「兄上!」
悲痛な声が呼び止める。
立ち去ろうとする、王その人を。
豪奢な錦が悲鳴を上げ、上質な絹がすすり泣く。
冷たい床の上にまろぶようにして、若い男は手を伸ばす。
黒に最も近い玄色の衣にふれようとして、宙をつかむ。
至高の存在にふれることはできなかった。
敬意に似た畏怖が、それを阻んだ。
兄と呼ぶ、その人はあまりに大きかった。
慈愛と慈悲に満ちた双眸は、なお冷徹であった。
肉親の情など見出すことは不可能に近い。
はらからだと言うのに、何と遠いのだろうか。
濁った川の底の泥には眩すぎる。
曹植の眼は、微かに濡れる。
「兄上!」
天の綺羅星を宿した双眸が、曹植を見る。
「どうか、信じてください!……私は」
口に出すのも恐ろしく、曹植は言葉を詰まらせた。
百官おらぬ回廊だとしても、声に出すことはできなかった。
考えるだけでも、空恐ろしい。
それを口にするほどの豪胆さは、若い男にはない。
「命惜しくば、二度と私の前に現れるな」
感情の読めない声が朗々と回廊に響く。
どんな言葉であっても、その声は威厳に満ちて、素晴らしい。
曹植は再確認した。
見果てぬ夢を体現する兄だからこそ――。
「そなただけではない。
周囲にいる者たちの命も含まれる」
淡々と曹丕は告げた。
まるで白刃の冴え。
どこまでも苛烈、どこまでも美麗。
「兄上。
信じてください」
命など惜しくなかった。
信頼を得られるなら、ちっぽけな身の内に宿る命など投げ出しても良かった。
惜しむほどのものでもなかった。
「信じるか、どうかではない。
あるのは事実だけだ」
ゆるく頭を振り、曹丕は言った。
「子建」
幼子をあやすようにささやく。
「疑い、がある。
晴らすことなど、できぬ。
それは、大きくなりすぎた。
誰がそなたの言葉を信じるのだ?
……誰も、聴こうとはしていない」
違うか?と問われ、曹植は首を横に振ることはできなかった。
「……兄上」
信じて欲しかった。
他の誰でもない、兄に信じて欲しかった。
それだけで良かった……はずだった。
どこにでもいる兄弟だった。
仲違いしても、いつかは和解できただろう。
跡目争いは、それこそどこにでもある話。
家督が定まれば、やがて落ち着くはずだった。
けれでも、兄は「王」になってしまった。
この先の道はけして、交わらない。
人は、神に追いつくことなどできないのだ。
曹丕と曹植の間にある、大きな一歩のように。
手を伸ばしても、ふれることはできない。
指先にかすることもない。
「兄上」
万感の想いで呼ぶ。
この地で、そう呼ぶことが許されているのだから。
王であるが、自分の兄だと信じて
「兄上。
信じてください」
曹植は言った。
悲しみがとめどなく涙をこぼさせる。
歪む視界の中、それでも綺羅星の双眸を見失うことはない。
「二度と顔を見せるな」
そう言って、天の下の王はきびすを返した。
曹植は追うことができなかった。
床に崩れ落ち、それでもその瞳は兄の姿を追う。
「兄上!」
回廊に哀しい声が響いた。
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