昨日は会議。
その前は、視察。
このところ、ずっと忙しそう。
でも、と……ちょっとだけ思う。
孫策さまは、今日もお姉ちゃんのとこにいた。
お仕事を抜け出して。
周瑜さま、ばっかりが忙しい。
広い城の中を隅々まで歩く。
顔見知りに会うと、みんな教えてくれる。
小喬の旦那様がどこにいるのか。
でも、教えてくれた場所にはいないのだ。
困ったような顔をして、部屋に残っていた人たちは教えてくれる。
さっきまでここにいたけど、もういない。
誰からも頼られる将軍は、とても忙しいのだ。
小喬は、さらに歩く。
歩き慣れた道に映る自分の影を踏みながら。
今日、小喬は朝寝坊をしてしまった。
夜更かしをしたためだ。
その夜更かしも、結局、意味がなかったのだけど。
朝寝坊をしたため、小喬は旦那様にあいさつができなかったのだ。
『おはよう』も『いってらっしゃい』も。
昨日の分も合わせると4つもしていない。
この調子では、5つめと6つめのあいさつも怪しい。
『お帰りなさい』も『おやすみなさい』も、満足に言えない。
小喬の大好きで、とっても大切な人は、忙しいのだ。
空は今日もいい天気で、お日様も気持ちいいのに。
心の中は、灰色の曇り空だ。
それも、これも、みんなお仕事のせい。
泣きたくなる。
小さな子どもみたいに、声をあげて泣いたら、駆けつけてくれるだろうか。
心配しなくてもいい、と抱きしめてくれるだろうか。
そんなことを小喬は考える。
「――」
小喬は立ち止まる。
衝立の向こうから知っている声が漏れてくる。
間違えるはずのない、声だ。
部屋の前に、護衛の人影もないし、部屋の戸は閉まっていない。
重要な話ではないようだ。
立ち聞きしても、叱られたりはしない……はず。
よく耳を澄ます。
小難しい内容で、意味がわからない単語が何個かあった。
程なくして、椅子と床がこすれる音と衣擦れの音、足音がした。
話し合いが終わったのだ。
小喬はパッと顔を輝かせる。
衝立に回り込む。
「周瑜さま」
小喬は夫の背に声をかける。
「……小喬」
ためいきのような呟き。
呼ばれたのにちっとも嬉しくない。
「お仕事、一区切りついた?
あのね……」
「すまない。
まだ、仕事が残っているんだ」
周瑜は小喬の話の腰を折り、早口で言った。
わがまま言うつもりなんて、なかった。
ちょっとだけ。
……言いたいことがあったから、言わなきゃいけないから。
だから、言おうとしてきただけなのに。
遊んでほしいんじゃなく……って。
「昨日も、一昨日も。ずっとダメって。
じゃあ、いつになったらいいの?」
気がついたら、訊いていた。
困らせるってわかってるのに。
そんなことをしちゃいけないって、知ってるのに。
「しばらくは無理だ」
周瑜はゆるく首を横に振る。
「明日も、明後日も、ダメなの?」
「仕事が立て込んでいるんだ」
「いつになったら、暇になるの?」
訊いちゃダメなのに、勝手に口が動く。
絶対、周瑜さまに迷惑かけちゃうのに。
答えづらいのに。
「……わからない。
しかし、私の妻になったからには、我慢して欲しい」
飲み込むには、堅くて苦い言葉。
小喬の胸の中に、いがいがと落ちていく。
苦しくて、痛くって。
「……それじゃあ、結婚した意味がないよ!
周瑜さまのバカッ!」
小喬はきびすを返した。
これ以上、話したら泣いてしまいそうだった。
小さな子どもみたいに、大声で泣いてしまいたかった。
走って、走って。
追いかけてくれないのに、気がついて、小喬は走るのをやめた。
ふいに、姉夫婦を思い出す。
口論になり、大喬が部屋を飛び出すと、夫である孫策は追いかける。
謝って、二人は仲直りをする。
比べるのは、間違っている。
孫策さまはお仕事サボるけど、周瑜さまはサボったりしないもん。
だから、孫策さまみたいには追いかけてくれないんだ。
小喬はトボトボと歩き、一室に入り込む。
部屋の中には誰もいなかった。
墨の香りがする部屋。
いつの間にか好きなっていた。
手習いは、あまり好きではなかったはずなのに。
それを連想させる墨の香りも、好きではなかったはずなのに。
部屋の片隅で、小喬は膝を抱える。
壁にぴたりと背中を預けていると、なぜか安心できた。
周瑜さまなんて……大っ…………嫌いになれないよ。
◇◆◇◆◇
周囲に諭され、仕事を取り上げられた。
派手な夫婦喧嘩は、あっという間に広がってしまった。
誰も彼もが、小喬の肩を持つ。
周瑜の仕事量が増える一因が得意げに忠告してきたので、軽く殴っておきたくなった。
が、大人気ないので実行には移さなかった。
かわりに、降って湧いた今日からの休暇は、有効に使わせてもらうことにした。
周瑜は、妻を捜し歩く。
道で顔見知りとすれ違うたびに、からかわれ、あるいは神妙な面持ちで警告される。
妻を大切にしている『つもり』だったようだ。
周瑜は自嘲する。
姉の大喬のところにも、自宅にもいなかった。
いったい、どこへ消えたのだろうか。
ここ江南では、頼れる者もいないはずだ。
周瑜はためいきを飲み込んだ。
頼みとなる親類もいない。
文化も違う。
そんな異郷に嫁いできた。
いくら姉が側にいるとはいえ、途惑わなかった、と言ったら嘘になるだろう。
寂しくない、と言ったら偽りだろう。
微塵もそんな素振りを見せなかった。
毎日は、新しいことの発見で、楽しいことばかりだ。
幼いまま、身体だけ大きくなったようなところのある妻は、たいがい上機嫌だった。
だから、気がつくのが遅れた。
周瑜は違和感を感じて、立ち止まる。
この奥は、周瑜に与えられた執務用の書斎だ。
入り口に立つ衝立がいつもと違うような気がした。
立っている位置が、今朝と微妙に異なる。
周瑜は不審に思いながら、部屋に入る。
薄暗い部屋の中、小さな身体をもっと小さくして眠る少女がいた。
「ここにいたのか」
安堵が吐息になる。
まさかここにいるとは、思わなかった。
ここにだけは、いないと思っていた。
周瑜は眠りを妨げないように、細心の注意を払いながら、傍らに膝をつく。
ふいに大きな瞳が開いた。
長い睫毛が夢見るように瞳を淡く縁取る。
「周瑜さまだ」
眠りから醒めたばかりの声が嬉しげに言う。
小さな手が周瑜の袖をつかんだ。
「さっきは、ごめんなさい。
お仕事、大切ってわかってる。
でもね。
周瑜さまに言いたかったの」
頼りげのない笑顔を見せる。
泣き出しそうな目と微笑みを浮かべる口元が不揃いだった。
強く鼓動が打ち、胸が痛く、締めつけられる。
「おはようって」
小喬は言った。
短い言葉だった。
そんなもののために、妻は城へ来たという。
ありきたりで、本当に短い言葉だ。
どんな詰問よりも、苦い。
鉛を無理やり飲み込むようだった。
寂しかった、と言わない分、その言葉は重かった。
短い言葉の中に、全部つまっていた。
「私のほうこそ、すまなかった。
今までの詫びには足りないだろうが、明日は一日中、話を聞かせてほしい」
「お仕事は?」
「仲直りをするように、みなに言われた。
仕事よりも、優先だそうだ」
「じゃあ、まだケンカしてるって、ことにしたら、お休み増える?」
瞳を瞬かせながら、小喬は尋ねる。
「そんなことをしなくても、明日は一日休みだ」
「本当? うれしいー!」
胸の前でポンと手を合わせて、無邪気に笑う。
妻らしい表情に、周瑜もまた笑みを零した。
お題配布元:周小祭 「周小好きに10のお題」 7. 喧嘩