11.続きますように
それはデート中、といってもいいのだろうか。
薔薇の研究院の食堂の窓際。
眩しくならない程度の天然光を限りなく再現した人工光が差し込む。
薔薇の研究院のトップのお気に入りの席だった。
窓の先は、芸術的に刈り込まれた生垣があって、古めかしい図書館がある。
さらにその奥には自然区が広がっている。
孤独を愛していたわけではないが、ほどほどの距離感を取って他人と接した結果、適度に孤独になってしまった。
そんなディエンの落ち着く場所の一つであった。
もっとも事情のほうは、人懐こい後輩ができてから劇的に変化した。
さすが『シンパシー』持ちと言うべきか。
後輩のヤナ研究員は、人の心を和ませるのが得意だった。
感化されたのか、それとも『第一期共同計画』が良かったのか。
現在、ディエンの向かい側には美女が座っていた。
豊かな金褐色の巻き毛に、ヘーゼルの瞳。象牙色の肌に、均整の取れた体つき。
映像ディスクのアクトレスのように、完璧な美貌の女性。
彼女が着ると、研究院の制服が天界のドレスに見えてくるから不思議だ。
残念ながら彼女は、自分の容貌を気にしていない。
むしろ、あまり好きではないようだ。
研究員には、ありがちな複雑な血筋のせいだった。
醜いよりも綺麗なほうが、眺めている分には楽しいと思うんだけど。とディエンは考えたりする。
育った船のせいか『純血主義』の考えがピンとこなかった。
恋人、という関係になったはずだが、二人の関係はさほど変わっていなかった。
一緒に食事をする。たまに手をつなぐ。ごく稀に、抱きしめる。そして、頬や額にキス。
友人でもすることだった。
もっと親密な男女の友人同士だって、珍しくはない。
感覚が他人とズレているシユイのせい、というわけではなかった。
責任の一端どころか、半分以上はディエンのせいだったが、他人に迷惑をかけているわけでもないので、保留中だ。
もしかすると、結婚するまで、保留かもしれない。
それでもいいか。
今が満ち足りているので、これが続けばいい。
ディエンは美しい恋人を眺めながら思った。
青年を妨害するように、館内放送が流れた。
全館放送らしく、もったいぶるような電子音の後に、女の声がアナウンスする。
デートの邪魔をされて寛大になれる男は少ない。
ディエンも例外ではなく、露骨に嫌な顔をして放送を聴く。
向かい側で、立体パズルと格闘していたシユイも耳を澄ます。
「呼び出しなんて珍しいわね」
「食事休憩ぐらいゆっくりと取りたいんだけど」
ディエンは大げさに、ためいきをつく。
「仕方がないんじゃない?」
シユイは立体パズルを机に置く。
どうやら組み立てを放棄したようだった。
誰に貰ったかは知らないが、少女が半日ほど夢中であることをディエンは知っていた。
「これはやっかみだな。
俺と君との仲を羨む人間の陰謀だ」
ディエンは、目の前にある立体パズルに手を伸ばし、数度動かす。
不恰好だったパズルは、美しい正六面体になる。
「行ってくるよ」
青年は、正六面体をテーブルに置いた。
歪みのないフラットなテーブルの上に載るシンプルな正六面体は、実に機能美にあふれていた。
「嫌味なぐらい卒がないわね」
女神のように美しい少女は唇を尖らせた。
「どういたしまして」
「うっかり忘れていました」
ディエンは口元に笑みを浮かべたまま、言った。
うっかりと忘れていた。
そんなことはありえない。
何故なら、ディエンは『意識集合体』に選ばれた生え抜きのエリートなのだ。
研究員になれるだけの知識を持ち、それを維持する努力ができた。
『高等生命』を研究する許可が出るほど、高い道徳心があった。
薔薇の研究院でトップと呼ばれるほどの優秀な功績を残した。
ディエンは多くの研究員と同様に、約束を「うっかり」と忘れることはできない。
もし、それが起きたのなら研究院を去る日がやってきたということだ。
脳の衰えは、研究院では忌避されることだった。
「なるほど、うっかり。
君も人だったんだな」
約束をすっぽかされそうになった壮年の男性は、にこやかに言った。
薔薇の研究院の副院長・クォン。
40過ぎても、まだ第一線で活躍できる優秀な人物だった。
「何だと思っていたんですか?」
ディエンはお義理で尋ねる。
「生体機械じゃないか、という噂もある。
知っていたかな?」
クォンは人の良さそうな笑顔を浮かべたまま、樹脂作りの椅子のアーム部分をなでる。
「この目はナチュラルですよ」
ディエンはためいきをつきながら、樹脂デスクにもたれかかる。
変えられるものなら、変えてしまいたい。
血管が透き通っている真紅という色は、珍しい色であり、ディエンの出自を誇示するようなものだ。
この時代、髪どころか、瞳も、肌の色も、風呂に入る程度の気軽さで変えられる。
けれど、研究院ではそういったことは、好まれていなかった。
その理由は誰も口にしない。
研究院にいくつか存在している、話してはならないことの一つだった。
「疑ったことはない。
生体機械たちは、そんな愛想笑いはできない。
彼らは感情に乏しいせいか、感情表現がストレートだ。
笑いたくないときに笑うことはない」
クォンは言った。
「良き隣人たちの話をしにきたんですか?
専門分野ではないので、通り一遍な話しかできませんよ」
ディエンはあえて美称を使う。
生体機械、人工生命体、と呼ばれるのは、もう一つの人類だ。
宇宙暦前に、人為的に作り出されたものであっても、種として確立している。
高い知能と穏やかな性情の人類だ。
どこに行っても、ついて回る区別は反吐が出る。
「君は過敏だな。
とても傷つきやすく、脆い。
生育環境のせいだろう。
遺伝子に支配され、環境に支配されるのは、まさに宇宙放浪人類らしい」
クォンは感歎する。
真紅の目は、父親ほどの年齢の上司を不快げに見つめる。
「ご用件は何ですか?」
一秒でも早く、この部屋から立ち去りたかった。
研修生でもわかる単純な理由。
これからロクでもないことを聞かされる。
ディエンは嫌悪を隠さなかった。
それに気づいているのか、気づいていないのか。
クォンは言う。
「ヤナ研究員とは、友人関係だと聞いている。
彼は貴重な存在だ。
それを彼自身がわかっていない」
年長の研究員の言葉は、哀れなぐらい予想通りの言葉だった。
「研究院でも、珍しい存在だということは、知っているようです」
「二度と失えないんだよ。
あれほどの能力を持った人間は、二度と生まれない」
「だから、何ですか?」
「迷っている。
研究材料になって欲しいと思う。
彼は良いサンプルだ。
けれど、そっとしておきたいとも思う。
人類の聖域だ」
クォンの声が震える。
二律背反ゆえか、抑えきらない歓喜のためか。
「危険な思想ですね。
もしかして、勧誘ですか?
だとしたらお断りいたします」
キッパリとディエンは言った。
答えなど、初めから決まっていた。
「君は、誘惑に駆られたことはないのか?
彼の側にいるのに」
「遺伝子に興味はありません。
ヤナ研究員の人生です。
彼が誰と結婚して、その遺伝子を混ぜてしまおうとも、関係ありません。
ヤナ研究員の人格と友人になったのですから」
今は遠い人類の故郷にして、墓場。
青い惑星の系譜を連綿と身に宿す人間。
一滴も混ざりもののない貴重な存在。
植物と共鳴できる人間とは、そういう人間なのだ。
「話はそれだけですか?
これ以上は有益な話も望めないようなので、失礼いたします」
ディエンは言うと、部屋を出ようとする。
「待ってくれ!」
「何でしょうか?」
声に追いすがられて、ディエンは仕方なく立ち止まった。
「協力してくれ!
君とだったら――」
「お断りします。
こちらには何のメリットもありません」
ディエンは微笑み会釈すると、自動扉をくぐった。
3日か、遅くても1週間か。
薔薇の研究院の副院長は交代するだろう。
クォン研究員は、地上に落とされるか、それとも窓に格子のある生活になるか。
まあ、そんなところだろう。
『研究機関統合監査室』は見逃したりはしない。
人の道を外れるようなことを口走ったりしてはいけないのだ。
常識だった……が、それを忘れ去るほどの強い誘惑。
「天国なんて遠いほうがけっこうだ、なんてね」
ディエンは歩きながらつぶやく。
いくつかの区画を通り抜けて、後輩の好きそうな自然区まで足を伸ばす。
「あれ、ディエン先輩。
用は済んだんですか?」
ヤナは微笑んだ。
隣にいたイールンが会釈する。
拍子に髪と共に揺れた耳飾りは、ただの暗い青。
白光の中でしか偏光は確認されない。
純血種と生体機械。
特異な組み合わせだった。
それは、自分もさほど変わらない……と思っている。
研究員になるような人間は、全人類の中で見たら、異常なものだ。
「だいたいね。
ヤナくんが大っぴらにお付き合いしてるから、注意されちゃったよ」
ディエンは言った。
「えっ?」
「美人を恋人にしたんだ。
羨望の的ってヤツだよ」
「こ、恋人って!
そりゃ、そうですけど。
だ、だからって……!」
ヤナは顔を真っ赤にしながら、言い訳をしようとした。
それは、お世辞にも成功してるとは言いがたかった。
ディエンは素直な反応に、苦笑を零す。
「どうして、ディエンが注意されるのですか?」
イールンが尋ねる。
「そりゃあ、俺が優秀だから。
何でも卒なくこなせると思われてるんだよ」
「理解できません」
正直にイールンは言った。
考え込むような素振りはなかった。
「全ての人間の心情を量ることはできない。
人間だからね」
ディエンは笑みを浮かべたまま、答えた。
この平穏がいつまでも続きますように、と祈りたくなる。
信仰心の薄いディエンでも、そう思った。