7.満月
まだ、夜になったばかりの時刻。
咲き初めの風鈴草に燈子は気を取られて、しゃがみこんでいた。
青紫の美しい花は、何故か物悲しい。
うつむくように咲くせいだろうか。
それともカンパニュラの響きは、カンパネルラを思い出させるせいだろうか。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる薄倖の少年の名。
宗一郎は取り留めのないことを考える。
それは静かに違和感を知らせた。
燈子がきょとんと顔を上げたのが、始まりだった。
急速な空間のたわみ。
何かが捻じ曲げられる。
宗一郎は、その方向を見た。
美しい夜空が……。
瞬間、気がついた。
哂う白い月は、満ちている。
「寺島先輩……、こんな時間に?」
燈子はポツリとつぶやく。
「ああ」
宗一郎はうなずいた。
山上の結界をくぐるものは、限られている。
川上の鳥居を越えられるものが、少ないように。
二人の前に、程なくして人の良さそうな青年が現れた。
寺島光治。
月読尊を祀る神社の跡取り息子。
「月齢15.2。
良い夜だね」
光治はにこやかに挨拶した。
「こんばんは」
物事に頓着しない少女は立ち上がり、ペコリと頭を下げた。
「こんばんは。
散歩がてらに立ち寄ったんだ」
爽やかに光治は言った。
……常人では考えられない距離だが、この人ならありうるかもしれない。
うなずかせるには、充分な人物だった。
「わざわざ、山上までですか」
少々非難めいた言葉を少年は吐いた。
この後、村上の当主である母に叱られるのは、間違いなく少年なのだから当然の権利だった。
「二人の邪魔しに。
噂は、川上まで飛んできているよ」
「光治先輩の話も、聞きますよ」
「まあ、適度にばらまいているからね。
全く噂にならないのも、困るからね」
ニコニコと光治は言った。
宗一郎には理解できない事柄だった。
噂をまく、という行為からして、理解できない。
「それで、本題は?」
宗一郎は単刀直入に訊いた。
「……まあ、色々と。
二人の様子を見に来たのが、正しいかなぁ?」
光治は疑問形で答えた。
質問したのは自分なのに……、と宗一郎は混乱する。
結界をくぐってまで見に来るほど、暇なのだろうか。
いや、光治先輩ぐらいの力があれば、たいした手間ではないのかもしれない。
ましてや、今宵は満月。
月神が最も力を増すとき。
「せっかく、二人きりだったのに」
少女はふてくされたように言う。
意外な響きに少年は、見遣る。
燈子は林檎の花びらのような色の唇を少しとがらせていた。
そんな感情を抱くこともあるのだと知れて、少年はこそばゆかった。
「うん。
だから、邪魔しに来たって、さっき言ったでしょ」
笑顔で光治は言った。
……複数の意味で凄い人だ、と宗一郎は思った。
「とーこ……」
そう言ったきり、燈子は口をつぐむ。
何かしら告げたいことがあったのだろう。
燈子の瞳には、ありありと不満が宿っていた。
宗一郎は少女の小さい頭をなでてやる。
スッと燈子は宗一郎の背に隠れた。
「嫌われちゃったようだね。
仕方がないか」
光治は空を仰ぐ。
白い光が贔屓するように、降り注ぐ。
燈子が薄ぼんやりと光るのとは違う、青年はその光を受けているのだ。
「これ、招待状」
青年は手品のように白い紙を差し出す。
葉書サイズの紙には、何も書かれていなかった。
「川上からのお誘いだよ」
白い月のように青年は笑う。
そして、空気に溶けるように消えた。
白い紙だけを残して、その存在は水蒸気のように昇華してしまった。
「寺島先輩、変」
燈子は不機嫌そうに言った。
「……」
同意してはいけないのだろうが、同意したくなる。
宗一郎は何も言わなかった。