穏やかな、変わりのない日常が続く。
カラカラと糸車は、回り続けているのに。
昨日の続きの今日が来る。
それは使い古された言葉では片付けてはいけない。
紫色の瞳を持つ少女は知っていた。
夜遅く、控えめなノックの音が響いた。
部屋の主である王太子殿下は、思案を顔に浮かべたが、扉を開いた。
訪問者に心当たりがあったのだ。
廊下にたたずんでいたのは予想通りの人物。
自分とよく似た色の瞳を持つ少女だった。
「ディアーナ」
セイリオスは妹の名を口に乗せた。
ビクッと少女は肩を揺らし、そろそろと顔を上げた。
すべらかな頬から赤みは消え失せ、紙のように白い顔。
紫色の瞳は真剣な光を宿していた。
まるで何かに決意したような表情だった。
「こんな時間にどうしたんだい?」
セイリオスはできるだけ優しい声でたずねた。
少女は口を開いては、閉じ、声にならかったためいきをつく。
「ゆっくりと話を聴こう。
入りなさい」
セイリオスは室内に招きいれ、椅子を勧める。
妹は逆らうことなく、大人しく座った。
行儀よく膝に乗せられた手は、祈るように組まれて、かすかに震えていた。
向かい側の椅子に腰を下ろすと、セイリオスは微笑んだ。
「ディアーナ。
怖い夢でも見たのかい?」
妹に甘い兄は尋ねる。
ディアーナは静かに首を横に振った。
何度かのためらいの後に、少女はようやく口を開いた。
「お兄様」
と、一言を言うためにずいぶんと、思いつめていたようだった。
明晰な王太子は、理解してしまった。
「呼びづらいなら、好きな呼び方をすると良い」
青年は困ったように、それでも微笑んだ。
「そんなこと!……ないですわ」
弱弱しくディアーナは言う。
ずっと兄妹信じてきた関係は、脆くも崩れた。
ほんの少し前の事件。
厳重な緘口令が敷かれたため、それを知る者は少ない。
一番知られたくなかった人物に、知られてしまった今、何を隠すと言うのか。
セイリオスにはわからなかった。
「私、お兄様と呼んでもよろしいですの?
お兄様は、お兄様ではないのですわ。
それでも……呼んでもかまいませんの?」
ディアーナは言った。
「兄と認めてくれるんだね。
今まで通り、そう呼んでくれると嬉しいよ」
「もちろん、セイルお兄様は私のたった一人のお兄様ですわ!」
高らかに少女は断言した。
セイリオスの胸の泉に感動が湧き起こる。
このときのために、自分は頑張ってきたのだろう。
肩に乗せられた責が、ふっと軽くなったような気がした。
「ありがとう、ディアーナ」
万感の思いをこめて言う。
「でも、ですわ。
……お兄様は、とっても苦労なさっていますの。
お兄様の本来の仕事ではなかったのに。
この国のために、がんばっていますの」
王族ではないのに、と少女は最後の言葉を飲み込んだ。
「それが私の運命だったんだよ。
苦労しているのは確かだが、張り合いのある仕事だよ」
「……運命、ですの?」
「ああ、そうだ。
これが私の運命だ。
誰かに命じられたわけではない。
自分で選んだ道だ」
セイリオスは微笑んだ。
「私ができることはありませんの?
何かお手伝いできませんの?」
ディアーナは真剣な面持ちで言った。
守られるだけでは嫌だと。
庇護の下から抜け出そうとする。
「ここにいるだけで、充分だよ」
「……お兄様。
私は、もうすぐ一人前になりますわ」
「まだ、子どもだよ」
「次の春が来れば」
「だから、そのときが来るまで、子どもでいてくれないかい?
兄として、甘やかしてやれるのは、あと少しだ」
ディアーナの言葉を遮り、セイリオスは言った。
「だから、春まで。
私の妹でいてほしい。
すぐに夫を見つけて、私の元から離れていくんだ。
……寂しくならないように、ね」
セイリオスは言葉を紡ぐ。
「はい、お兄様」
ディアーナはうなずいた。
納得はできないのに、わかってしまったから、少女はうなずく他なかった。
卑怯なセイリオスはそれを見越して、言ったのだ。
カラカラと回る糸車の中。
運命という使い古された言葉で表現してはいけない。
そんな日々の連続の、一夜のことだった。