陣営の、一番上等な天幕の中で、高い音が鳴り響いた。
「いらないっ!」
差し出した手は振り払われた。
力加減されずに手を打たれたのだから痛い……はずだったが、陸遜にはわからなかった。
きっと、ここが戦場だからだろう。
戦況が刻々と、変化しているからだろう。
そちらに神経を集中させているから、瑣末に感じたのだろう。
少年は瞬きするほどの時間で、結論を出した。
孫呉の誇るお転婆姫を、どうやって、ここから離脱させるか。
思考は巡る。
「あなたと私、生きている世界が違うって言うなら。
そんな世界は私が終わらせてあげるわ!
陸議」
尚香は言った。
「……ご存知だったのですね」
少年は微笑んだ。
戦場特有の雑音は、パタンと消えた。
まるで、戸を閉めたときのように。
堂の中で独り、こもっているときのように。
少女の発した言葉だけが、耳の奥でうなる。
それは江が騒ぐときの音に良く似ている気がした。
何故だろう。
彼女だけには知られたくなかった。
少女の前だけは『陸遜』でいたかった。
陸議という名がこだまする。
自分はまだ陸議で、どこまで行っても変わらない。
名を変えたら、生まれ変わって、もう一度やり直せると思いこんでいた。
でも――。
「ええ、知っていたわ。
だけど、私が知っているのは『陸遜』、あなたなのよ!」
少女は全身で叫ぶ。
それは戦場を焦がす炎よりも強く、明るい。
「孫呉の城で出会ったのは陸遜だった。
ずっと一緒にいたのは陸遜だった。
私は陸議なんて知らないわ!」
「姫……」
「同じ空を見て、同じ大地を歩いてきた。
ずっと同じ世界にいた。
陸遜は私と同じ世界にいたのよ」
「私が言いたかったのは」
「ここで陸議の世界はお終いよ。
いい、ちゃんと聴いていて」
炎よりも熱い緑の瞳が、少年を射る。
「私は、確かに孫呉の弓腰姫。
孫家の末姫よ。
そして、あなたは孫家に忠誠を誓った陸家の当主」
「ですから」
「でも、私が欲しいのは陸家の忠誠じゃないの!
私が大切なのはあなたなの。
同じものを見て、感じて、ずっと一緒にいた大切な陸遜。
だから」
尚香は飾りげのない笑顔を浮かべた。
「どっちかが、死ぬまで一緒よ」
すとんと少年の胸の中に、言葉が落ちる。
嬉しかった。
少女がくれた言葉がとても嬉しかった。
「では、今がそのときです」
少年は食い下がる。
孫呉の姫がこんな場所で失われてはいけない。
将として、名だたる者と渡り合っての末にあるものなら、本望だろう。
あるいは兄でもある、主君を守りきっての終わりにあるものなら、名誉であろう。
後に激戦と伝えられるような戦場で散ったというのなら、念願であろう。
だが、ここではない。
こんなところで、消える光ではないのだ。
「陸遜。
あなた、私に死んで欲しくないんでしょう?」
切れ味の良い刃物で、斬られたときのように。
少女の言葉は小気味よく、心を斬る。
「はい」
少年は一番の願いだったから、うなずいた。
「だったら、努力しなさい!
私が生き残れるように、最後まで考えなさい!
陸遜、あなたは軍師なんでしょう!?」
尚香は言った。
少年は――、陸遜は、ようやく息を吐き出した。
首の辺りにあった緊張が、ふっと解けた。
「そうでした。
……そうですね、姫のおっしゃる通りです」
陸遜は、笑顔を浮かべた。
逃がすことばかりを考えていた。
二人で生き抜くことを考えていなかった。
『陸遜』を孫呉に帰すことを、すこしも考えていなかった。
「あなたのご期待に応えてみせましょう」
それは困難かも知れない。
楽観視できるような戦況ではない。
けれども、陸遜は言い切った。
尚香は、笑顔をさらに深くした。
「さあ。一緒に行きましょう」
差し出された手。
陸遜の手は振り払われたというのに。
尚香は手を差し伸べる。
その不思議さを気持ちよく思いながら
「はい!」
陸遜は答えた。