「ずいぶん幸せな夢を見ていらしたようですね」
夢の中よりも、幾分かしっとりした声で女人は言った。
あの頃の小鳥のように澄んだ声も懐かしかったが、普段から聴くのならこちらの方が耳に心地よい。
友雅は微かに笑みを刷く。
「幸せ。
……ああ、確かに幸せな夢だったよ」
思い返すほど懐かしい夢だった。
半年という歳月の中で駆け抜けた時間だった。
それまで過ごしてきた退屈な時間よりも。
その後、迎えた寂寞とした時間よりも。
刺激的で、新鮮で、得難い時間だった。
あの時間を過ごしていなければ、今の自分はいなかっただろう。
「どんな夢を見ていらしたのですか?」
北の方と呼びたい唯ひとりの女人はこの季節にふさわしく、切ないまでの哀愁を漂わせて尋ねる。
五月雨のように、細く、乱れた声。
取り乱すまでは至らないけれども、不安げな声だった。
夢と現は地繋がりである。
占いをよくする女人であれば当然のことだろう。
友雅は瞳を開いて女人を見た。
星を宿したような大きな瞳は心配そうな光を宿していた。
棟の隅の部屋であるから、咎められないけれども、二人はだいぶ端近にいた。
御簾の外へ出て庇にいる。
うっかりと陽気に釣られて午睡をしてしまったのが悪いのかもしれない。
普段なら見ない夢を見た。
過去を振り返るほど面白みのない今を過ごしているわけではない。
ましてや唯ひとりと想う女人の元へと訪れている時に眠るだなんて時間の無駄遣いだろう。
友雅は手を伸ばして、女人の長い髪を一房、手に取る。
絹のように艶やかな髪は豊かで、麗しかった。
丁寧に手入れされたそれは、極上の手ざわりがする。
「貴女の笑顔を思い出していたよ。星の姫君」
友雅は言った。
あの時期は笑顔よりも怒らせていたばかりだったような気がする。
歳も身の丈も逆転したような兄妹関係だった。
稚い少女を始終、怒らせては、楽しんでいた。
大人、という窮屈な枠から逃げ出したかったのかもしれない。
無責任と言われればそれまでの、他愛のない児戯だった。
いつまでも子どもではいられない。
それを知っていながら、童のように振る舞っていた。
「まるで私が笑顔でいないようですわね」
藤姫はそっとためいきをついた。
歳相応の愁う姿だった。
「貴女が笑顔でいられるように努力はしたいのだけれど、こればかりは難しい。
いつだって気には掛けてはいるんだよ」
友雅は言った。
出会った頃から、気になる相手だった。
恋かどうかもわからぬ頃から、ずっと気には掛けていた。
「お上手ですわね。
友雅殿は唐猫のように自由ですもの。
そのように想っていらしたとは意外ですわ」
藤姫は言った。
「貴女に嘘偽りを言う口は持ち合わせていないよ。
信じて欲しい、と言ったところで前科がありすぎな気もするけど」
友雅は何となく物足りなくなりながら、手の中の髪を開放する。
上体を起こして、女人を真っ直ぐと見た。
「ご自覚はあるのですのね」
藤姫は言った。
「本当だったら我が宿に迎えたいと思っているんだよ。
内裏から帰ったら貴女の姿を見ることができる。
老い先短いからね。
そんな贅沢な時間を味わいたい。
とはいえ、この藤の権力には橘には眩しすぎる」
友雅は微苦笑した。
女人の元へ通うことを許されているだけ良い方のなのだろう。
身分がものを言う時代だ。
たとえ後見のない末姫であっても、最愛の藤の花の名を与えられた姫君だった。
高嶺の花。
手を伸ばすことができるだけでも幸運だろう。
友雅が八葉であり、霊力があるからこそ認められているだけだった。
他の八葉であっても、星の一族の藤姫が望めば婿として迎えられただろう。
友雅よりも身分の高い貴公子が望めば、正式な北の方とすることもできただろう。
「権力を笠に着るつもりはございませんわ。
お母様が愛した場所だけに、離れるのが心残りなだけです。
友雅殿がお寂しいとおっしゃるのなら……」
藤姫が考えこむように瞳を半ば伏せる。
「ここには神子殿との想い出もあるだろう。
貴女が気のすむまでここにいるといい。
藤の花、というのは手間のかかる花だ。
野に咲く花と同じ扱いをするわけにはいかない」
友雅は言った。
「私は甘やかされているばかりですわね」
藤姫は吐息のように呟いた。
「貴女ぐらいの女人なら、それぐらい気位が高くてもかまわないだろう。
容易く打ち解けられても味気のないことになる。
それとも貴女が不安になるほど夜離れをしているだろうか?」
友雅は苦笑した。
当代きっての風流人も藤の大臣には逆らえない。
そう囁かれるようになって久しい。
噂話とは相も変わらず適当で、かしましい。
真相を知っているのは当人たちだけであろう。
今のところは、友雅は充分だと思っていた。
「そのようなことはございません」
藤姫は頬に手を置き、白い頬を赤く染めて答えた。
ちょうど穿いている袴のように紅色に。
友雅は機嫌よく目を細めた。