06.宝石よりも重く
自然に呼吸ができるような気がして、リーシェは森を歩くのが好きだった。
優しい小鳥のさえずりに耳を澄ませ、木の葉の隙間を縫うようにこぼれた光を受けながら歩く。
何もかも忘れられるような気がしていた。
村で一番の落ちこぼれだという事実も、面倒見の良い五つ歳上の幼なじみに迷惑をかけている事実も。
全部、忘れられる気がしていた。
リーシェは立ち止まり、ためいきをついた。
泣き言を口にしそうな気持ちを消すために、冬でも枯れない森の香りを胸いっぱいに吸い込む。
◇◆◇◆◇
神が創りだした世界は、美しかった。
雄大な大地には、大いなる河が流れ、森を作り出し、広い草原を生み出した。
けれども、そこに住まう者たちの心はけっして美しいとは言えなかった。
気まぐれな西の王による長い戦が続いていた。獰猛で恐れを知らない、まるで神を食い殺しそうな勢いの異国の王は、異端ゆえに強く、その軍隊は疲れを知らないようだった。あちらこちらで戦火が上がり、大陸中が悲鳴を上げていた。
どこの村の若者も戦に身を投じるのが、当然とされていた時代だった。
“森の良き隣人”と呼ばれる優美な種族も例外ではない。
自然と共に生き、森に住まう種族は、その力を借り、神にも似た不思議な術を操ることから、戦争で重宝されていた。
あるいは、しなやかな体躯が生み出す高い戦闘能力が評価されていた。
一人前と見なされた若者たちは、武器を片手に小さな村を出て、砦に向かうのが通例となっていた。そこで本格的な訓練を受け、やがて前線に立つ。
それが当たり前だとされた時代。一人でも多くの兵士が必要とされた時の中。小さな村に生まれた少女、リーシェは村の外に出してもらえないほどの、完璧な落ちこぼれだった。
武器を持って戦うほどの体に恵まれなければ、術の制御もできなかった。
村人たちは何も言わないが、外からたまに訪れる同胞たちは“取替えっ子”なのではないのか、とリーシェを冷たい目で見た。
“森の良き隣人”にふさわしいというには難しいほど、リーシェは才能がなかった。
「ここにいたのか」
歳よりも落ち着いた声が、リーシェを振り返らせる。
「アーウィ兄さん」
また迷惑をかけてしまった。
少女は泣きたい気持ちを閉じ込めて、微笑んだ。
「今日は天気も良いから……すこし、歩こうか」
アーウィが言った。
何から何まで違う幼なじみを、リーシェは憧れていた。
見上げなければ視線が合わない恵まれた上背と長い手足。よく鍛えられた身体は、鋭く正確な矢を放つのに理想的だった。
淡い色で彩られた容貌は“森の良き隣人”の中でも際立って美しい、とリーシェよりも歳上の娘たちは、手放しで褒める。
村を出たことがないリーシェにはわからないが、幼なじみが神から特に愛されていることはわかった。
リーシェが苦労して覚えるような事柄も、アーウィは苦もなくこなしていた。それを自慢することもなく、リーシェをよく助けてくれた。
親愛よりも尊敬。その想いは日毎に、夜毎に、深みを増していった。
目映い幼なじみを正面から見ることができずに、少女は革靴に包まれたつま先を見て、うなずいた。
いつものように差し出された手を、首を横に振って、遠慮する。去年までは当たり前のようにつないでいた手は、また大きく硬くなったように思えた。小さな子どものように甘えることができずに、ごめんなさいと謝るので精一杯だった。
アーウィは不愉快をあらわにすることもなく、自然に歩き出す。村の古老たちが語る英雄譚に出てくる登場人物のように、幼なじみは完璧だった。声を荒げたりするところを想像できない。少なくとも、リーシェは見たことがなかった。
木漏れ日にちらちらと踊るアーウィの影を踏まないように、リーシェは後を追う。
やがて緑のアーチが途切れる。森を分断すように流れる河についたのだ。村の外れだ。橋を渡り、道なりに歩いていけば、やがて砦にたどりつく。
アーウィは立ち止まった。
「今夜。
……僕はこの橋を渡る」
大きな背中を見つめていた少女は、その言葉に途惑う。
意味することは一つ。村の若者の誰もがそうであったように、幼なじみも旅立ちの時が来たのだ。
「……お、おめでとう」
リーシェはつっかえながら言う。
去年、旅立った年長者たちにはこう言ったような気がする。その前の年も、その前の年も。
砦に向かうことはめでたいことなのだ。戦に参加するために、みんなは日々、己を鍛えているのだ。だから……だけど、リーシェは晴れやかな気分にはなれなかった。
「ありがとう」
憧れの幼なじみは振り向き、リーシェと視線を合わせて微笑む。久しぶりに間近で見た、淡青色の瞳はとても澄んでいて、綺麗だった。
そこに映った自分の顔があまりにも間が抜けていて、恥ずかしくなって、リーシェは目をそらした。
「あの……。元気で。
わたし……アーウィ兄さんの無事を祈ってるから。
毎日、神さまに祈るから」
見送る村人がよく口にする言葉だった。本当はもっと違うことを言いたかったのに、気の利いた言葉は出てこなかった。
これで最後になってしまうのかもしれない。
そう思うと、悲しさと心細さで胸がいっぱいになってしまう。
旅立った若者たちがそうであるように、数年後に帰ってきた幼なじみの隣には仲の良さそうな伴侶がいることだろう。
今のように、頼ることはできない。
気軽に慰めてもらうこともできない。それは、アーウィとその伴侶たる女性に、とてもとても悪いことだった。
「僕も、リーシェのことを神さまに祈るよ」
優しい幼なじみは言った。
それは、今までの“旅立ち”とは異なる返答で、リーシェは顔を上げた。
淡青色の瞳が穏やかにリーシェを抱きしめる。
「いつも君が笑顔でいられるように」
アーウィはリーシェの手を取った。
大きな手は非力な手をあたたかく包みこむ。鍛錬で硬くなった手のひらの感触は、嫌なところが一つもなかった。“未来を切り開く希望の手”だとリーシェは納得した。古い物語に出てくる英雄たちの手。
「祈っている」
世界で一番美しい宝石よりも美しい双眸。優しくって重い言葉。
どうして五つ歳上の幼なじみは、こんなにも完璧なのだろう。
これから外へ飛び出していくのに、最後まで気にかけてくれる。嬉しくって、誇らしくって……何もできない自分が情けなかった。
「ありがとう……」
リーシェは泣くのをこらえて、笑顔を作る。
これ以上、心配をかけられない。
だから、一生懸命に微笑む。
「必ずここに帰ってくる」
「うん」
「だから、それまで元気で」
「うん」
リーシェはうなずいた。
泣いてしまいそうだったから、迷惑をかけてしまいそうだったから、首を縦に振ることしかできなかった。
つないだ手はこんなにあたたかいのに、遠くなってしまう。
それが悲しくって、苦しかった。
「約束に、これを」
村に古くから伝わる飾り紐を、アーウィはリーシェの手首に通す。小さな石が編みこまれたそれは、ほんのすこしいびつだった。細工仕事に不慣れな人物が初めて作れば、きっとこうなるような、そんな飾り紐だった。
「この次は……もっと綺麗なのをあげるよ」
アーウィは困ったように微笑んだ。
かけられた言葉の意味を、優しさを、全部、受け止められなかった。あふれかえった想いは、みんな涙になる。
笑顔で送り出すことができなくって。
涙は長い雨のように、静かに静かに続く。
面倒見の良い五つ歳上の幼なじみは、それでも手を離さなかった。
ずっと、リーシェの手を握っていてくれた。
そうして小さな村の幼なじみたちは別れを告げたのだった。