花簪

 蓮の咲く池のような眠りから覚めると、簪に目が留まった。
 極限まで薄く削った玉の花弁を持つ簪は、数刻前まで佳人の髪を飾っていた。
 女の髪を解き、寝台の上に放ったのは曹丕だった。
 灯燭の頼りない光を受けながら、簪はひっそりと咲いていた。
 水面に浮かぶように、寝台の上で。
 青年は体を起こし、簪に手を伸ばした。
 ひんやりと金属特有の硬さと冷たさが手のひらから広がる。
 息が詰まるほど繊細な花は、香りがなかった。
 生きている花が持つ瑞々しさ。生命の輝きというものがなかった。
 その代わりに、簪には時が凍ったような、造り物にしかない美が宿っている。
 ふいに傍らのぬくもりが身じろぎした。
「――さらないのですのね」
 女のささやきが耳をくすぐった。
 熟れた果実のような色をした爪が這う。
 簪を握る曹丕の右手を、細い指が包みこむとする。
 青年は妻を見た。
 長い睫毛が重いといった様子で、双眸は半ば伏せられていた。
 意志の強さが宿る瞳に紗が下りているせいか、雨に打たれる花のような趣だった。
「美しい」
 紅に彩られた唇が動く。
 白い貌にあって、それは目を奪うほど華やかだった。
「とは、おっしゃってくださらないのですね」
 女は自然に言った。
 賞賛されることに慣れきった驕慢さ。力ある者への媚びへつらい。
 曹丕は探ったが、妻となった女からは欠片すら見出せない。
 疑問に思ったから尋ねた。と、いった風情だった。
「言えばいいのか?」
 曹丕は訊いた。
「いいえ。
 どうして、言わないのか。
 私はそれを知りたいのです」
 甄姫は言った。
 曹丕は簪に視線を移した。
 美しいものを美しいという。
 難しいことではない。
 青年は左手に、妻の髪を一巻きする。
 仕立て上げられたばかりの衣に袖を通すような、気持ちの良い感触を与えながら、艶やかな髪は嫋々と従う。
 重ねられていた甄姫の手が寝台の上に滑り落ちた。
 曹丕は緩くまとめた髪に、簪を挿す。
 黄金と玉でできた簪は、ゆるゆると引っかかることなく納まった。
「まあ」
 紅い唇からためいきが零れた。
「相応しくないからだ」
 曹丕は甄姫を見た。
 飴色の虹彩に囲まれた瞳孔がすっと細くなる。
「褒めていただけるように、よりいっそう努力しなければなりませんわね」
「相応しくないのは、言葉のほうだ。
 『美しい』だけでは足りない」
 最上であることを、言葉にすることは難しい。
 並べれば並べただけ、空虚になる気がした。
 心に感じたものから離れていく。
 曹丕は寝台に身を横たえた。
「我が君は詩人ですのね」
 脂粉の匂いが鼻腔をくすぐり、柔らかい女の肉が肌に貼りつく。
 曹丕は甄姫の腰に腕を回した。
「美しいと褒められるよりも、何倍も嬉しいですわ」
「甄に相応しい言葉が見つからないだけだ」
「とろけるような甘いお言葉」
 甄姫の指先が、曹丕の下唇にふれる。
 これ以上、言葉を紡ぐのを禁じるような仕草だった。
「骨まで溶けてしまいそうですわ」
「では、確かめてみるとしよう」
 曹丕は甄姫の体を押し倒す。
 何の抵抗もなく、女の体は寝台に組み敷かれた。
 肉の中には骨など残っていないように、やわやわと。
「嘘偽りないか」
 曹丕は甄姫の細い首にふれた。
 力をこめれば、簡単に折れてしまうだろう。
 指の腹で、女の中に流れる熱い血潮を感じた。
「奥までとろとろに溶けていますわ」
 甄姫はくすくすと笑った。
 曹丕は紅く色づいた唇から、息を奪う。
 花の香りにも似た蜜を味わうために、深く。
 甄姫の手が曹丕の頬を撫で、首をなぞり、やがて抱えこむように頭の後ろに回った。


 それから、曹丕はゆっくりと女の体に骨が潜んでいないか、隅の隅まで確かめた。
 奥までの言葉に嘘はなく、体は熱くとろけていた。
 水面に広がる波のような声に煽られ、お互いが満足するまで睦みあった。


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