幸せになりたい

「幸せになりたい」
 尚香はポツリと呟いた。
 それは小さな小さな声だったから、雨音にかき消されそうだった。
 尚香は窓辺に椅子を置き、静かに窓の外を見ていた。
 陸遜には表情はわからない。
 どんな心情で呟いたのか。
 それすらわからない。
 お転婆姫の遊び相手に選ばれて、ずっと一緒にいる。
 それなのに『幸せになりたい』と零した気持ちがわからない。
 せめて表情がわかれば違うのだろうか。
 いや、きっと少女は振り返って微笑むだろう。
 遊び友だちには、それ専用の顔を見せるだろう。
 雨脚が激しくなってきた。
 まるで少女の涙のようで、少年の胸が痛む。
 陸遜の鼓動は、自分のものではないように、でたらめに鳴る。
 こんな時、どうすればいいのだろうか。
 優しく肩を抱けばいいのだろうか。
 微笑みを浮かべ、手を握ればよいのだろうか。
 陸遜には、慰めの言葉すら思い浮かばない。
 ただただ少女の少し下りた肩を眺めることしかできない。
 自分の無力さに陸遜は、ためいきをついた。
 どうすれば『幸せ』にしてあげることができるのだろう。
 まるで尚香の胸の内を表すように、雨はどんどん激しくなっていく。
 雨音の中だから呟いたのだろう。
 聞かせるつもりのない言葉だったのだろう。
 陸遜は偶然、耳にしただけだ。
 一つ歳上の孫呉の姫は駻馬のようだが、他者を困らせるようなことはしない。
 そんな少女が呟いた言葉。
 『幸せ』にするには、どうすればいいのだろうか。
 涙のような雨を聞きながら、そればかりを陸遜は考えた。
 いつでも笑っていてほしい。
 陸遜にとって、とても大切な少女だから。
 孫呉の末姫だからではない。
 陸家の当主だからではない。
 遊び友だちに選ばれたからではない。
 いつの間にか、全てになってしまった少女だから。
 悲しみなど知らないでほしい。
 雨音が響く、静かな部屋の中で願った。


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