悼痛


 希望は常に、絶望と共にやってくる。


 炎天の中を立ち尽くす。
 黒く伸びる影のように、男は大地に縛りつけられている。
 透明な鎖は目に映らない。
 その重みだけがずっしりと肩に、背に、かかる。
 これまでも、いままでも、その重みはあったのだろう。
 気がつかなかった。

 忘れていた。

 孤独は常に寄り添い、影を落とす。
 曹丕は、天を仰いだ。
 陰りのない、全き太陽が座していた。
 人という生物は、独りで生まれ、独りで死んでいくものだという。
 その言葉に間違いはない。
 泣いて生まれてくるほど、この世界は辛い。
 人は何度も涙を流し、何度も叫びを上げ、生きていく。
 それほどまで苦しい生の最後。
 それすらも、独り。
 誰かを道連れに死んでいくものもいるが、結局、死ぬ瞬間は独りだ。
 人の一生は何で決まるのだろう。
 泣いて、泣いて、最後の瞬間まで独りで、精一杯に生きた一生。
 歴史に名を刻むことすらできない者もいるだろう。
 あるいは、風にさらされて消えていく者もいるだろう。
 『生きる』ということは残酷だ。
 天からは一片の慈悲もない。

 何のために生きている?
 ――国のためだ。
 何のために死んでいく?
 ――国のためだ。

 生きるのも、死ぬのも同じ理由。
 どちらも大きな差がない。
 ならば、生きるのも死ぬのも、差がないのかもしれない。
 曹丕の思考は、沈んでいく。 

 一人になってしまった……。

 その事実が重い。
 人は独りで生きているというのに、一人が辛い。
 暮れ惑うとき、導いてくれる光は……もう消えた。
 痛みが酷いとき、癒してくれる温もりは……もう、ない。
 懐かしむほど遠くない。
 思い出すほど色あせてはいない。
 身近な痛みが曹丕の心を惑わせる。
 ここに縛りつけ、先に進めなくさせる。
 どうしていいのか、わからない。
 答えなど決まりきっているはずなのに、答えを探している。
 違う答えを探している。
 曹丕が思い悩むとき、立ち止まるとき、差し出される答えのように。
 自分自身では考えつかない、柔軟な答えを探している。
 今はいない……佳人が言うであろう答えを探していた。

 ためらいがちな視線。
 かけようとしてかけられない言葉。
 
 それが曹丕を現実に引き戻した。
 思考は中断される。
 曹丕は良き皇帝としての自分を取り戻す。

「父上」
 他人行儀な声が呼ぶ。
 曹丕は言葉の続きを待つ。
 けれども、曹丕の後ろに立っている人物は沈黙を保つ。
 烈日が二つの影を焦がす。
 時が無為に流れていく。
 そういえば、と曹丕は過去を思い起こす。
 己も父に話しかけるのは得意ではなかった。
 用を切り出すのが難しかった。
 忙しい人だと理解していたから、時間を取らせて、手を煩わせたくなかった。
 だから特に用があるときだけ、話しかけるのだが、鋭い眼光をまともに見ると、萎縮した。
 長じてからは、どうしても耳に入れなければならないときだけしか、父の元へ向かわなかった。
 使者を立てるか、書簡をしたためるかで、やり過ごしていた。
「父上」
 流暢ではない言葉。
 言い慣れていないことが、すぐわかる。
「…………っ。
 ……私は……。
 ……! 申し訳ありません!
 失礼します」
「用があったのだろう?」
 曹丕は振り返らず、息子を止める。
 地面には二つの影。
 己ではない影が小さくうなだれていた。
「未熟者ゆえ、話す言葉もまとめられず……。
 お耳に入れるような、重大な用もなく、静思のお邪魔をしてしまいました」
 影はますます小さくなる。
「話したいことがあったのだろう。
 時間はある。
 思うままに、話していけ」
 曹丕は言った。
「人は。
 ……人は、一人で生きていくものではありません。
 一人で生きるのなら、伴侶などいらないはずです。
 私では、母上の代わりなどできません。
 でもっ。
 いくらかのお手伝いはできると思います」
 震える声は、それでも言い切る。
 曹丕は振り返り、母を亡くしたばかりの子を見た。
 自分が妻を亡くしたように、子は母を亡くしたのだ。
 妻に良く似た色の双眸が曹丕を真っ直ぐ見ていた。
 曹叡の言葉は、妻の受け売りだろう。
 言い切ったということは、そういうことだ。

 希望は常に、絶望と共にやってくる。

 探していた答えだ。
 『人は一人で生きていくものではない』
 妻ならそう言うだろう。
 曹丕を見据えて『頼って欲しい』と言うだろう。
 ここにはまだ妻の遺していったものがある。
 姿形が消えたとしても、残るものがある。
 伝えられていくのだ。
 妻の生きたその証は……、こうして。
 体がふっと軽くなった。
 透明な鎖の存在は、気にならなくなった。
「頼りにしている」
 曹丕は息子の肩を叩いた。
「はい!」
 曹叡は頬を上気して、力強くうなずいた。
 天から一片の慈悲がなくとも、天と地の間には人の数ほどの想いがある。
 優しさ、いたわり、慈しみ。
 仁の心は、人との関係の数だけあるのだ。
 曹丕は微笑んだ。

 まだ、一人ではない。
 だから、ここで生きていける。
 曹丕は歩き出した。


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