環抄書 二〇八年

 まだ幼い弟が死んだ。
 賢く、誰にでも優しい弟だった。
 苦しまずに、死出の旅に出られたのだろうか。
 眠るように安らかな顔が救いのように、見えた。
 優しい弟だったから、残る者たちのことを考えていたのかもしれない。
 それほどに穏やかな死に顔だった。
 ……そう。
 どれほど優しくても、そこにあるのは亡骸だった。
 二度と目を開けることもなく、話すこともない。
 横たわる事実には『優しさ』は、ひと欠片も見当たらなかった。
 幼子の枕辺に、影のように寄り添っていた男が口を開く。
「倉舒の死はわしにとっては大きな悲しみだが、お前にとっては喜びだ」
 乱世の姦雄と称させて喜んでいた男は、そこにはいなかった。
 子の死を嘆く親がいた。
 『お前が代わりに死ねばよかったのに』
 言葉は曹丕の胸を打ち、何度でも何度でも響く。
 強く、弱く。また強く。
 戦場で叩かれる銅鑼のように。
 宴で奏でられる鼓のように。
 くりかえし耳の奥で、楽のように揺らぐ。
 目の前にある死は動かし難いものであり、代わることはできない。
 死は誰の下にも平等に滑りこむが、その時期は平等ではない。
 天命。
 人智を超えた先にあるものが決めた長さの分だけ、人間は生きるという。
 焔の中で兄の生命が断ち切られたように、幼い弟の生命もまた燃え尽きたのだ。
 兄たちが死に、曹丕は残った。
 ここで、幼い弟が死に、曹丕が残った。
 それが全て、答えだ。
 もし、神というものがいて、天命を書き記しているというのなら。
 これが答えだ。
「――何しろ、これでお前がわしの後継者になれるのだからな」
 曹一族の主が唾棄するように言った。
 愛息の死。
 その嘆きは深いのだろう。
 何に譬えても足りないほど、悔やまれるものなのだろう。
 磨耗した刃色の眼が曹丕を映していた。
 青年は、二度と微笑むことのない弟に視線を滑らした。
 優しい弟だった、と心の奥で反芻する。
 喪われたことが感覚として伴わない。
 だから、くりかえす。
 優しい弟……『だった』と。
「そうですね」
 曹丕は口元に笑みをにじませた。
 弟の死は、自分にとって大きな喜びだ。
 これから背負っていく言葉を、青年はかみしめた。
「出て行け!
 お前のように情の欠けた者と話したくはないわ」
 子を亡くした親は叫ぶ。
 耳鳴りになるほど鋭い音だった。
「失礼いたします」
 曹丕は父に一礼して、真っ直ぐに部屋を出た。
 己の居場所はここにはない。
 青年は死に背を向けて、歩き出す。
 廊下にも、いや、そこかしこに悲しみが漂っていた。
 惜しい方を亡くした、と。
 涙が首飾りのように連なって、幼い弟を見送る。
 宴の余興を見ていると錯覚するほど揃った、忘却のための儀式。
 その中を、曹丕は無表情に行き過ぎる。 
 すれ違う人々は一様に眉をひそめる。
 精巧に作られた人形のように、みな同じ表情をし、慌てて目を逸らす。
 殺意よりも明確に、涙に暮れる人たちの顔には書いてあった。
 『倉舒様の死を子桓様は喜んでいらっしゃる』と。
 たとえ、曹丕が涙を流していたとしても、人々の表情は変わらないだろう。
 それがわかっていたから、青年は咎めたてずに応対した。
 一歩進むごとに、長い袖が空気をはらむ。
 色のない衣が、作られた風になびく。
 かりそめの風に喪衣が従う。
 背負う言葉が一つ増えたところで、荷の重さは変わらない。
 幼い弟の死のおかげで、曹丕が歩むべき道が明るくなったという事実は動かしようがない。
 曹操の後継。
 その血を受け継ぐ者であれば、一度は夢を見る座。
 黄金でできた冠よりも、玉石でできた椅子よりも、煌びやかな幻想。
 曹丕の手の中に、転がりこんできた宝石は、致死毒のような色をしていた。

    ◇◆◇◆◇

 私室の衝立を回り、また弟の死を確認する。
 飾り気のない白い衣をまとった妻が立っていた。
 金細工の簪や美しい玉の腕輪もなく、悼みの盛装だ。
 仙女のような容貌がより際立って見えて、それが皮肉じみていた。
 院子で咲き競う花よりも、艶やかな唇が開く。
「もうよろしいのですか?」
 繊細な睫毛に縁取られた飴色の双眸は、淡い翳が落ちていた。
 幽玄たる香りが、視線の中に漂っているようで、見る者にさまざまな印象を与えるだろう。
 悲しみ、愁い……そして、悼み。
 曹丕は鉛を飲み下したような、鈍い痛みを腹の辺りで感じた。
「ああ」
 青年は椅子に腰を下ろした。
 腕をついた卓子に、生気のない己の顔が映りこむ。
 まるで死体のような……。
 聞かなかった言葉が、告げられなかった言葉が、頭の中で浮かんでは、はじける。
 『お前が代わりに死ねばよかったのに』
 優しかった弟の枕辺で聴くには、耳障りな音の並びだった。
 だから聞かなかった。だから告げられなかった。……感じ取った。
 青年は、息を吐き出した。
 ふわんと。
 湿り気を帯びた女の香りが濃密にのしかかり、身構える前に、なよやかな腕が曹丕を抱きしめた。
 霞のような衣から現れた腕もまた白い。
 磨き上げられた玉のように、しっとりとした艶がにじんでいる。
「どうした?」
 曹丕は尋ねた。
 この姿勢では妻の表情は見えない。
 大方、新しい思いつきなのだろうが……。
「不快なら、やめますわ」
 甄姫の声が甘えるように、耳朶にふれる。
 衣越しに伝わってくる柔らかな感触とあたたかな人肌が心地良かった。
 溶けていく。
 片側だけの想いだと知っていたが、溶けていくと体に響いた。
 曹丕は、卓子の上で、握りしめていた拳を開く。
 手の平には爪跡が赤黒く残っていた。
「私は、このようなときまで女であることが、口惜しいですわ」
 歌うように、佳人は言う。
 まるで詩経を諳んじるように、陽気ですらあった。
 そういえば、今日の空は何色をしていたのだろうか。
 見上げる余裕すらなく、心にとどめておく余地すらなかった。
「今日ぐらいは、亡くなった方にお譲りするのが人道というものだと、わかっていても」
 吐息が曹丕の耳をくすぐる。
「何の話だ?」
「私が嫉妬深いという話ですわ。
 我が君の心が他所を向いているのが嫌ですの」
 整えられた爪が青年の頬を優しくなでる。
 普段は置かれている色はなかったが、百日紅の花弁のように輝いていた。
 壁のような女。
 瑕疵ひとつない。
「私の心が向いているのは、自身の喜びだ」
 曹丕は呟いた。
 どこか空虚に響きを宿して、己の耳に返ってくる。
 女の言葉よりも、音は乾いていた。
「まあ、私にまで嘘をつかれるのですか?
 喜んでいる方は、そのような顔をしたりはいたしません」
 甄姫は言った。
 顔を見てもいないのに器用な発言だった。
「倉舒の死は、私にとって大きな喜びだ」
 曹丕はくりかえす。
 父の言葉だ。
 ならば、そうなのであろう。
 この地では父の言葉は絶対で、それに刃向かう者は血族であろうと許されない。
「どなたがそのようなことを?」
「誰もが、そう思っているのだ」
 名を挙げるのも苦労するほどの数の人間が、そう思っている。
 私室に戻ってくるまで、すれ違った人物は三度指折り数えても、まだ足りない。
 判を押したような反応は、曹丕が飽き飽きするほどだった。
「それは我が君の考え違いですわ。
 私は、そうは思いませんもの」
 自信たっぷりに甄姫は言う。
「なるほど。甄は私のただ一人の味方というわけか」
 妻であれば、これぐらいの追従は当然なのかも知れない。
 曹丕の機嫌ひとつで運命が決まる女なのだ。
 自分自身の死を望むものは少ない。
「ただ一人かは断言できませんが、一番の味方ですわ。
 どこまでもついていくと、決めていますのよ」
「それが死出の道であってもか?」
 曹丕は微かに笑った。
 平坦な道を歩いていくのは許されない。
 背負った命の分だけ、険しい道を歩まなければならない。
「ええ、喜んで。
 我が君がお連れくださるのなら、死出の道も楽しいこと」
 甄姫は、曹丕の投げた嫌味すら素直に受け取って、言い切った。
 無償で差し出された信頼だった。
 青年はうつむいた。
 目を閉じて、大きく息を吐き出した。
 同じ姓を持つ者でも、刃を交える時代だ。
 信頼は、何よりの宝であったはずだが、曹丕は喜べなかった。
 部屋に沈黙が積み重なる。
 ぬくもりという鎖に囚われて、曹丕は動き出せなかった。
 断ち切るには心地良すぎた。
「惜しい方を亡くしましたわね」
 ポツリと甄姫は言った。
 部屋に戻ってくるまでに、何度も耳にした台詞だった。
「きっと。
 優しい方でしたから、悲しんでくれたでしょう」
 女はささやいた。
 まるで風にでも聞かせるように、静かに。
「我が君が悲しんでいると知って……、自分のことのように」
 悲しんでくれたでしょう、と甄姫は言った。
 誰も言わなかったようなことを、曹丕の妻は言った。
「……倉舒は。
 優しい弟だった」
 曹丕は、くりかえす。
 亡くなった弟は優しかった。
 本当に心根が美しく、優れていた。
 父が自慢したくなるのもわかる。
 そんな子どもだった。
 曹丕の持っていないものを、数え切れないほど抱えていた。
 誰にでも、優しい……。
 曹丕にも笑いかけるような、優しい弟だった。
 あの笑顔は見られない。
 それが……言いようがないほど寂しく思われた。


 二〇八年。
 魏は一つの可能性を失った。
 それは……赤壁の戦いを経て、明瞭となる。
 大きな可能性だった。
 天命はすでに下され、美しい落陽の準備を始めていたのだった。
 新たな柱は用意されている。
 誰も『代わりに』は死なない。
 初めから決められている命数の分だけ、生きるのだ――。


真・三國無双TOPへ戻る