建業。
戦は後味の悪いものになった。
孫子兵法を残した孫氏の末裔と呼ばれ、尚武の国。
戦上手が揃っている国であっても、常勝ではいられない。
群雄割拠の時代だったから誰もが『天下統一』という夢に美酒のように酔ったが、孫呉は違った。
負けない戦を続けていた。
版図を広げるという理由を持つ者もいないわけではなかったが、多くはもっと小さな夢を描いた。
先祖伝来の地を守りたい。
この国に生きる民を守りたい。
愛する家族や友人を守りたい。
それが武器を握らせた。
だからこそ、終わったばかりの戦は誰もが厳しい顔をした。
建業でも上等な一室。
髪が短いのやや風変わりな少女が泣き続けていた。
他者に闊達で明朗な印象を与える美少女は、上等な絹の白い衣をまといながら静かに泣いていた。
拭うことなど思いつかないのか、大きな瞳から大粒の涙をポロポロと流していた。
それを白い衣をまとった少年は何も言わずに影のように見守っていた。
……見張っていた、という方が近いかもしれない。
玉が砕け散らないように、新しい孫呉の主に頼まれたのだ。
少年は少女と歳が近く、お目付け役のような遊び相手に任されていたためだ。
「私が代わりに死ねば良かったのに。
総大将も守れない役立たずだもの」
絞り出すように孫呉の末姫は言った。
何度目だか、数えるほど飽きるような言葉だった。
くりかえすように言う姿は、姫とかしずくのふさわしい風情だった。
が、いつもの姿を知っている少年にとってはただただ痛々しかった。
孫呉の弓腰姫。
お転婆で知られた少女は揶揄いと親愛でそう呼ばれているのだ。
女だてらに戦場の最前線で武勲を立てくる。
性別を間違って生まれ落ちたに違いない、そう囁かれる少女だった。
それでも少女が孫呉を、大地を、民たちを愛しているように、皆が少女を愛していた。
「哀しいことを言わないでください。
あなたは生かされたのです。
亡くなった人の分だけ生きていけないのです」
少年は同じ言葉をくりかえす。
誰からも愛された少女だったから、玉のように守られていた。
無二の宝石のように。
その緑の瞳が連想させるような玉のように、大切にされていた。
「……残酷ね」
泣き濡れた瞳がようやく少年を見た。
孫呉に下った陸家の当主は微かに笑った。
「そうですね」
陸遜は頷いた。
大切な人物を喪ったばかりの少女に、生きていく意味を突きつけるのは酷いことだろう。
正論なんて耳が痛くなるだろう。
わかっていたが、陸遜は根気強く同じ言葉を口にした。
『いつだって心のままに自由に生きていて欲しい』
その願いは孫呉に生きる人々の中の共通意識としてあった。
祈りのような願いは、少年の胸の中にも存在している。
「こんな時まで陸遜は微笑んでいるのね」
尚香は言った。
もうその頬に涙は流れていなかった。
そのことに陸遜は安堵した。
「そうですね。
涙の流し方なんて忘れてしまいましたから。
それに、その分だけ姫が泣いてくださるじゃないですか?」
陸遜の微笑に苦みが混じる。
最後に泣いたのは、いつだっただろうか。
悲しくて泣いたのだろうか。
悔しくて泣いたのだろうか。
肉体が傷つけられて反射のように泣いたのだろうか。
忘れ去るほど、昔のことだった。
孫家に仕えると決めてから、泣いたことなどなかった。
一つだけ歳上の少女の遊び相手を任されてから、泣くような場面はなかった。
「こんな時まで、他人任せなの?」
緑の瞳は射るように真っ直ぐだ。
純粋な人だから。
真っ直ぐな人だから。
弓矢のように心を貫く。
「こういう時は、誰か一人ぐらい冷静じゃないといけませんから。
それが私の役割だと思っています。
だから、姫は存分にお泣きください」
陸遜は静かに言った。
誰かが冷静でいなければならないのなら、それが自分でも良いはずだ。
泣きたい人だけ泣けばいい。
人間として冷たすぎるのかもしれないが、国の主が代替わりした時こそが肝心だった。
他国が喜んで侵入してくるだろう。
『天下統一』という大義身分を掲げて。
紅蓮のように燃える旗を違う色に染め変えるようとするだろう。
愛するものを守るためなら、どんな手段も選んではいられない。
兵は詭道なり、というのだから。
「そう。じゃあ、泣けない陸遜の分まで泣いてあげるわ。
うるさいぐらいに、泣くわ」
尚香は強がりを言う。
こんな時まで優しい人だ、と陸遜は思った。
誰かの代わりに泣くなんて、器用なことは自分にはできないことだろう。
効率から外れた感情だった。
それが目の前の少女らしくて羨ましかった。
初夏に院子を染め尽くす緑の木々のように、眩いぐらいに煌めいていた。
「内緒にしておきますよ」
陸遜は言った。
公平で、平等で、誰よりも孫呉を愛している人だから、きっと誰のためでも心のままに、泣くのだろう。
理解はしていたが、今はこの時だけは、自分だけを想っていてくれる。
玉のように美しい緑の瞳に映っているのは自分だけだ。
ほんの少しの時間だけかもしれない。
それでも独占する栄誉を与えられたのだ。
そのことがたまらなく嬉しかった。
「二人だけの秘密?」
尚香は尋ねた。
「素敵な響きですね」
陸遜は言葉をかみしめるように微笑んだ。
蜂蜜よりも甘い秘密だった。
二人だけ、なんてまるで恋人同士のようだった。
友愛だとわかっていたけれども、陸遜には嬉しかった。