蜜蝋が明るすぎることなく室内を照らしていた。
二人きりの部屋を邪魔する人は誰もない。
誰もいないからこそ、忙しい人を独り占めができた。
寝台は狭すぎることもないけれども、朝は広すぎる。
小喬は淡い微睡みに落ちていく中、思っていた。
姉の大喬が嫁ぐ前に何度も小喬に言い含めるように言ったけれども、小喬はちっとも『結婚』というものを理解していなかった。
詩経に書かれている詩は読んでいたし、父が亡くなる前も嫁ぐ前の心得は聞かされていた。
だから『結婚』準備も言われた通りにして、大人しく従っていた。
『結婚』をしたら、まさか世界がこんなに変わるとは思ってもいなかった。
庭に咲く花も、頬を撫でいていく風も、飛ぶ鳥すら違う。
屋敷の中の小さな院子ですら、全然違った。
不思議と恐怖や不安はなかったし、今も感じない。
ワクワクして、ドキドキして。
毎日が発見で、楽しい。
ちょっと寂しくなる時がないといったら噓になるけど、それでも後悔はしてない。
それに『夫』になってくれた人がどんな多忙な人であっても、夜は一緒に過ごしてくれる。
独りぼっちが怖い小喬の話を聴いてくれるし、色々な話を教えてくれる。
ずっとあたたかなお布団のように包み込んでくれる。
広い胸板に頭を押し付け、翡翠の枕じゃなくてその人の腕を枕にしてしまう。
ぎゅっと抱き着いてしまえは小喬を怯えさせるものはなくなる。
お姉ちゃんと手を繋いで眠っていた時も気持ち良かったけど、こっちの方が好き。
小喬は周瑜にぴったりとくっついていた。
誰かと分かち合う熱は好きだったし、気持ちが良かった。
小喬よりも大きな手が髪を梳っていた。
「どうにか、明日は昼を一緒に食べられそうだ」
甘やかな声が耳朶を打つ。
小喬は睫毛を瞬かせる。
「えっ?」
驚いて顔を上げる。
「本当は丸一日、休日が取りたかったのだが、調整がつかなかった。
すまない」
申し訳なさそうに周瑜は言った。
「周瑜様、お休みなの?」
小喬は心底、ビックリとした。
結婚する前からお姉ちゃんに注意をされて、できる範囲で小喬は守っていた。
忙しい人に我が儘を言って困らせてはいけない。
好きになったのだから、我慢しなさい。
『妻』になるということはそういうことなのだ、と。
大好きという気持ちだけで自分勝手をしてはいけない。
だから夜の間だけでも独り占めできることが法外に嬉しくて、満足していた。
「こちらに来てからほったらかしで悪かった。
寂しい思いをしただろう」
周瑜は小喬の頬を撫でる。
大きな手のひらは自分とは異なる温度をしていて、硬さも違う。
鍛錬を欠かさない手のひらだった。
「ううん! 大丈夫。
毎日、楽しいから!
ちゃんと結婚して良かったと思ってる」
小喬は上体を起こして、一生懸命に言った。
甘い色の瞳が細められる。
長い指先が乱れた小喬の髪を直す。
周瑜も体を起こし、小喬の肩を包み込むように抱く。
「そんな素晴らしい妻にささやかな贈り物だ」
小喬の手のひらに金属の欠片を落す。
「鍵?」
綺麗な新品の金の鍵には絹の染め抜かれた房が付いていて、それだけでも芸術品のようだった。
「この屋敷にはいくつもの鍵がかかっている場所や箱が存在している」
艶やかな落ち着いた声が内緒話をするように言う。
「うん。入っちゃダメなんでしょ?」
小喬は鍵を見ながら言った。
「この鍵は、それのどれかを開ける秘密の鍵だ。
鍵で開けられる場所はたった一つしかないし、鍵も複製したものがないからこれ一つだ」
周瑜は重大なことを告げる。
「スゴいね」
小喬は事の大きさに胸が高鳴るのを感じる。
「だから昼に私が帰ってくるまでに、ちょっとした遊戯をしていて欲しい。
探検というほどの探検ではないが鍵を開けて欲しい」
周瑜は言った。
小喬はじっと周瑜を見上げる。
「もし周瑜様が帰ってくるまでに開けられなかったら?」
そうしたら遊びは終わりなのだろうか。
秘密の鍵は回収されて、わからないまま終わる。
ちょっぴり残念だ。
「私が案内する。約束だ」
優しい声が小喬を安心させるように言う。
「じゃあ、競争だね!
朝が楽しみ。
ありがとう、周瑜様」
鍵をしっかりと握りしめたまま、小喬は抱きついた。
忙しい人がちゃんと小喬のことを考えてくれていることも嬉しかった。
お休みを取るのだって大変だったと思う。
お屋敷でお昼を一緒に食べるのだって気を使ってもらった結果だ。
その間、独りぼっちの小喬が寂しくならないように準備もしてくれた。
こんな素敵な鍵はすぐさま用意できるはずがない。
すっごくすっごく大切にされていることがわかって、小喬の小さな胸は喜びでいっぱいになってしまう。
◇◆◇◆◇
翌朝。
朝ご飯を一緒に食べて、『行ってらっしゃい』と周瑜を見送ることができた。
屋敷を管理したりするのが女主人の務めであり、家を守るということであり、『妻』の役目だと姉からは何度も聞かされていた。
耳が痛くなるほど念押しされたのだった。
けれども、小喬にはちっとも求められていなかった。
お屋敷の人たちは小喬のことを『奥方』と呼ぶものの、……おそらく『妻』らしからぬ行動を咎めたりはしない。
娘時代のように振舞っていても、穏やかにしている。
これで屋敷のことが整わなかったら問題なのだろうけれども、代々仕えてくれている人たちの手によって、滞りがない。
小喬が興味を持てばみんな丁寧に教えてくれた。
ので、小喬は遠慮なく遊戯を始めた。
鍵のかかる部屋は把握済みだから楽勝だと信じていた。
すぐに見つけて、周瑜様を驚かそうと意気込んでいた。
が、どれも鍵穴に反して、鍵が小さいのだ。
「んー。
部屋じゃなくて、引き出しとか、宝物が入っている箱の鍵?」
首をかしげながら、小喬は呟く。
そうなると範囲が広すぎる。
地道に試してみるが、なかなか鍵穴とあわない。
小喬の焦りとは裏腹に日が高くなってきた。
自力で見つけ出したかったのに。
小喬は唇を尖らせる。
ためいきになりそうな息を飲み込んで、小喬は部屋に入る。
小喬が普段過ごすため、と用意された部屋だった。
気の向くままに居場所を変えるために、小喬がこの部屋で大人しくしているのは稀だった。
「さすがにこの部屋にはないよね」
そう言いながらも目に付いたのは鏡台。
その引き出し。
毎日、見ているから中身は知っている。
お姉ちゃんから嫁入り道具として貰った物が入っている。
装身具だったり、紅や白粉といった化粧品やお香。
……この引き出しには鍵はかかっていない。
でも、けれども。
小喬は足音を気にしながらそっと近づく。
敷物が引いてある鏡台の前に座り込んで、静かに引き出しを開けた。
滑らかに開かれた引き出しの中には、見たことのない小箱があった。
朝、身づくろいをした時にはなかった。
小喬は大きく目を見開き、息をするのを忘れた。
小箱は黒漆塗りで螺鈿細工の蝶が一羽、蒔絵の花に止まっている。
そして小箱には……鍵がかかっている。
小喬は唾を飲み込む。
慎重に小箱を取り出して、鏡台の上に置く。
金の秘密の鍵を鍵穴に刺し込む。
あつらえたように鍵はピタリと吸い込まれて、捻れば、カチャリと小さな音を立てて、小箱の鍵は開いた。
震える指先で小箱を開ける。
桃色珊瑚をくりぬいて、透かし彫りをした繊細な指輪が入っていた。
指輪の幅は狭く、印象的な緻密な彫りは職人に技術力を試しているようだった。
「綺麗」
小喬は呟いた。
「さすがに見つかってしまったか」
艶めいた低い声が降ってきた。
「え、周瑜様!?
おかえりなさい!」
小箱を持ったまま、小喬は振り向く。
熱中するあまり、まったく気配に気がついていなかった。
小喬のすぐ傍に周瑜は腰を下ろした。
「気に入ってもらえただろうか?」
「うん、すっごく!
鍵をもらってからね、ずっと楽しかったの。
鍵自体が贈り物だった。
こんな素敵な贈り物は初めて!」
伝えたい気持ちがちっとも表せない。
どれだけ嬉しかったか。
どれだけの喜びなのか。
全然、伝えられない。
小喬の知っている言葉を全部並べても、今の想いを表現することができない。
それが小喬にはもどかしかった。
「それなら良かった。
ただいま、小喬」
大きな手が小喬の頬を春風よりも優しく撫でる。
それから反対側の頬に柔らかな感触がした。
「さあ、一緒に昼餉を食べようか」
ごく間近に甘い色の瞳があって、小喬の心臓はドキッと弾む。
「うん、周瑜様。
ありがとう」
高鳴る鼓動が恥ずかしいと思いながら、小喬は頷いた。
夜ぴったりとくっついて眠るときのように心音が聞こえなくてホッとした。
差し出された手を取って、一緒に食堂を向かう。
秘密の鍵と漆の小箱は引き出しに大切にしまいなおしてから。
宝物も、想い出も、また一つ増えた。
小喬は満面の笑顔を浮かべる。