がむしゃらに努力すれば、手に入ると思った。
教師たちが言うように、ひたすら努力した。
欲したものは――、結局、手に入らなかった……。
気がつかないうちに、自ら……手に入れる権利を放棄していたのだ。
知らないうちに、手放してしまっていた。
失ったものは取り返せない。
悔やむことが増えてきた……。
◇◆◇◆◇
不満をつけづらい日だった。
空は晴れ、穏やかに雲が漂っていた。
日差しはそれほど強くなく、風も邪魔にならない程度に吹いていた。
院子の花たちは、控えめに開いていた。
その香りは馥郁として、弟だったらすぐさま詩のひとつでも創ってみせたところだろう。
院子の途中に置かれた石の椅子に腰掛けていた青年は、春の情景を目に写しながら、まったく違うものを見ていた。
手に入らなかったもの。
それを、思っていた。
冬が終わり、春が来れば思う。
生命が歓喜に打ち震えるせいだろうか。
考えても栓のないことだとは、わかっている。
けれども、思考はそちらの方向へと流れていくのだ。
青みのある灰色の瞳は漂う雲を追いかけながら、違う情景を追いかけていた。
誰もが手にしているもの。
曹丕が手に入れられなかったもの。
ふいに、空気が揺らいだ。
脂粉の香りと金の飾りの立てる音と衣擦れ。
誰だかわかったので、曹丕は振り返らなかった。
絶世とも、傾国とも歌われる佳人が、青年の隣に座った。
真に美しいものは、どんな所作をしても美しいのだな。
音に引き寄せられながら、曹丕は思った。
隣に座った甄姫は、それきり身じろぎというものをしなかった。
風がそよぐ。
二人の、ほんの少しだけ空いた隙間にも、花の香りを乗せて。
佳人の金の髪飾りを鳴らしながら。
風が去る。
曹丕は甄姫を見た。
話しかけてくるのだろうか。と思い、待っていたが、甄姫は口を開かなかった。
切り出しづらい用件であっても、刃物のような切れ味で話す人物だ。
青年は不審に思った。
その気配を察したのか、飴色の瞳もまた曹丕を見た。
「お邪魔でしたか?」
甄姫の言葉に
「いや」
と短く、曹丕は答えた。
出口の見えない悩み事があったはずなのだが……。
こうして夫婦そろって座っていると、仲良く日光浴をしているようにしか見えないだろう。
口うるさい女官や高官たちに見つかれば、小言のひとつでも聞かされるだろう。
そう考えてみると、おかしなものだ。
外と内がそろわない。
曹丕は微苦笑した。
「何か用があるのか?」
「いいえ、ございません。
用といえば……そうですわね。
今、こうしていることが用ですわ」
佳人の声は、青年の耳朶に心地よく響く。
「我が君は考え事をしていらっしゃいました。
本当は、その中に入って行きたいのです」
飴色の双眸は真剣さながらの冴えがあった。
「ですが、私は我が君ほど智もなければ、詩心もございません。
相談に乗ることもできません。
だからと言って、蚊帳の外も面白くありません」
甄姫は言った。
変わった考え方をするものだ、と曹丕は思った。
卑屈にならずに、真っ直ぐこちらを見て意見を言う姿が、何よりも好ましい。
「せめて、空間を共有したかったのです」
それで隣に来た、という。
「居心地の良い場所とは思えないが」
「それを決めるのは、私ですわ」
甄姫は譲れない、と言った。
その強さはどこから来るのだろうか。
「好きにしろ」
「はい」
絶世の美女は、頑是無い幼子のように、とても嬉しそうにうなずいた。
曹丕には不思議だった。
が、不快ではなかった。
青年は院子に咲く花に目をやる。
薫り高い枝だ。
小さい花弁を持つ花がいくつも枝についている。
女が喜びそうな飾りになるだろう。
一枝、手折るのも悪くはない。
曹丕には、手に入らなかったものがある。
どうしても欲しかったものがある。
春が来ると思い出す。
二度と手に入らないのだ……と。
後悔している。
欲しかったのは『後継者』としての立場ではなかった。
それは……違ったのだ。
一番、欲しかったものが手に入らないから、代わりに欲しいと思っていたものだったのだ。
それに気がついてから、悔やむことが増えた……。
けれども……。
曹丕は、それほど苦しまずにすんでいる。
耐え難いほどの痛みでは、ない。
曹丕は立ち上がった。
つられるように、甄姫も立ち上がる。
「甄は、どの枝が好きだ?」
青年は尋ねた。
「我が君がくださるものは、どのようなものでも、宝物ですわ」
甄姫は微笑んだ。
「では、この院子で一番、美しい花枝を探すとしよう」
曹丕は妻に手を差し伸べた。
白い手がそれに重なる。
「はい」
甄姫はうなずいた。
辛くないのは……ひとりではないからだ。
分かち合うことのできる存在が、すぐ傍にいるからだ。
曹丕は微笑んだ。
※旧暦1月23日は、新暦では3月15日(参照:ウィキペディア)。