25.透明な色の空
「結婚ですか?」
湖星は驚く。
突然のことではあったけれども、この時代である。
誰もが家と家同士で縁を結ぶのは当然であった。
宋の姓を名乗る者は、湖星しかいないのだ。
「では、この家はどうなるのですか?」
湖星は家臣に尋ねる。
「もし、姫様が子を成すことができれば、男児であれ女児であれ跡を継ぐので、ご心配はいりませんよ」
家臣が答える。
「こんなに好条件の縁組はありませんわ」
古くから仕えてくれている璃桜も言う。
「そう……ですか」
湖星は膝にのせていた太陽色の毬を撫でる。
言葉にならなかった問いを胸の内で紡ぐ。
その方は、わたくしが転がした鞠を拾ってくれるでしょうか?
「わかりましたわ。
この家のために嫁ぐのは当然ですもの」
湖星は微笑んだ。
務めを果たさななければならない。
未来の夫君はどんな方であろうか。
誠実で優しい方だとよろしいのだけれども、と思いながらも高望みはしてはいけないと律する。
◇◆◇◆◇
湖星は散策と称して、部屋を出た。
向かったのは茨垣が美しい庭ではなく、堅い木のある地下牢。
囚われている者がいるわけではない、用のない一室だった。
昼間だというのに薄暗く、空気は淀んでいた。
絹織物が汚れるとわかっていながら、湖星は格子の嵌まった檻に近づく。
ここで鞠を転がしても拾ってくれる人は、もういないとわかっている。
湖星がここに来れるのも、最後だろう。
世間知らずな湖星に結婚の話がされたということは次の吉日には、嫁ぎ先に向かうということだろう。
住み慣れた家を離れて、向かうのだろう。
まるで人質のように。
もう、朱鷹の訪れを待つことはできない。
それが寂しく、悲しく思われるのは、どうしてなのだろうか。
湖星は誰もいない地下牢を見つめ続けた。
◇◆◇◆◇
吉日。
赤い衣に身を包んだ湖星は大きな屋敷の上等な部屋に通された。
おそらく正妻のためだけに用意される部屋だろう。
どこかしら宋家に似ている雰囲気があった。
しみじみと麗しく、懐かしい。
破格の扱い、だということがわかった。
嫁ぎ先は、侍女を同行することを許可したのだ。
璃桜だけではなく、貞蓮も淑桂もいる。
何の後見も持たない。
身ひとつしかない湖星なのだ。
宋家は事実上、滅んだのに。
それなのに、子を成せば子たちは姓を継いでもいい、という。
侍女たちは仙女のようだ、と褒めたたえてくれるが身びいきなものだろう。
どのような理由で、湖星を娶ると決めたのだろうか。
湖星は太陽色の鞠を撫でながら想像してみるが、未来の夫君の考えなどわかることはできなかった。
視線を転じれば、幾何学模様の窓枠の玻璃の先に、茨垣が見えた。
本当に宋家の屋敷に似ている。
あの茨垣には蕾はつけているだろうか。
咲けば、甘い香りがするのだろうか。
まだ昼前だから、あの時のように星を見ることはできないだろう。
湖星は、一度きりしか見たことのない星を見てみたい、と思った。
「どうかなされましたか?」
璃桜が尋ねた。
「いえ、美しい庭だと思って。
ここから見る星は綺麗かしら?」
湖星は微笑んだ。
「きっと素晴らしいに違いありませんわ。
今宵、見せていただけばよろしいのではありませんか?」
貞蓮が提案する。
「……鬼が来るのでしょう?」
湖星は目を瞬かせる。
あの日まで、そう言われ続けたのだ。
そして、その以後も言われていた事柄だった。
「守っていただければよろしいのですよ」
淑桂は力強く言う。
未来の夫君は勇敢な方なのだろうか。
鬼すら片付けてしまえるほど。
何となく恐ろしい気がした。
動乱の世だから、珍しいことではないはずだが、父のように戦場を駆け抜けていくような人なのだろうか。
そのような方と上手くやっていけるのだろうか。
湖星は不安になる。
もし機嫌を損ねてしまったのなら、どうなるのだろう。
自分の身ひとつで片付けば良いのだけれども、そうはいかないことだろう。
世間知らずの湖星でも、それぐらいはわかっていた。
押しつぶされるような緊張の中で、湖星は太陽色の鞠を撫で続けていた。
◇◆◇◆◇
軽く食事をさせられて、寝室に通された。
とうとう未来の夫君に会うのだ。
湖星は、侍女たちが思うより大人しい性質ではなかった。
宋家の当主の愛娘だからといって、自由に宋家の屋敷内を歩けるはずがない。
一年近くも、侍女たちをまいて、地下牢に通っていたのだ。
最後の機会だと思って、寝室を静かに飛び出した。
目指すのは昼間に見た庭。
どうしても一人きりで星が見たかったのだ。
太陽色の鞠だけ持って、外へと出た。
身を切る、というほどではないけれども、それなり夜風は涼しかった。
湖星の長い髪を、絹の衣を揺らしながら、風が渡っていく。
墨というには青い瑠璃色の空には、美しい銀の光。
それが降るように輝いていた。
透明な色の空、とはこのことだろうか。
玻璃のように澄んでいるからこそ、真実を映し出す。
紅の塗られた唇から、感嘆の吐息が零れる。
ぼんやりと立ち尽くしていたからだろうか。
「これで何度目ですか?」
聞き慣れた声が間近でした。
湖星の心臓は凍りついたように止まった。
息の仕方も忘れてしまった。
振り返ることもできず、逃げ出すこともできずに、時が流れていくのを待っていた。
気がつけば鞠を落してしまっていたようだ。
大切な鞠だったはずだった。
それを拾ってくれる人物は湖星は一人しか知らなかった。
「さあ? 数えていないから、わかりません」
合言葉のように湖星の唇は紡いだ。
どこか期待する自分がいる。
そうであって欲しい、と願う自分がいた。
その人物は湖星の目の前まで来ると鞠を差し出した。
「どうぞ」
青年は微笑みながら言った。
「ありがとうございます」
湖星は鞠を受け取った。
「侍女たちが大騒ぎしていましたよ。
花嫁が婚礼を厭おうて逃げだした、と」
青年は穏やかに言った。
何か月ぶりに会うのだろうか。
最後に会った時は、茨垣は紅葉していた。
「朱鷹もそう思いましたか?」
湖星は小首をかしげる。
「貴方のことだから、星が見たいと思って迎えに来たところです。
満足したのなら、部屋にお戻りください」
朱鷹は微苦笑をする。
「部屋に戻る前に訊いてもよろしいですか?」
湖星は尋ねた。
「答えなければ戻らない、と貴方は言うでしょうから、どうぞ」
朱鷹は優しく言った。
「どうして、私を妻に選んだのですか?
隣り合っているのだから、呂家の領土にしてもかまわないはず。
ご存じの通りに、わたくしには何をありませんわ。
それどころか、わたくしが子を成せば、宋の姓を残してもかまわない、と。
こちらの都合が良すぎると思っていたのです」
湖星は家臣や侍女たちの話をたどりながら問う。
「愚かな男が、貴方の美しさに目がくらんだだけですよ」
朱鷹は言った。
「ごまかさないでください」
湖星は鋭く言う。
「嘘ではないのですが、政略的な一面がなかった、とは言い切れませんね。
いくら何でも、領地が隣接しているからといって、宋家の一人娘のところに足しげく通うようなことは許されませんからね。
内々に決まっていたようなものです」
「わたくしだけ知らなかった、ということですの?」
湖星は目を瞬かせる。
「だから世間知らず、と言われるのですよ。
躾の行き届いた侍女というものは、そういうものを一切、耳に入れないようにしますから、仕方がありませんが。
ご存じの通り、私は剣を握るよりも、本を読んでいる方が好きですから、争いごとをしたくなかったのです。
禍根を残すことは良くないことでしょう。
私の方から、貴方を娶るために宋家側に提案をしたのです」
朱鷹は穏やかに言った。
「……どうして、朱鷹がそこまでしてくださったのですか?」
湖星は小首をかしげる。
「そうですね。私は少しばかりわがままになったようです。
星空の下で、また貴方と一緒に歩いたら楽しそうだと思ったのです。
できたら茨垣の近くで。
私の住み慣れた屋敷で巡る季節を共に時間を過ごせたら良い、と。
答えになりましたか?」
朱鷹は静かに言った。
まるで格子越しに交わしていた言葉と同じように。
誠実ではあった。
優しくではあった。
これ以上、高望みをしてはいけない。
でもはやはり、湖星もわがままになっているようだった。
どうしても一言を朱鷹に言って欲しい、と願ってしまう。
「わたくしでよろしかったのですか?」
湖星は再確認してしまう。
「貴方の星のような瞳に写れるのなら、一生専属の鞠拾いになってもかまわない。
それぐらいには想っているのですが。
海にも山にも誓いましょうか?」
朱鷹は微笑んだ。
『海誓山盟』それは非常に固い約束だ。
愛が永久に変わらない、と言われているのだ。
湖星の心が躍る。
「まあ、素敵ですわね。
でしたら、朱鷹は今宵のような鞠をわたくしにくださいますか?」
太陽色の鞠も素敵だけれども、銀の星のような鞠も素敵かもしれない。
「大切な鞠なのでしょう?」
朱鷹は驚いたように言う。
「もちろん、これはお父様からいただいた大切な鞠ですわ。
ですから、朱鷹からもいただきたいのです。
朱鷹からいただいた鞠は、もっと大切にいたしますわ」
湖星は鞠を抱きしめながら微笑んだ。
「では良く吟味しなくてはいけませんね。
……私と部屋に戻る気にはなれましたか?」
朱鷹は手を差し出して言った。
「もちろんですわ」
自分の手を朱鷹の手に重ねた。
湖星の心臓が勢いよく跳ねた。
あの時は気が動転していて気がつかなかったけれども、朱鷹の手は大きく堅い。
やはり、武人なのだと思った。
「どうかいたしましたか?」
朱鷹が尋ねる。
「何でもありませんわ。
朱鷹がくださる鞠が楽しみですわ」
湖星はにこやかに微笑んだ。