異なる足音を夕焼けが彩っていた。
院子に敷き詰められた石の道を踏む音は、終わる季節を見送るようだった。
あと一月もしないうちに年が改まる。
一つ歳を重ねる。
それが感傷的な気分にさせるのだろう。
あるいは城に漂う空気が、そう感じさせるのかもしれない。
落ちていく夕日を目に映しながら、尚香は考え事を続ける。
いつもとは違う雰囲気。いつもとは違う気持ち。
ふいに、隣で奏でられ続けた足音が止まった。
少女は驚いて、立ち止まる。
上の空だったことに気を悪くしたのだろうか。
遊び友だちの顔を探る。
同じほどの背丈の少年は微笑んでいた。
秋に拾って、綺麗な漆の箱にしまいこんだ実と似た色の瞳が、尚香を見つめる。
「私は」
空に浮かぶ雲を追うような、そんな遠くを見る目で、少年は少女を見た。
「見つからないものを探していました」
「それは、見つかったの？」
居心地の悪さを感じながら尚香は話の腰を折る。
陸遜の言葉の続きを聞きたくない、と思った。
この先を耳に入れたくない。
「いいえ。見つかりませんでした」
少年はゆるく首を振った。
「見つかるまで、探せばいいじゃない。
どんなものを探していたの？
私も一緒に探してあげるわ」
尚香は言葉を並べる。
探し物が気になったからではない。
ただ、陸遜の話を聞きたくなったから、思いついたことを口にしただけだった。
「もう、良いんです」
はしばみ色の瞳が伏せられ、また開く。
尚香の心臓がドキリっと跳ねた。
「見つかるまで、ずっと一緒にいられるような気がしたんです。
だから、見つからないほうが良かったんです。
初めから……探し物はなかったんです」
後悔するような調子で、陸遜は言った。
遠い過去の記憶を訪ね歩くような顔をして。
「ずっと一緒にいたかったんです」
冷めた口調。
諦めしかない言葉。
尚香は、これと似た声を聞いたことがある。
耳を塞いでも、勝手に入りこんでくる嫌な声だ。
今までもたくさん聞いてきた。
これからも、同じ数だけ……生きていく数だけ聞くと知っていた。
それでも、陸遜は言わないと信じていた。
尚香を置いていった人たちとは違う、と信じて……願っている。
少女は少年を見据える。
キリキリと糸が張られる音がする。
「あなた、と」
嬉しそうな顔をして、陸遜は言った。
優しい笑顔。
優しいだけの笑顔。
尚香のことをこれっぽちも考えてくれない笑顔。
今までたくさん見てきた笑顔。
少女の胸の内で、極限まで絞られた弦が放たれる。
「勝手に」
わかってしまった。
わかりたくなんてなかったのに、わかってしまった。
みんな、そうだったから。
尚香の前から消えていった人たちがそうだったから。
「勝手に思い出にしないでよ！」
体全体で少女は叫んだ。
悲しかったからではなく、悔しかったから。
今まで見送った人たちの分まで、悔しかったから。
「私のこと、考えてくれるんだったら！
本当に考えてくれたんだったら、どうしてそうなるの！？
今更よ。
そう、今更だわ」
次から次へと文句があふれてくる。
八つ当たりだとわかっていても止まらない。
「一人で逃げるなんてズルいわよ！！」
ズルい。
優しい笑顔で、優しい言葉で、尚香を蚊帳の外にする。
少女は手を伸ばして、少年の衣をつかむ。
夕日色のそれは難なく手に入る。
「私の気持ちはどうなるの？」
手を伸ばせば届く距離にいるのに、陸遜は離れていこうとする。
遠くに行こうとしている。
「ずっと、一緒にいられると思ってた。
今だって思ってるわ。
どうして……」
質問したって返ってこないことのほうが多い。
本当のことは教えてくれない。
尚香が孫呉の姫だから。
どんな絵柄でも、玻璃の器を雨ざらしにする人物はいない。
一つ前の季節に拾った実のような双眸が、辛そうに微笑んだ。
「内密にするように言われていたんです」
「ここまで喋ったんだから、同じでしょ」
「そうですね」
二つの視線がようやく交わった。
「明日、ここを出立します」
「戦に行くの？」
尚香はつぶやいた。
見慣れた少年の顔には、ひどく優しい笑顔が張りついていた。
瞳を見なければ、気づかない。
初陣を迎えた日よりも、もっと無表情な笑顔だった。
「はい」
声がとても似ていた。
命の終わりを見つめている人たちの声に。
最期に聞く声に。
耳をふさぐことのできない声に。
「死にに行くの？」
尚香は尋ねた。
自分の声が、とても細くて、女みたいで嫌だった。
「いいえ。
守りたいものを守るために行くのです」
陸遜は力強く言う。
衣をつかんだままの尚香の手が、そっと包まれる。
尚香の手よりも、いつの間にか大きくなっていた手が告げる。
嘘ではないことを。
「一人で行くのね」
尚香を置いて……行くのだ。
いつも一緒にいてくれた遊び友だちも、背を向けるのだ。
「申し訳ございません」
陸遜は微笑んだまま言う。
決意の固さに、少女は唇をかむ。
「許してあげる」
尚香は衣から手を離した。
振りほどかれる前に、自分から手を離す。
「陸遜は特別だから」
喉までこみ上がってきたものを誤魔化そうと、少女は踵を返した。
「だから、許してあげる！」
「……姫」
「いってらっしゃい」
駄々をこねたって変わらないのだ。
我が儘を言っても叶えてくれないのだ。
だったら、潔く送り出すしかない。
それでも……、それでも。
こんなに苦しくなるのはどうしてなのだろう。
「行ってきます」
少年のよく通る声が告げる。
広い空を飛ぶ鳥よりも、よく通る声だった。
少女は口を結び、こぶしを握りしめる。
振り返らないように足の裏に力をこめる。
尚香は足音が聞こえなくなるまで、そうしていた。
力を抜いたら、きっと手を伸ばしてしまう。走り出してしまう。引き止めてしまう。
そして……。
尚香はまぶたをこすり、顔を上げる。
夕日はすでに落ち、空は夜の領分となっていた。
銀の星が月の涙のように瞬いているのが目に映る。
葉を落とした木々の間を駆け巡る風の音を聞きながら、尚香は侍女たちが探しに来るまで立っていた。
少年がひそかに出立した朝、少女は熱を出して寝込んだ。
どちらも望んだように、別れの言葉を口にせずにすんだのだった。
窓から、淡い陽光がちらちらと差しこむ。
それが鳥の羽みたいだ、と尚香は思った。
光は寝台から距離があり、手を伸ばしても届かない。
少女は体を起こした。
いつもよりも眠ったから、体の節々が痛む。
尚香は衾褥を押しのけ
「まだ歩き回らないでくださいね。
本調子じゃないんですから」
水差しを替えにきた侍女に見咎められた。
「熱なら下がったわよ」
「まあ。
もっと遅かったら凍っていらっしゃったかもしれないのですよ。
これっきりになさってくださいね」
侍女は大げさにためいきをつく。
「そうね。これっきりがいいわね」
掛けなおされた衾褥に、尚香は口をへの字に曲げた。
今までやりすごせていたのに、今回だけはできなかった。
一人であそこを離れることができなかった。
「姫のご加減が優れないと、心配なさる方が大勢いらっしゃるのですから」
侍女はぶつぶつと言いながら、古いほうの水差しを抱える。
「今はどこかしら？」
踊る光を目で追いながら、少女はつぶやいた。
「何かおっしゃいました？」
「何でもないわ。考え事してただけ」
侍女を追い払うために、尚香は衾褥にもぐりこんだ。
「眠たくなったみたい」
「では失礼します」
侍女は一礼をして退がる。
全然、眠たくない尚香は目だけ動かして、鳥の羽のような光を見つめる。
「今、どこにいるの？」
ここにはいない人物に問いかける。
「あなたも心配してくれる？
立場が反対よね。
それとも、私らしいって笑ってくれるかしら？」
尚香は言った。
「見つからないものって、あなたみたいね」
どれだけ探しても、見つからない。
どこかにいるのに見つからない。
それが正解のような気がして、少女は微笑んだ。
帰ってきたら、少年に訊いてみよう。
当たっていても、間違っていても、きっと面白いだろう。
尚香は満足を覚えて、目を閉じた。
再会する日をぼんやりと数えながら。