな暮らしをする、というものでした。
ゆっくりと本を読み、満天の星空の下を散策をする。
その女性のことを菫青石の姫君と呼び、出会えることを楽しみにしていました。
それだけを生きる目標にして、これまで生を繋いできたのです。
先見の代償である病魔は確実に進行しています。
国王陛下に請われれば、応じなくてはいけない。
この王国のために生命を削り続けているのです」
沈鬱な表情でエマは言った。
「……そんな」
レティシアは絶句する。
領民にすらネズミ姫と呼ばれ、地下室で本ばかりを読んでいる変わり者の姫君。
レティシアの評価だった。
それをティデットさまは、菫青石の姫君と呼び、ずっと待っていた。
神が定めた12の宝石にはない名前だから、貴石だろうか。
どんな石かはわからないけれども、きっとティデットさまにとっては大切な、きっとルビーよりも、サファイヤよりも、素晴らしいものなのだろう。
「ですが、視ていた未来が近づいてきたので気が変わったようですね。
ご自身が信じていた未来を捨ててまで、貴女の平穏な暮らしを守ろうとしているようです。
王子は無理やりにでも手に入れられる貴女を未来ごと手放さそうとしている。
……もし、少しでも、寄り添う覚悟があるなら、お受けいただけませんか?」
エマは言った。
それは懇願にも近い形だった。
レティシアの心は揺れる。
どうしていいのかわからなくなる。
ティデットさまのお言葉は、どこまで本気なのか。
エマの告げた言葉は、どこまで本物なのか。
答えをくれるような相手はいない。
ここには物を言わなぬ植物だけしかいないのだから。
王国の中でも、飛び切りの秘密に関わってしまったようだ。
きっと宰相である父ですら、知らぬことだろう。
鉛のような物を飲みこんだまま、レティシアはエマの案内で与えられた部屋に戻った。
慇懃な女官はそれ以上のことは言わなかった。
本当にレティシアの気持ちひとつで決めていいのだろう。
そして、お茶会は王子の体調不良で中止になった。
家族や乳母のマリーは喜んでくれた。