何かが壊れる音がした。
目の前が赤く染まる。
それ自体は何も珍しいことではない。
血が視界を奪う。
鮮やかな赤は、生ぬるい。
体温に似た温度だった。
宙に弧を描きながら、散っていく。
鉄に似た独特な香りと共に、それは流れていく。
ここは戦場だ。
人を殺す者と、人に殺される者しか存在しない。
己は運良く殺す側に回っているが、いつ逆転してもおかしくない。
死への覚悟は、とっくの昔にできている。
では、この震えは何だ。
胸から込みあがってくる息は何だ。
今にも裂けそうな喉の奥にある――。
「甄ーー!!」
曹丕は叫んだ。
平素の青年を知る者がいれば、驚いて立ちすくむ、そんな絶叫だった。
息と言うものをすべて吐き出して、声の限りで叫べばそんな声になるだろうか。
耳を覆いたくなるほどの、悲鳴だった。
強すぎる光に目を開けていらないように、その声は強すぎた。
周囲にいた敵兵のある者は、身をすくませ、その場に座り込み、あるいは逃げ出した。
その場の支配者は、紛れもなく青年だった。
一呼吸。
曹丕は双刃剣を投げ出し、腕を広げた。
血を見て、名を呼び、抱きとめるまでの時間は、わずか一呼吸分。
蝸牛が這うように、時間は遅々として進まなかった。
「我が君。
ご無事でよかった……です、わ」
飴色の瞳が曹丕を見つめ、嬉しそうに笑みの形になる。
時間は自分の職分を思い出したようだった。
淀みなく流れていく。
血はゆっくりとしたたっていく。
曹丕の手を汚し、戦袍を濡らし、それでも足りぬと地を潤す。
「甄」
青年は妻の名を呼ぶ。
震えは収まらず、思考は拡散し、動揺は大きくなる。
ほの温かい、ぬるりとした感触が心を侵食していく。
炎よりも、花よりも、強烈な赤。
酩酊を引き起こすような香り。
「お退きください」
このような場面で、千と言われる台詞。
このような状況で、万と言われた台詞。
それを、今、自分の耳が聞く。
「私を置いて、早く!」
最期の力を振り絞るように、甄姫は言う。
曹丕の耳は、すでに聞いていなかった。
やがて、抱えていた体は重くなった。
「よくも傷つけたな!
光栄に思うがいい。
直々に切り刻んでくれる!!」
青年の叫びは、そのまま気となり、大地を制す。
曹丕にあるのは、怒りでもない、憎しみでもない。
義務のように体を突き動かすその情動に、名前をつけることなどできない。
強い執着、激しい恋着。
今まで抑圧されていた感情が吹き荒れる。
戦意ある者など、すでにいない場所で一方的な殺戮が始まる。
無間地獄が大地に再現される。
情というものは存在せず、慈悲という言葉もまた存在しなかった。
悲惨と片付けるには痛ましく、凄惨という言葉では表せない。
流れ去ろうとしている一つの命分の血の、優に数倍の血で水たまりができた。
ただ一人の男の手によって。
何かが壊れる音を聞いた。
それは自分の中のたがであったかもしれないし、何か大切なものが破壊された音かもしれない。
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