ふわっと花が咲いた。
竹簡ばかりがある部屋の中には、不釣合いな香り。
外にあるのがふさわしい。
そんな香りが目の前でした。
この時期に、花を求めるのは容易ではない。
それに書斎に花を活けても、墨の香りでかき消されてしまう。
春先や夏に咲く、濃厚な香りを持つ花でなければ、室内に色を添えるに留まる。
だから、書斎には花瓶がない。
「また難しい顔してる!」
小魚が跳ねるような元気な声が言う。
子どものように小さな手が、竹簡の上端をつかみ、卓に伏せる。
周瑜は、不満顔の妻と出会う。
華やかでありながら嫌味のない花の香りとは違い、その表情には険があった。
「小喬……」
「ダメ!
今日は周瑜さまのお話、聞かないんだから」
「大切な仕事なんだ。
この仕事が終わったら、きちんと」
「ダメ」
竹簡はすべるように卓の上から、小喬の腕の中に移動する。
つかみそこなった周瑜は、ためいきを一つ。
宝物のように竹簡を抱きしめている妻を見て、思考を巡らせる。
簡単には返してはくれないだろう。
理を説いても意味はない。
小喬は、意味もなく、我儘を言ったりはしないのだから。
仕事の邪魔をした理由があるはずだ。
周瑜は見落としてしまった。
けれども、小喬は気がついてしまった。
そんな原因がある。
「アタシ、知ってるよ。
ずっと周瑜さま、難しい顔していた」
玉のように美しい、大きな瞳が周瑜を見つめる。
長く繊細なまつげに縁取られたそれは、透き通っている。
湖水よりも、玻璃の欠片よりも、澄んでいる。
「大切なお仕事かも知れないけど。
全然、進んでない。
昨日から、こればかり見ている。
ずーっとだよ。ずーっと!」
「すまなかった」
周瑜は言った。
用件を聞くのは、いつ終わるともわからぬ仕事の後で。
そう言われて、不機嫌にならない人間などいないだろう。
ないがしろにしたつもりはなかったのだが、『つもり』だ。
結果は、目の前にあった。
いつでも笑顔でいて欲しい人物は、唇をへの字に曲げていた。
「だからね」
少女の不満顔が心配顔になる。
「だからね。
ちょっとぐらいは、お休みしよ。
アタシはお姉ちゃんみたいに、完璧にはできないけど。
お茶ぐらいは淹れられるようになったんだよ」
竹簡という人質を取った少女から差し出されたのは、いたわり。
我儘ではなく、気遣い。
周瑜は、ためいきになりそうだった息を喉で殺す。
自分の至らなさに対するためいきは、失礼だ。
「そうだな。
小喬の淹れたお茶が飲みたい」
「うん。
すぐに淹れてくる!
それまで、これは人質だからね」
小喬は、手にした竹簡をひらひらと見せる。
無邪気な仕草に、周瑜は目を細める。
それを見た少女は満面の笑みを浮かべた。
「すぐだから、待っててね。
周瑜さま!」
跳ねるように、小喬は部屋を後にする。
周瑜は卓に肘をつき、目を伏せる。
書斎には、甘い花の香りが残っていた。
軽快な足音が聞こえてくるまで、周瑜は花の香りに耳を澄ます。
外は良い天気だろうか。
花を探して、遠くまで足を延ばすのも悪くないだろう。と。
周瑜は思いを巡らせるのだった。