「私はこの椅子にふさわしいだろうか」
白い衣に身を包んだ青年が言った。
尋ねるというよりも確認するかのように。
まるで弱音を零したように。
ぽつりと呟いた。
目の前には黄金の椅子。
曹の姓を持つ者だったら、誰もが欲しがる椅子。
青年自身も、最も欲しがっていた椅子だった。
ただ他の曹の姓を持つ者が欲していた理由とは、いささか異なることを痩躯の男は知っていた。
一つしかない椅子だったから欲しかったわけではない。
自分とは異なる色の双眸を持った憧れの父が座っていた椅子だったから、欲しかったのだ。
たとえ黄金で造られていなくても。
煌びやかな王宮の中になくても。
それが父が座っていたものだったら、つましい木造りの椅子だろうと。
畑の側に置いてあるような休憩用の椅子だろうと。
青年は欲しがっただろう。
父の子として。
「この天の下、あなたほどふさわしい方は他にいらっしゃいません」
司馬懿は断言した。
「そうか」
母親譲りの双眸の青年は頷いた。
この大地の王になることに意を決したようだった。
「私が玉座を就く前に。
まだ人の子である内に確認したいことがある」
曹叡は言った。
「いくらでも」
司馬懿は鷹揚に言った。
そのためにこの青年をここまで導いてきたのだ。
他の曹の姓を名乗る者から守ってきたのだ。
それが優秀な教え子の望みであったから、というのは表向きだ。
司馬懿は自分の欲に忠実だった。
今はいない教え子とは違った意味で、上手く天下を治めるだろう。
そういう確信があったからだ。
誰にでもできることではない。
曹叡は、父の遺した意味を知り、その道を破壊することなく、青草たちが繁栄する未来を歩んでくれるだろう。
「父は母を愛していただろうか」
早くに母を亡くした子は尋ねた。
これは確かに玉座に座る前にしか訊けないことだろう。
玉座に座るからには民草の親になるのだから。
ただ一つの存在を愛するだけではいられない。
見返りを求めず、太陽のように公平に、身も心も差し出さなければならない。
だからこそ、司馬懿は目の前の椅子に座りたいとは一度も思ったことがなかった。
そんなものになりたくなかったからだ。
「私は曹丕様や曹叡様のように詩人ではないので語釈で構いませんか?」
司馬懿は念を押した。
「構わない。
一番、父の側にいたのはそなただからな。
誰よりも詳しいだろう」
曹叡は言った。
「曹丕様は甄姫様を愛したことは一度もありませんでした」
司馬懿は言った。
人払いがすんでいる空間だったから、それほど大きな声で言ったわけではなかったが、妙に空虚に響いた。
青年が嘆息を零す前に司馬懿は口を開いた。
「出会ってから、甄姫様が亡くなってもなお、玉座から降りて、人の子として命が尽きる瞬間まで、恋をしていらっしゃいました」
司馬懿は言った。
弾かれたように飴色の瞳が司馬懿を見た。
「見返りを求めずに施すのが仁です。
愛の本質でしょう。
曹丕様の心は、ずっと引きずられていました。
甄姫様だけを想い、常に対等であることを、想った分だけ想い返してもらえると信じていました。
たとえ途中で天意によって分かたれてもなお、恋をしていました。
曹叡様を愛していましたが、甄姫様には恋をしていました」
司馬懿はためいき混じりに言った。
鬱屈とした帝王の唯一の人間らしい感情だった。
平等に大地を愛した帝王だった。
天から授けられた子だった。
今はいない。
ただ、その天子が遺した子が司馬懿の目の前にいた。
次なる玉座を座る者として置いていったのだ。
「納得していただけましたか?」
司馬懿は問う。
玉座に座る前の人の子は、不器用に笑った。
泣くのを堪えるように。
喜びをかみしめるように。
「……そうか。感謝する。
そなたは得難い臣下だ。
私は曹魏の親になろう」
文人風の雰囲気をまとった青年は宣言をした。
「感謝には及びません。
どうぞ、長々しい治世をおひきくださいませ。
それを臣も味わいたいと思います。
美酒のように」
司馬懿は微笑んだ。
「もちろんだ。
父から譲り受けた最大の愛だからな」
青年はその雰囲気には裏腹に力強く宣言をした。
きっと青年は、青草を良く茂らせる太陽になるだろう。
司馬懿もまた青空の下、そよぐ青草の一つになれるだろう。
そう確信した。