![]() 『惑星CA‐N』の人工的に整えられた居住区であっても雨が降る。 この日の天気予報は雨だったから、チアキは鞄や靴に防水スプレーをした。 合皮とはいえ、濡れてしまうと手入れが面倒だった。 一瞬、スカートにもかけようと思ったが、アウトドア用の製品ではなく、一般的なものだからやめておいた。 いまだにこの手のもの扱いがよくわからない。 友人であるハルカ・モリヤから必要最低限だと、あれこれと服や服飾雑貨を増やされたのだ。 とんでもないほど高額ではなく、妥当な値段な衣服類だった。 なおかつハルカからは、チアキの年齢を考えるとプチプラだから、ワードローブを考え直すように忠告された。 舗装されているくせに、わざと水はけを悪くしている道をチアキは傘を差しながら慎重に歩く。 慣れない靴というものもあるけれども。 普段から機能重視でスニーカーで過ごしていた。 たまに大口の取引でスーツを着用する時はローヒールのパンプスを選んでいた。 冠婚葬祭じゃないのだから、とハルカに力説されたために、今はフラットシューズだ。 ラウンドトゥのバレエシューズ。 色合いはシックで、プレーンなデザイン。 履き心地も歩き心地も、スニーカーよりは気が張るがパンプスに比べれば段違いに楽だった。 その靴や、足を出して歩くのは嫌だとチアキが訴えたせいでロング丈のAラインのスカートになったものが、人為的にとしか思えない水たまりで泥跳ねをするのではないか、という点が気になっていた。 防水のスニーカーだったら水たまりなど気にせずに歩けるのに。 肩からずれ落ちしそうなショルダーバッグが濡れないように、細いショルダーの部分を掴みなおす。 『惑星CA‐N』は変なところまで『地表主義的』だった。 故郷星になってしまった地球であっても、ここまで徹底されていなかった。 特にセントラル地区ともなれば、もっと管理されていた。 目的地が見えてきてチアキはホッとする。 静かに降る雨のせいで、湿度が高く、まとめていた髪もどことなく重い。 以前のようにリングゴムで束ねているだけだが、その上からスカートの色と同系統のサテン生地のシュシュをしている。 マーガレットを小さくしたような小花が散っているデザインだった。 カフェの入り口で傘を折りたたむが、傘立てはなかった。 申し訳のないような気もするけれども、チアキは傘の柄を左腕にかける。 防寒用のストールといった類も外して左手にまとめる。 まったくもって慣れない事柄に緊張しっぱなしで、チアキはカフェのドアを押し開いた。 定位置なのだろうか。 ショウは窓際の席にいた。 合成樹脂ではなくガラス製の窓に伝う雨を見つめていた。 「お待たせしました」 できるだけ邪魔しないように声を抑える。 黒に近い深い焦げ茶色の瞳がチアキを確認すると穏やかに細められる。 チアキの心臓がギュッと絞られたような痛みを覚えた。 「時間や場所を指定したのはこちらです。 合わせていただいて申し訳ありません」 ショウは淡々と言った。 チアキは向かい側の席に座る。 体が自然と沈み込むような感覚に途惑いを隠せない。 自分には場違いなような気がして、居心地が良いとは言えない空間だった。 濡れた傘の扱いに困り、そのまま落ち着いた木目が浮かび上がっているテーブルの端にかけさせてもらう。 通路側だと従業員の服を濡らしてしまう可能性もあるが、あちらも接客業だ。 目立つところに置いてあれば、事前に察知するだろう。 「ショウさんは雨がお好きなのですか?」 思い切ってチアキは尋ねた。 「自然現象の一つだと思います」 コンピューターのような事務的な回答が返ってくる。 いや、対話式のコンピューターだとしても、もう少し親身になって答えてくれるだろう。 「天気予報を見ない。 というわけじゃないですよね?」 チアキは再確認する。 「公務員の特権の一つで、どの地域で雨が降るのか。 降水量まで事前に知っています」 ショウはあっさりと答えた。 好きじゃないなら、どうして雨が降るとわかっている日時を指定するのか。 チアキには謎すぎる思考パターンだった。 どうにもショウの言動にはついていけない。 自分が前時代的な『地表主義者』でこだわりが強すぎるのも原因だとはわかっている。 それでも、婚約して、結婚準備を進めているはずのパートナーなのだ。 歩み寄った方が良いような気がする。 「チアキさんは相合傘の経験はありますか?」 突然の問いに 「小さな頃に傘を忘れて母が迎えに来てくれたこともあります」 途惑いながら正直にチアキは答えた。 「『地表主義』的ですね」 「はい」 思わずチアキはうつむいてしまう。 「私も経験してみたくなったのです。 効率から外れたことをする人間は少数でしょう。 現にチアキさんはご自分の傘を持ってきました」 ショウはロジックを組み立てていくように言う。 「……帰りは一本の傘で帰りますか?」 チアキは顔を上げて質問をした。 成人女性としては平均的な身長のチアキだ。 しかもヒールの高い靴を履いているわけでもない。 男性の平均値を上回る長身のショウと相合傘をしたら、絶対にショウが濡れるだろう。 背の高い方が柄を持って歩くのが暗黙のルールになっているのだから。 「かなり濡れると思いますよ」 まだ春は遠く、冷たい雨が降っている。 宇宙時代であっても風邪症候群には特効薬はない。 さまざまな症状を『風邪』と呼んでいるだけで多岐に渡っているためだ。 体を冷やす、という単純な行為であっても人間は簡単に風邪を引くのだ。 「そこが楽しみなんです。 何事も経験ですからね」 ショウは新しい実験を始める前の研究者のような顔をして言った。 「……なるほど」 チアキは何とか頷いた。 ◇◆◇◆◇ 紳士用の大きな傘であっても二人分の体積は想定外のようだった。 ショウはある程度事前に調べてきたのだろう。 マナーとして斜めに傘を差してくれた。 つまりチアキが極力濡れないように、と。 心臓が壊れるのではと思うぐらいに緊張しながらチアキはショウの腕をつかんだ。 できるだけ密着すればショウが濡れる範囲を減らせるからだ。 とはいえ、異性への免疫がゼロに等しいチアキにとっては勇気がいることだった。 きちんとお付き合いをしてこなかった今までの人生が悪いのだろう。 いくら『地表主義者』であっても、みんなもうちょっとはまともな恋愛経験を重ねているはずだ。 結婚なんて前途多難なような気がする。 差し迫っている将来への不安や心配が加速していく。 弾むわけでもない会話にチアキは相槌を打つので精いっぱいになってしまう。 左耳で聞く声は雨音に混ざっている。 傘を弾く水滴の音と重なって大昔の映像ディスクに収められている穏やかな楽曲のようだった。 「ショウさんは雨音が好きなのですか?」 日常会話の一環だと思ってチアキは尋ねた。 「残念ながら大多数です」 「え?」 意外な返答にチアキはショウを見上げる。 冷たい雨が降りしきる中だというのに二人は立ち止まってしまった。 「F分の1の揺らぎがあり、心理面に影響を与えるという知識はあります。 けれども、雑音に……ノイズに聞こえます」 ショウは冷静に答える。 「だったら、どうして?」 自然とチアキの声は震えた。 寒いからではない。 冷たい雨が降っているからではない。 「『地表主義』のチアキさんには異なって聞こえると確認してみたかったのです。 私たちは価値観からして何もかもが違います」 ショウは言った。 「確かに違って聞こえますが」 チアキにとっては心地よく感じる音だ。 けれども雑音に聞こえる環境にわざわざ身を置くこと自体が信じられない。 効率から外れた、という問題ではない。 そこまで自分で実験をしなければならない、という自己犠牲精神が純粋に怖かった。 チアキはマジマジとショウを見つめる。 「少しは快適な音に聞こえるでしょうか?」 黒に近い深い焦げ茶色の瞳は凪いだように穏やかだ。 「はい。 雨の降る強さ……降水量でも、だいぶ違ってわたしには聞こえます。 この雨は好ましく思います」 チアキは答えた。 「それならセッティングしてみて正解でした。 これからもチアキさんの好きなことを教えてください」 ショウは柔らかに微笑んだ。 顔面偏差値が高い男性であっても冷静な表情を浮かべているからこそ、相殺までは行かなくても、何となったが、こうも優しく笑顔を見せられると、チアキは身の置き場を感じられなくなる。 冷たい雨の中で相合傘をしている以上、逃げ場などどこにもないのだけれども。 そもそもこれから結婚する相手を避けても意味がない。 共同生活が破綻するだけだろう。 何とか話題を逸らせないものだろうか。 心拍数の速さをごまかしたい。 視線をさまよわせていたチアキは意外な発見をした。 ショウがピアスをしていることに気がつく。 瞳と同じ色のほとんど黒に見える小さくてシンプルなピアスが耳たぶに存在した。 よっぽど接近しなければ見落とすような飾り気のないものだった。 だからチアキは今まで気がつかなかったのだろう。 「ショウさん、ピアスをしているんですね」 エリート中のエリートの名誉公務員とはいえ、服装規定は緩いのだろう。 オニキスかオブシディアンかヘマタイトあたりの鉱物か、特殊な合金だろうか。 「公務員ですから義務です。 規則上、職務中は外すことはできません。 『惑星CA‐N』では珍しいでしょう。 銀河標準法で定められており、罰則規定もあります」 法律の辞典でも読み上げるようにショウは言った。 「仕事中は外せない? まるで監視されているみたいですね」 犯罪を起こして刑が確定した受刑者のように、という言葉だけは飲み込んだ。 「私のような公務員職についている人間にプライベートは存在しません。 エデンを追い出された咎人です」 ショウは静かに話さす。 神を信じないという無神論者らしからぬ詩的な発言が含まれていたことに、チアキは引っかかる。 「アダムとイブが楽園から追い出されたのを原罪というのならば、人類はみな罪を産まれ落ちた時から抱えているんじゃ?」 チアキは尋ねた。 『地表主義』のJから始まる市民番号で生まれ育った無宗教らしい価値観で。 多様性などを説かれる必要性がないほど節操なしにハセガワ家はどんなものでも都合が良いように咀嚼してから吸収してきた。 古い宗教もそのうちの一つだ。 上辺だけで利点のある部分しか受け入れていない。 『惑星CA‐N』に移り住んだとしても、根本的な部分は変わっていない。 「やはりチアキさんは天国に程近い場所にいるのですね。 私の安息の地で居続けてくれますか?」 コンピューターが読み上げていると感じるほど平坦な口調だったが、チアキの耳には違って響いた。 冷たい雨が降り続ているのが良くないのだろうか。 相合傘という閉ざされた空間で密着しているのが悪いのだろうか。 どうにもならない距離感と切なさを感じた。 生まれ育ってきた環境のための価値観の相違という言葉では埋められないほどの重たさがあった。 「カスミソウのように永遠に」 チアキは真剣に言った。 プロポーズをされた時に受け取った白い小さな花たちのように。 花に込められた言葉のように。 チアキの帰る場所だと感じたのだから、それを伝えなければならない。 「感謝します」 ショウは雨音よりも密やかに言った。 |