終章
長き冬の終わり。
天界で季節を数えるのは、それほど意味のある行為ではない。
けれども「この日は『春』の吉日であった」と、寒花宮の少女らは思う。
雪と氷に閉ざされた世界に『春』が来た、と感じたのだ。身の内に凝るは絶望の冷気であれど、陽光は身を焼くものであれど、紛うことなき『春』だと少女らは信じた。
寒花宮から娘を送り出す。
風香公主以来のことであったから、大変晴れがましい。
四季の風精たちの宮の中で、もっとも恋から縁遠い宮だ。それゆえに、冬の少女らは、かつての同胞を嬉しげに見送る。
かつて、この宮には氷霧姫という名の精霊がいた。本性は、冬の朝に立ち込める霧。氷を宿すその霧は、冬のよく空が晴れた朝、大地を凍らせるほどの寒い日にしか、目にすることのない霧だ。
天漢公子の求婚を受け、かの姫は転じた。
恋を成就させた冬の少女らは、四季を通じた天人となることがある。氷霧姫は珠霧姫(しゅむき)と号を改め、地上の霧すべてを司る精霊となったのだった。
珠霧姫を送り出す。
見送られる佳人が寒花宮の扉の前で立ち止まる。
以前は、白と青ばかりをまとっていたが、今は薄色の衣に五元の帯珠を身に着ける。
「何をしておる。
冬の者ではなくなったのじゃ。
ここにいられぬは条理」
寒花宮の主・垂氷公主が言った。
朝霧は頬に手を当て、小首をかしげる。
「天河は気短じゃ。
早く向かわんと、焦れて迎えに来てしまう。
そして、父上のときのように天界の恥っさらしになるじゃろう。
二度続けてでは、寒花宮の聞こえも悪うなる」
「お元気で」
朝霧は丁寧に頭を下げる。
「それはこちらの台詞じゃ。
夫婦喧嘩をして、この宮に舞い戻ってこぬようにな」
垂氷公主は、開いた『凍刃』をヒラヒラともてあそぶ。
珠霧姫はうなずいた。
最後に、育った宮を見上げる。
ずいぶんと永き時をすごした場所だけに、別れは一抹の寂しさを胸に落としこむ。
朝霧は一歩を踏み出した。
扉の外へ。
冬の世界から、外へと自分の意思で出たのだった。
銀の川を玉でできた船で下る。
流れいく景色を眺めている間に、天印宮へと小さな船はたどりつく。
壮麗たる宮に、朝霧は目を丸くする。
寒花宮も素晴らしかったが、天印宮の美しさ、艶やかさは、想像を超えるものだった。紅い水花が咲き誇り、清らな流れが耳に涼しげであった。
大きな河の上に宮が浮かんでいるように見える。
船着場には、主の天漢公子が待っていた。
その手を借り、朝霧は天印宮に足を下ろした。
「お疲れではありませんか?」
「いえ。
あっという間でした」
物珍しい景色に目を移りしている間についてしまった。
「花はこのように咲いているのですね」
朝霧は足元の睡蓮に目をやる。
手折られた花は贈られたことがあった。けれど咲いている姿を見るのは、初めてであった。
外に目をくれる余裕もなく、今までの歳月をすごしてきた。それは、とてつもない無駄な時間だったように思える。
「初めて知りました」
紅い睡蓮は生き生きとしている。
こうして咲いていれば、季節の節目に枯れることになるだろう。氷の中と違い、永遠ではない。
でも、睡蓮たちは悔いてはいないように感じられた。
「この世界には、まだ美しいものがたくさんあります。
悲しみと苦しみだけではありません」
青金石よりも綺羅らかな瞳が朝霧を見つめる。
真っ直ぐな視線は、霧である身には強すぎる。乙女は困り、うつむいた。
どう答えればよいのか。
誰も教えてはくれなかったのだ。
本性に戻れば逃げ出すことができるだろうか。
この状況から身を隠すことばかりを考える。
「今朝咲いた花があちらにあります。
見てみませんか?」
「はい」
それなのに、何故か朝霧は返事をしてしまう。
また困ることが起きるかもしれないのに、手を引かれると素直についていってしまうのだ。
どうしてなのだろう、と稚い乙女は考えこむのであった。
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