そろそろ二喬が江南に来て一年。
忙しさも一段落したことだし、記念的なものをしたい。
いつもかまってやれない分、何か形に残るものでもあれば……。
周瑜は考えるが、妻は意外とわきまえている。
歳よりも幼く見えるが、その中身はきちんとした佳人だ。
無邪気な笑顔でちょっとした我が儘というものの、周瑜を困らせることはない。
周瑜を困らせるような行動に出る時は、必ず理由があった。
妻なりに考えて、出した行動だった。
気を使ってもらっているのは、こちらばかりだ。
深窓の佳人に多いような贅沢な品をねだることもない。
華やかな染めの絹の衣も、白い肌に映えるような装飾品も、好まなかった。
院子に咲いた花に喜び、美しい月夜に喜ぶ。
漢詩を贈ればいつまでも眺めているし、一つ一つを大切にしていた。
他人を喜ばせるのがここまで大変だとは思わなかった。
周瑜は諦めて、本人に訊くことにした。
◇◆◇◆◇
満月まであとわずかの月が静かに照らす夜。
昼と夜が時を同じくする日付も過ぎ去った。
揺れる灯燭の中。
「欲しいものがあったら教えて欲しい。
どんなものであっても用意をしよう」
周瑜は切り出した。
小喬は淡い色の瞳を半ば伏せる。
単純に喜ぶかと思ったら、何やら考えこむようなことがあったらしい。
繊細な長い睫毛が白い肌に陰を落とす。
歳相応の愁いを帯びた表情だった。
あるいはこの季節にふさわしい春愁の姿だった。
「……本当に、どんなものでもいいの?」
確認するように澄んだ声が言った。
「もちろんだ」
周瑜は頷いた。
「じゃあ、一つだけ。
次のお仕事がお休みの日に叶えて欲しいものがあるの。
ちょっと、難しいかな?」
不安げに小喬は尋ねた。
淡い色の瞳が周瑜は見つめる。
わずかな風でも揺れる灯燭のように揺れていた。
「どんなものでいい、と言っただろう?
休みの日に行きたい場所でもあるのか?」
周瑜は穏やかに尋ねた。
小喬は目を瞬かせた後、
「本当にお休みの日をとってくれるの?」
確認する。
今までいくつかの約束を破ってしまったのだから、仕方がないことだろう。
周瑜の立場上、どうしても小喬に無理を強いる場面が多かった。
長くは続かない平穏だからこそ、どうしても我が儘を言わない妻の願いを叶えたかった。
「一日ぐらい大丈夫だろう。
休みは調節されている。
孫策が逃走して問題を起こしても、城には戻らないと本人に念書を書かせる。
周りにも頼んでおこう」
周瑜は約束した。
「ホント!?
次のお休みの日が楽しみ♪」
小喬の声が弾んだものになる。
「どこに行きたいんだ?」
「ナイショ。当日までヒミツ」
嬉しくてたまらない、と言った小喬は屈託なく笑う。
「そうか」
周瑜は目を細めて頷いた。
◇◆◇◆◇
約束の休みの朝。
周瑜はかなり日の高い時間に目覚めた。
目を開けば、妻の上機嫌な笑顔。
「おはよう、周瑜さま」
弾んだ声が朝の挨拶を告げる。
幾何学模様の格子の嵌まった玻璃越しの光は、明るすぎた。
小喬の淡い色の髪をキラキラと象っていた。
「だいぶ寝坊をしてしまったな。
すまなかった」
周瑜は上体を起こして、謝った。
「いいの。わざと屋敷のみんなに頼んだの。
周瑜さまを起こさないでって」
寝台の上でちょこんと座っていた小喬は言った。
動きやすい恰好を好む妻にしては珍しく、裳裾の長い衣をまとっていた。
華奢な手首にはいくつかの金属の細い輪が通されていた。
明るい髪の色には院子で開いたばかりの花だろうか。
甘い香りがする瑞々しい花が季節の到来を感じさせる。
「どうして、そんなことを」
周瑜は驚く。
「だって二人きりだもん。
周瑜さまの寝顔を見られるなんて、あたしだけの特権でしょ」
小喬は楽し気に言う。
「だが……朝餉は食べたのか?」
「二人で食べたかったからまだ。
今日は、どんなものもでも叶えてくれるんでしょ?」
「ああ」
周瑜は頷いた。
「だから周瑜さまと二人きりの時間が欲しいの。
いつもお仕事が大変そうだから。
みんなに頼られている周瑜さまの時間を独り占めにしたいの。
贅沢でしょ」
小喬は朗らかに笑う。
「そんなことでいいのか?」
「これ以上ないぐらいの我が儘だと思うんだけど。
やっぱり……ダメだった?
お休みの日なら、いいかなって」
淡い色の瞳が不安げに尋ねる。
「ささやかな願い事だな。
普通はもっと欲しいものがあると思うのだが」
周瑜は小喬の頬を撫でる。
玉のようにしっとりとした手ざわりだった。
「綺麗な衣よりも、綺麗な玉よりも、一緒にいられる時間の方が大切だよ。
孫呉の周瑜さまじゃなくて、あたしだけの旦那さまとして丸一日付き合ってもらうんだもの」
小喬は周瑜の手に己のそれを重ねる。
小さな手は生命の重みを知っている手だった。
夢見るだけの佳人ではない。
本当だったら、戦火から遠ざけておきたかった。
乱世の中においても、夢のような平穏の中に置いておきたいと思う。
「他にして欲しいことはないのか?
どんなことでも付き合おう」
周瑜は言った。
「じゃあ、まずは一緒に朝ご飯かな?
お姉ちゃんに習ったから、お茶も上手に淹れられるようになったんだよ。
待っててね、周瑜さま」
小喬は周瑜の頬に小さく口づけをすると、寝台の上からひらりと降りていく。
まるでこの時期にしか舞わない胡蝶のように。
春の香りをまとわせながら、去っていく。
それをぼんやりと周瑜は見送った。
「まったく、敵わないな」
妻を喜ばせたかったのに、こちらが喜ばせてもらってばかりだ。
今日、一日は、きっとそんな時間になりそうだった。
それが妻にとっては贅沢で、叶えたいたった一つの願い事。
幸福な一日になる予感しかなかった。