地の果てまで染める夕焼けの中。
見事な夕空を讃頌できることもなく、呼吸は整っていなかった。
陸遜は体全体を使って、息を吐きだしては吸っていた。
手が握っている剣の柄ですら、頼りがない。
鉄製のそれの斬れ味は良いとはいえないだろう。
空を染める色に彩られて、鉄に似た味がするものがへばりついている。
刃も研ぎなおさなければならないだろう。
そこまで思考回路は回るものの、動けないでいた。
用が済んだのなら、本陣に帰還するべきだろう。
陸遜のような若輩で、使い勝手の良い駒というのは、広げられた遊戯盤に常にいなければならない。
陸家の当主、遜には。
けれども少年にはできなかった。
自分ひとりだけが呼吸をしている場所で、ただ時間が流れていくのを待っていた。
そう……待っていた。
それは夕焼けよりも鮮やかなもの。
それは血よりも鮮やかなもの。
それは花よりも鮮やかなもの。
孫呉の旗よりも鮮やかなもの。
綺麗なものを待っていた。
ここで立ち止まっていれば迎えに来てくれるのではないか。
そんな可能性に賭けていた。
戦場で悠長なことをしている、とは理解していたが、それは陸家の当主が考えることだった。
少年自身の気持ちではない。
願いではない。
鮮やかな赤い衣をまとった一つ年上の少女が走ってきた。
矢よりも真っ直ぐに脇目も振らずに、少年の場所まで。
「陸遜!」
雲雀のように高い声が少年の名を呼ぶ。
孫家に仕えると決まった日に、改名された名前を呼ぶ。
孫呉が誇る弓腰姫と出会った日から、変わった名前を少女は呼ぶ。
意味も知らず、理由も知らず、真っ新に、素直に呼ぶ。
だから、少年も『陸遜』として振舞う。
少女は全力で駆けてきたのだろう。
少年のすぐ傍まで来ると、何度か深呼吸をして息を整える。
それから顔を上げた。
その拍子に淡い色の髪が揺れる。
ふれたら極上の絹糸のような艶やかな髪は女性としては短く、簡単に飾り紐が彩っているだけだった。
大振りの金の耳飾りが残照を受けて煌めく。
心臓をぎゅっとつかまれたような錯覚を起こすほど、美しい情景だった。
少年は満足をした。
この瞬間のために今まで生きていた、と思った。
激戦を潜り抜けた理由も、切り捨てられると思うような困難な作戦も、全部、どうでもいいことになってしまった。
怒りも、悔しさも、何もかもが溶けて消え去った。
残ったのは喜びという感情。
「酷い顔をしているわ。
……まるで人殺しのような顔」
尚香は言った。
陸遜は半ば目を伏せる。
ぬらぬらする剣の柄は知っている。
これは自分の汗や負傷したところから流れた血だけではない、と。
「ような、ではなく、私は人殺しですよ、姫」
陸遜は微かに笑った。
まだ笑う気力が残っていたのか、と自分でも不思議に思うほど表情を動かすことができた。
戦場では不釣り合いな声で訂正する。
赤い夕焼けでも隠し切れないほどの血が流れ、物言わぬ肉の塊があった。
呼吸をしているのは二人だけだ。
少年と少女だけだった。
「そうだったわね、陸遜」
尚香は明るく笑った。
まるで建業の宮城の院子にいるように、鮮やかに。
「私も同じぐらい酷い顔をしているかしら?」
天気を尋ねるような口調で尚香は訊く。
答えはひとつに決まっている。
「この夕暮れです。
わかりませんよ」
陸遜は断言した。
もう日は落ちかかっている。
夕暮れは去り、夜の帳が落ちていく。
何も隠して秘密という薄絹に包んでしまうだろう。
今、交わしている会話ですら。
「そうね。
遠めじゃわからない」
尚香は一歩、陸遜に近づいた。
仄かな甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。
「こんなに近くにいないと」
何もかも暴いてしまう真実の鏡のような瞳が間近にあった。
手を伸ばせば届く距離。
抱きしめることも、唇を奪うこともできる。
けれども、少年は微笑むにとどまる。
「知っているのは私たち二人だけです」
陸遜は言った。
「じゃあ、秘密にしておかないと。
さあ、帰りましょう」
尚香はすっと離れる。
遊び友だちの距離に元通り。
いつもの二人の距離。
「あなたを待っていたんです」
少年は二人でいられる時間だからこそ、夕暮れが終わろうとしているからこそ、心の底にあった言葉を告げた。
「だから、言ったでしょう? 陸遜。
帰りましょう、って。
迎えに来たのよ」
尚香は言った。
陸遜とは違い、裏も表もない少女だったから、本当のことだろう。
真実だ。
「ありがとうございます」
少年も素直に感謝を告げた。
たとえ、明日が見えなくても。
未来がわからなくても。
今、だけで充分だった。
華やかな終焉の中で、二つの影は付かず離れず、あるべき場所に帰っていった。