いつものように、微笑んだ

 あのとき。

 緑の瞳が不安に揺れていた。
 それを知っていたのに、陸遜は微笑んだ。
 微笑むしかなかった。
 他に、どんな表情を浮かべれば良かったのだろうか。
 思い返しても。
 何度、考えても。
 くりかえし、くりかえし、思考しても。

 あのとき、微笑むしかなかった。

 それでも後悔しているのは、泣き出しそうな緑の瞳が痛かったからだ。
 陸遜の心を茨のように傷つける。
 泣いて欲しくない、この世で一人の人だから。
 目の端に浮かんだ雫を見つけてしまって、無力な自分を嫌悪した。

「結婚するの」
 少女は言った。
「おめでとうございます」
 少年は微笑んだ。
 緑の瞳は、真っ直ぐに陸遜を見つめた。
 見つめて……笑顔を作った。
「ありがとう!」
 一つだけの歳の差は、大きい。
 こんなときに陸遜は痛感する。
 大切な少女は、嬉しそうに言ったのだ。

 二人の間には、約束はなかった。
 将来を語り合ったこともない。
 何もない。
 孫呉の末姫とそれに振り回される臣下。
 それだけの関係だった。
 一歩、踏み出せば変わったかもしれない。
 今、ここで違う言葉を言えば、変わった……はずだ。

 けれども。
 何もかも捨てて逃げるには、彼女は優しすぎるし、自分は弱すぎる。
 故郷を離れ、愛する人たちと別れ、期待を裏切って、……逃げた先に「幸せ」があるのだろうか。
 確信がないから踏み出せない。
 「幸せ」にする自信がないから、言い出せない。
 全部を手に入れようとして……。
 結局。
 一番大切なものを手放す。
 少年は静かに決断した。
 この世界で一番美しいと、感じる瞳が……涙も流さずに泣いていた。
 陸遜は、ためいきと胸に広がる苦味を押さえつけて、口を開いた。

 それは万感。
 たくさんの思いが交錯する。
 その中で、少年は息を吸い込んだ。
 今日の空のように、晴れやかであることを祈って。
 微笑む。

「お幸せに」

 遠く離れていく大切な人に。
 別れを告げられるほど、まだ大人にはなりきれていないから。
 千の想いをこめて、万の希望をこめて。
 叶って欲しい「願い」を代わりに、陸遜は言った。
 誰よりも幸せになって欲しい。
 自分よりも、ずっと幸せでいて欲しい。
 もう目にすることもできなくなる緑の瞳に、陸遜はいつものように微笑んだ――。


 あのとき。
 陸遜はいつものように微笑んだ。
 それ以外の表情を浮かべることなど、できなかったのだから。


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