第十一章
「叔父上、何故ですか?」
「本当に答えが知りたいのか?」
問いを問いで返され、天河は返答を窮する。
「座るといい。今、お茶でも用意させよう」
高天は柔和な笑顔で席を勧めるが、少年は首を横に振った。
認めたくはなかったが、姉上と敬愛する女性の心を傷つけたのは、この叔父なのだ。
暢気(のんき)に語らうわけにはいかない。
せめて、その理由を聞かねば、納得できない。
「公子は頑固だな」
高天は笑みを崩さずに、鷹揚と言う。
「叔父上、と呼ばせていただきます。
何故、姉上を傷つけるようなことをなさったのですか?」
「私は氷柱を一つ溶かしただけだ。
罪というほどの罪ではあるまい」
「どのようなものであれ。それがどんなにありふれたものであっても。
姉上が大切にされており、そして、それを失えば姉上がひどくお悲しみになる。それをわかっていて、叔父上は氷柱を壊されたと耳にしました。
そのように、無体なことを何故なさったのですか?」
「誰ぞ、そのように?」
「天帝様からです」
「なるほど、さしもの父上も寒花宮の主の怒りに根負けしたか」
面白い、と膝を打ち、笑う。
「理由をお聞かせください!」
「何故、停滞は罪なのだろうな。
それを考えたことがあるか? 天漢公子」
「淀みを生むからです」
かつてそう教えを授けてくれたのは、目の前の青年だった。
秋風に吹かれる狗尾草のように、とらえどころなく語る姿は、いっかな変わっていないように見える。
「不自然だからだ。
天の理を外れるものは、美しくはない。
それは人の子だけではなく、我ら天人にも当てはまる。
時を止めるものは、醜悪だ」
天帝を父に持つ、天伯は言い切った。
夜空色の瞳を見開き、叔父を見る。
いかに位階が高いとはいえ、不敬に当たる言葉であろう。厳諫を良しとする天帝であっても、その霊格を疑うような発言は不愉快に感じるやもしれぬ。
いくら父と子といえ、血縁に甘いようでは天帝は務まらない。
吸い込んだ息の吐き出し方を忘れてしまう。
嘆息になりそうだった息を、天河は飲み込み
「今はそのような問答をしに参ったのではありませぬ!」
話を戻す。
「不自然なことは長くは続かない。
早晩、あの子は今のようになってしまっただろう。
あと百歳(ひゃくとせ)、持つかと思っていたが、姫でしかない精霊には荷が重かったようだ」
「それが姉上がたどるべき命運であったのなら、百歳を待てなかったのですか?
叔父上ならば、長くはない歳月でございましょう」
「私にはあっという間だが、公子には違ったことであろう」
「私のためとおっしゃるのですか?」
確かに百歳は己にとって長い歳月だ。わずか二十歳で成人したのだ。その五倍先は想像もつかぬ未来であった。
茫洋(ぼうよう)と広がる先に、可憐な従姉姫が姿を消すと言われても、実感は伴わない。
「いいや、自分のためだ。
私は私の好きなようにする」
高天は精霊らしいことを言った。
天河は改めて、天伯を見た。背の高さばかりが目立つ、頼りのない姿を持つ精霊だ。
けれども、その振る舞いは精霊らしかった。
姿ばかりに囚われていたのだろうか。
今まで、気がつかなかった。
「姉上はあのまま消えていくのでしょうか」
それはすでに問いとして形を成しえていなかった。
「もし、形作れたとして、どうするつもりだ?
公子の願いが叶い、その後は?
その答えが出るのが先か、消えるのが先か。
私にもわからない」
高天は言った。
◇◆◇◆◇
時が止まった。
それに相応しい季節はいずれであろうか。
風や火の気配が強い春や夏は相応しくなかろう。すると、残るは秋と冬。
昼よりも夜が長い季節が、止まった時間に相応しいのだろうか。
天の川の傍流の岸辺に小さな宮がある。
天伯の宮で、暁待宮(ぎょうたいぐう)という。名の通り、長い夜に厭いて暁を待つ宮である。
気ままな主が宮にいることは稀で、代わりに水晶の簾が風に鳴らされるような場所であったが、三日前から趣が変わった。
謹慎を命じられた天伯がつれづれに、夜毎琵琶を弾く。虫らと合わせて鳴る弦の音に、岸辺の狗尾草の無聊までが慰められる。
天伯が暁待宮の階(きざはし)まで降り、琵琶をかき鳴らしていたときのこと。
「お久しゅう、兄上。
お変わりがないようで安堵いたしました」
訪れたのは弟の軍破王であった。
高天は笑みを浮かべ、歓迎の意を示す。
「変わらないことは、不自然であろう」
時は流れていくものだ。
河のようにとうとうと流れ、全てを洗い流すものだ。池のように堤を築き溜めておくようなものではない。
そんなことをすれば忽(たちま)ちに淀み、悪臭を放つ。
「相変わらず、兄上は変わったことをおっしゃる。
時を止めるは仙格の高さ。
誇れども、気にするものなどございませぬでしょう」
軍破王は階に腰を降ろし、言う。
「人の子のように短い時を思い切り生きてみたい、と思ったりはしないのか?」
高天は尋ねた。
「たいそう魅力的なお言葉ですな」
型破りなところがある軍破王は破顔した。父の子で一人、武の道を歩くことになった弟は、高天に負けずの変わり者であった。
大綱に寄れば二十一人の妃を持てる身だが、迎えたのはただ一人。
それも前(さき)の寒花宮の主だ。冬の少女らを妃に迎える者は少なく、子をなした者はもっと少ない。
「思うだけだ。
実行には移さない」
「しかし、今度は何をなさったのですか?
兄上が謹慎を賜るのは、はや二十歳ぶり」
弟は火の気質が強いものだけあって、お祭り騒ぎが大好きだ。
事の顛末を知るために暁待宮へやってきたのが、その表情からわかる。温雅に時が流れる天界であっても、軍破王は閑職ではない。時間のやりくりが大変であっただろうに、と呆れるやら、感心するやらだ。
「前回からそんなに経つのか」
高天はしみじみと呟く。
膝に乗せた琵琶の重みがより深くなったように感じられた。
「天漢童子が生まれてから、どこへ出ても恥ずかしくはない公子ぶり。
教え導く者がいるということは、こうも違うのか。と。
早く妃を持たせ、子を作らせれば良かったと、皆で言っていた次第です」
楽しげに軍破王は語る。噂話が好きなのは、風の気質のものだけではないということだ。
風が煽られ、陽気に振舞うその影には、火の存在がある。
高天は五元を満たす存在であるから、誰の気持ちも等しくわかる。
それゆえに、誰にも深入りすることができない。興味の向く方向にしか、進めないのだ。
「自分の上をいく腕白(わんぱく)がいると、なかなかはめを外すことができなくてね。
真似されたら、後々困ることになるだろう。
流石の私でもその程度のことはわかる」
琵琶に張られた絹糸を指で弾く。外に弾くは雨が地を打ちつける音。内に弾くは小道のささやき声。
撥(ばち)も義甲も使わないため、その音色は細やかな分、小さい。
「お役に立てたようで、よろしゅうございます」
「いささか窮屈ではあったな。
思うたよりも、天漢公子は頑固者に育った。
いったい誰に似たのやら」
緩急取り混ぜて鳴らすのが琵琶の醍醐味というが、そのような気分になれず、高天は好きな弦を好きな間合いで弾く。
「兄上ではないことは確かですな」
「まったくだ」
面白いと天伯は笑った。
天漢公子は、誰に似たのだろうか。意外に、人の子かもしれない。
夜空に広がる天の川を見上げ、思い描く形は、気概のある男児、天帝の寵篤く、星を従えるのに相応し。と。
畢竟(ひっきょう)、精霊は『想』である。
他者が思い描くものに流されやすい。
何ものにも依らず、己が身を立てることなど不可能。干渉を振り切ろうともがくは、哀れ。
高天は弦を弾いた。
◇◆◇◆◇
それから長い月日が流れた。
もとより齢などないに等しい天人であっても、長いと感じる時が経った。もっとも数を数えるのに厭いた者ばかりが揃っていたので、明確な年月はわからない。
その間、冬の寒い朝に見られる氷の霧を見ることは一度もなく、少なくはない者の記憶から消えかかろうとしていた。天界ですらそうなのだ。地上では、いかばかりか。
何故、天漢公子が寒花宮に通うのか。その理由すら薄れていこうとしていた。
この件に関わった者たちの中でしか、可憐な女人の姿は留まっていない。
◇◆◇◆◇
天界にある軍――天軍を率いるのは竜族と決まっていた。荒々しいことに天人たちが向いているはずもなく、それに変わる案は出ないままだ。
しかし、天廷のお側近くに仕える近衛まで、竜族に任せるわけにはいかない。彼らは帰順してきたばかりで、身も心も天帝に捧げているわけではない。
天帝は息子の中でも、勇猛果敢の者を軍破王に任じた。
それが天河の父であった。
「大きくなったな」
軍破王は言った。
天廷の広い回廊(ろうか)で、親子は久しぶりにすれ違ったのだ。
位の上では差がなかったが、父であり、年上の男性である。天河は拱手した。
「垂氷公主は、元気か?」
軍破王は尋ねた。
父とはいえ、漢。娘とはいえ、成人した独り身の女人。
気安く訪れることはかなわない上に、寒花宮はあの一件以来、門扉が重い。
冬空に舞う花は、自ら閉じこもってしまった。
氷柱はすべて溶けたというのに、氷柱が本性の精霊が番人をしている。
「一時は気落ちなされたようですが、今は持ちなおしたようです」
天河は答えた。
「そうか。
こうして、天漢公子にも会えた。
今日は良い星の巡りのようだ」
「不義理をしております」
「公子は、生まれてすぐに天漢の後継となった。
今更、普通の親子のように振舞うことはできない。
天界ではままあることよ。気にすることはない。
己の職務を全うするがいい。
壮大な天漢あってこその、夜空だ。
我ら北斗も張り合いが増すというもの」
北斗七星の中の一つ、破軍星が本性の漢は笑む。
「ありがとうございます」
自然と頭が下がった。
「朝霧(あさぎり)のことは残念だが、仕方があるまい。
揃って気落ちしていることが」
「朝霧?」
聞き覚えのない名前に、天河は話の腰を折った。
「氷花公主の一人娘の名だが?」
「……朝霧とおっしゃるのですか」
天河の胸に不思議な感慨が湧き起こる。
号を知っていれば、呼ぶのに困ることはない。成人した者に、名を問う行為は非礼であることもあって、天河は従姉姫の名を知らなかった。
初めて、名を発音する。
本人のいない場所で、本人以外からもたらされた知識で。
儚い印象を持つ女性だけに、似合いの名だった。
多くを望んでも、もう遅いのだけれど、天河はその名で呼びかけてみたかった、と思い……。
「用事を思い出しました。
失礼します!」
天河は言うが早いか、走り出した。
長い回廊がわずらわしく感じる。天漢公子が文官であることを悔いる。武官とは違う長袍は走るのに適してはいない。
まだ、従姉姫が失われたわけではない。
名を呼びかける相手は、存在してるのだ。
ただ、逢いたいと思った。
もう一度お逢いしたい。
その声を耳にしたい。
童子の時分に強く願っていたように、天河は再び思う。
その先の未来など、考えてはいなかった。
ただただ、儚い印象の佳人に逢いたかったのだ。
寒花宮の一室。
天河は虚空に向かって、大切な名を呼んだ。
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