その人の話していることは、小喬にとって難しい言葉が多かった。
それでも年上のはずの青年が子どものようにキラキラした瞳で語る姿は、印象に残った。
◇◆◇◆◇
父が亡くなってから、たくさんの人が訪問してきた。
金銀細工を山のように積んだ人もいた。
詩経に出てくるような詩を作った人もいた。
武力でもって屈しようとした人いた。
戦利品のように扱うようにした人もいた。
でも、それらは小喬の心を打つことはなく、素通りしていった。
小喬は知っていたのだ。
双子のように育った淑やかで麗しい姉である大喬を得るために、オマケ扱いをされていることを。
姉は、小喬と一緒じゃなければ、どこにも嫁ぐ気はない、と公言していた。
見た目に反して頑固なところのある姉だ。
それを覆すことは容易ではなかった。
その内、求婚者が現れなくなったらどうする、と心配する親族もいた。
今までのように二人で暮らしていくだけです、と姉は言った。
離れ離れずにすむ、小喬にとっては嬉しいことだった。
たとえ身内が二人だけになっても、ずっと一緒なのだ。
変わらない毎日が待っているだろう。
そう思っていた。
あの日までは。
炎のように熱く激しい訪問者が現れた。
今までの求婚者と違ったのは、金銀細工を積むわけでもなく、物語のような言葉で愛を告げるわけでもなかった。
ただ真っ直ぐに姉を見つめていた。
小喬はそれを見て、確信してしまった。
二人で一緒の日々は、これでおしまいなのだ、と。
ためいきをつきそうになり、小喬は姉から離れた。
今までたくさん迷惑をかけたから、姉には幸福になって欲しかった。
だから、一人で院子に出たのだった。
そこで小喬は声をかけられたのだった。
訪問者とは義兄弟の仲だという青年だった。
物語に出てくるようなたたずまいの夢見るように美しい青年だった。
小喬のような小娘を相手をしなくても、困らなさそうな青年は『院子を案内して欲しい』と言った。
『好きにすれば?』と言いかけて『さすがに親友の恋路の邪魔になりたくないから付き合って欲しい』と困ったような笑顔で言われたのだ。
どうやら、小喬とあまり変わりのない立場らしい。
小喬は姉に院子の案内をしてくる、と告げて背の高い青年と共に院子に出た。
季節は良い季節だった。
甘い香りがする花が咲いていたし、緑の葉が艶々と輝いていた。
周瑜と名乗った青年は自己紹介をした。
いつもの求婚者と違ったのは、小喬への求婚ではなく、本当に自己紹介だったことだった。
自分ひとりでは叶えられられない願いだけれども、補佐をして叶えたい願いがある。
天下統一。
争いのない世の中を作りたい、と。
子どものようなキラキラした瞳で、青年は語った。
院子に咲く花たちがふさわしく。
穏やかに、それでいて輝かしく。
その夢を、小喬は間近で見たい、と思った。
亡き父の望む暮らしとは違った。
姉が頑なに言っていた暮らしとは違った。
小喬は、生まれて初めて、自分の意思で選んだのだ。
青年の間近にいる、そのことを。
夢見るような暮らしの中にいる少女には現実感の伴わないものだった。
正確に『妻』になるという意味に気がついていなかった。
純粋な想いだけが湧き上がってきて、口にしていた。
「あたしもその夢を一緒に見たい」
そう小喬は言ったのだ。
甘い色の瞳が驚いたように、小喬を見た。
それから、百花も失せるような笑顔を青年は見せたのだった。
小喬の心臓はでたらめな音を奏で始めた。
全力疾走したよりも落ち着かなかったし、何故だか緊張をした。
ただ今までの誰かと違って、無視することも、瞳を逸らすこともできなかった。
それが求婚の言葉への返事だということを姉の大喬に言われるまで気がつかなかったぐらい、小喬は幼かった。
◇◆◇◆◇
新しい暮らしは意外に不満がなかった。
見える景色も、肌を包む温度も違っていたけれども、姉と一緒にいられる時間が少しばかり減ったぐらいだった。
夫になった青年は、小喬の行動を咎めることはなかった。
淑女にあるまじき行動であっても。
妻として品性のある行動でなくても。
屋敷にいる間は自由にさせてくれた。
あるいは城にいる間は、説得に回ってくれたぐらいだった。
なので、少女時代と変わらない暮らしを小喬は与えられていた。
知らない場所、というのは刺激的だった。
小喬は時間が許す限り、あちらこちらに足を向けた。
そうしていなければ、暇になってしまうからだ。
時間の潰し方などいくらでも知っていたはずなのに、胸にぽっかりと穴が開いたような、寂しい時間が増えていったのだ。
決まって、一人きりの時に。
青年が仕事で忙しい時に。
一緒にいられる時間は心が踊った。
小喬には難しい言葉であっても、聴いているだけで楽しかった。
その反動だろうか。
持て余し気味の感情に、小喬は途方に暮れていた。
◇◆◇◆◇
その夜は、久しぶりに姉の大喬と一緒の寝台で眠った。
結婚をする前のように。
父がいた頃のように、双子のように。
手を繋いで、二人揃って、枕を並べたのだ。
それというのも、夫が遠征中だったからだ。
大きな戦のようだった。
準備も入念に行っていたし、出かける先から戦勝報告以外にも、手紙が必ずに届けられた。
それでも姉である大喬には不安なようだった。
だからこそ、小喬は姉の屋敷に呼ばれたのだ。
蜜蝋が溶けた薄暗い寝室の中で、大喬は口を開いた。
「小喬は、周瑜様のどこが好きなの?」
大喬は言った。
たくさんありすぎてわからないところだった。
「全部が大好き」
小喬は素直に答えた。
青年は、一度も姉である大喬と比べたことがなかった。
小喬自身を見てくれた。
まるで大切な宝物のように扱ってくれた。
子どものように夢を語る姿も好きだった。
本当に、みんな大好きだった。
「お姉ちゃんこそ、どうしてそんなことを訊くの?」
小喬は疑問に思った。
「……ちょっと不安になっちゃって」
歯切れ悪く大喬は言った。
「孫策様はお姉ちゃんのことが大好きだと思うけど?」
小喬は城中で起きる大騒動を思い出して言った。
最愛の妻の顔を見たい。
それだけの理由で大切なお仕事を抜け出して、お姉ちゃんの部屋に訪れることしばし。
神出鬼没な孫策様を捕まえるのは、義兄弟である周瑜様のお仕事になっていた。
遅れていく仕事の穴埋めをするのも。
孫策様のおかげで、周瑜様と一緒にいられる時間が減っているのは、あまり嬉しくない事実だった。
それぐらい孫策様はお姉ちゃんのことが大好きなのは、周知の事実のようなものだった。
「何だか置いていかれちゃいそうで、不安になっているの」
まるで消えた蜜蝋のように溶けていきそうな雰囲気だった。
今にも泣きそうな声で、大喬は言った。
「じゃあ、ついて行っちゃえば?」
小喬は提案した。
置いていかれるのが不安なら、一緒にいればいいのだ。
そうすればずっと一緒だ。
「そんなこと……。
お邪魔になってしまうわ」
大喬は言う。
こういうのを『淑女の鑑』というのだろうか。
小喬にとって、難しい注文である答えだった。
「訊いてみなきゃ、わからないよ」
小喬は言った。
自分の心さえ、あやふやでよくわからないことがあるのだ。
他人の心なんて、もっとわからない。
それに質問したところで、全部、答えてくれるとは限らないのだ。
「ご迷惑になっちゃうでしょ。
それに私は、孫策様の帰ってくる場所になりたいの」
まるで自分に言い聞かせるように大喬は言った。
「ふーん、そうなんだ」
小喬は納得できないものの、これ以上、口を挟むのを辞めた。
お姉ちゃんにはお姉ちゃんの考え方があって、ちゃんと答えが決まっているのだ。
頑固なお姉ちゃんの決意を覆すのを難しい。
小喬は経験上、知っていた。
帰ってくる場所。
それが小喬の心の中に残った。
どこにいても。
どれだけ離れていても。
必ず、大好きな人が帰ってこれる場所。
それはどんな楽園なのだろうか。
小喬自身が、それができればいいのだろうけれども。
きっと性に合わあない。
最期まで一緒にいたい、と思うだろう。
たとえ、それがどんな場所であっても。
キラキラした瞳が語っていた夢の欠片なのだから。