夜が静々と更けていく。
高きも低きも一様に、眠りの世界へと誘われる刻だった。
月が冴え澄むこともなく、星が煌きすぎることもない。
茉莉花の香りを乗せた風が穏やかに簾を動かす。
心地よい眠りを約束するような夜であった。
けれど、曹魏の都の城の一室には、明かりが灯っていた。
手を伸ばし抱き込もうとする夜闇を拒むように、蝋燭の炎が灼々と揺らぐ。
指折り数えてみれば片手では足りないほど、部屋は夜を知らない。
度を越えた打ち込みように、その部屋の主の夫人は、愁眉を解くことができなかった。
「我が君」
甄姫は邪魔にならぬように、そっと声をかけた。
書卓の上には、所狭しという様子で、竹簡が積まれている。
これから、まだ読むのだろうか。
それでは太陽が朝をつれてきてしまう。
学のない身でも、容易に想像できてしまう量だった。
民に慈愛を施してやるのは立派な務めではあるが、仕事に夫を取られたようで面白くない。
賢夫人といった外面の良さに反して、甄姫の内側というのは単純にできていた。
「どうした?」
昼とは違う明かりの中、より青みの強く見える瞳がようやく向いた。
未来を見据える二つの宝玉は、とても美しかった。
自然と心が弾む。
けれども、今日は覚悟をしてきたのだ。
甄姫は己に言い聞かせる。
多少、不興を買うだろう。
それでも、今夜こそは……。
生身の人間には、限界があるのだ。
「そろそろお休みになったほうが」
「もう少しだ。
先に休んでてかまわない」
甄姫の言葉を遮り、曹丕は言う。
予想通りの答えだった。
常ならば、引き下がるところだが今夜は違う。
甄姫は畳みかけるように、説得に当たろうとしたが、夫の仕草が目に入った。
曹丕は眉をひそめ、不快そうに己の喉を押さえる。
「我が君……?」
「いや、大丈夫だ」
「ですが」
「今日中に、形にしておきたい」
無意識なのだろう。
曹丕はしきりに首筋をなでる。
風邪が喉に入ったのだろう。
できるだけ休ませなければならない。
甄姫は、竹簡の山を卓の端に追いやった。
「明日に回してくださいませ」
蒼焔の瞳が甄姫を見上げる。
警告を口にする前、自覚を促すように、間を取るのは夫の癖の一つだった。
冷たい眼差しに多くの者は屈する。
しかし、甄姫は違う。
「風邪が悪化いたしますわよ」
矜持が女人に笑みを浮かべさせる。
非のつけどころのないような、華やかな作り笑いだった。
「わかった」
ためいきと共に、曹丕は言った。
◇◆◇◆◇
翌朝。
心地よいまどろみの中、陽光を感じた。
寝過ごしただろうか。
夫の朝は早い。
ぬくもりは消えていると知りながら、未練がましく寝台を撫でる。
甄姫は目を見開き、跳ね起きた。
傍にいてくれた喜びよりも、先に不審が胸を満たす。
真白な光の中、呆然としている夫の横顔を見つけた。
「我が君?」
ただならぬ様子に甄姫は曹丕の肩にふれる。
灰色の瞳が甄姫を見つめる。
唇が動く。
見慣れた動きに、深い音がなかった。
かわりに風の音のような音がした。
「……声が」
昨日しきりに喉を気にしていた。
声が枯れてしまったのだろう。
「失礼」
身を乗り出し、夫の額にふれる。
次の瞬間、力強く手首をつかまれた。
夫の表情は、不快、というよりは困惑が強かった。
ふれられることに慣れていない……?
甄姫は目を丸くする。
そういえば大きな病を得たことがなかった、と聞く。
熱を額で測られた経験も少ないのだろう。
また新しい一面を知ることができた。
「特に熱はないようですわね」
甄姫は微笑んだ。
典医が呼ばれたのは、曹丕の身支度がすべて済んでからのことだった。
病人らしく、寝台で横たわったまま診察を受けても良いと思うのだけど、どうにも自尊心が傷つくようだった。
朝議に出るように、威儀を正した姿に、呼ばれた初老の典医は、あっけに取られる。
診断は『風邪による声枯れ』。
薬湯を飲み、今日一日喉を労われば、快復に向かう。
できるだけ声を発しないように。
典医は処方箋を書きながら、苦笑する。
「きちんとお休みになられたほうがよろしいでしょう」
一礼をして退がる。
それに入れ違うように司馬懿が入室した。
事情はすでに聞き及んでいるのだろう。
曹丕の顔を見るなり、有能な軍師はためいきをついた。
「今日のところは、ゆっくりとお休みください。
くれぐれも話さないように。
長引かれると不具合が出るでしょうから。
一日ぐらい政務が滞ったところで、我が朝は沈んだりはいたしません。
安らかなお気持ちで、ご静養ください」
口を挟ませない勢いで痩身の男は言う。
ありありと不満を浮かべながらも、曹丕はうなずいた。
嫌味のひとつでも言いたかったであろう軍師は、素直な態度に面食らったのか、それ以上何も言わずに退出した。
「お休みなんて、久しぶりですわ。
我が君とこうして時間を過ごすのも、たまにはよろしいですわね」
甄姫は書斎からお目当ての物を持ってくると、卓の上に並べる。
絹のように美麗な紋が浮かぶ硯は、華美な彫がない分、味わい深いものだった。
汲みたての水で、円を描くように墨をする。
凛とした香りが立つ。
黒々とした墨が陸から海へと流れていく。
甄姫は墨をすり終わると、紙と筆を夫の前に置く。
文房四宝は、持ち主によく似ている。
好みが反映されるためだろうか。
視線を感じ、甄姫は顔を上げる。
灰色の双眸が不思議そうに、甄姫の様子を見守っていた。
「筆談いたしましょう」
甄姫は曹丕の向かい側に座る。
曹丕は紙に『是(はい)』『不是(いいえ)』と書く。
「返事は完璧ですわね」
クスリッと甄姫は笑う。
楽しい時間は、光のように駆け抜けていく。
雲が日をさえぎったのかと思い、外を見やれば、光線は淡く。
太陽が空を染めていた。
卓の上に重ねられた紙の束が今日の会話だ。
いつもより、夫は多弁だった。
流麗な筆跡を目で追う。
時に見つめあい、微笑みを交わす。
話さなくても、会話はできる。
幸せな時間だった。
「お疲れでしょう?
そろそろ、おしまいにしなくてはいけませんわね」
甄姫は紙の束をまとめる。
あとで、螺鈿が美しい箱にしまおう。
こうして手元に残る会話も、良いと思う。
『新しい紙を』
曹丕は手元の紙に書きつける。
まだ書ける場所も残っているのに、珍しい。
怪訝に思いながら、新しい紙を卓に乗せる。
たっぷりと墨を吸った筆は、紙に文字を記す。
手元を覗き込んでいた甄姫は、やがて微笑んだ。
「これをいただいてもよろしいでしょうか?」
曹丕は『是』の文字にふれた。
「ありがとうございます。
一生の宝といたしますわ。
墓まで持っていきます」
甄姫は紙を抱きしめる。
『ありがとう
愛している』